2024年12月16日月曜日

万寿3年(1026)~万寿4年(1027) 太皇太后彰子出家、上東門院の号を与えられる 10月 皇太后妍子(34歳、道長の娘)、歿。 道長「御ともにゐておはしませ」と号泣(『栄花物語』)

江戸城(皇居)東御苑 天主台 2013-05-15
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万寿3年(1026)
この年
・島津荘の起源
摂関家所領のうち、その後、高陽院領となる荘園には、日向・大隅・薩摩三国にわたる広大な島津荘もあった。
島津荘は、この年、大宰大監(だざいのだいげん)平季基と弟平良宗が日向国諸県郡島津院を開発して関白頼通に寄進したことが起源である。
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1月19日
太皇太后彰子が出家、落飾し法名を清浄覚とする。
同日、東三条院詮子(一条天皇母后)の先例にならって女院号を与えられ、上東門院を称した。
後年、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院ともいう。

太皇太后(藤原彰子)は御出家される。そこで上東門院(土御門院)に参った<宰相(藤原資平)は車後に乗った>。・・・渡殿の簾中に於いて謁談した。起って太后の御出家について語った。涕泣は雨のようであった。
「(後一条)天皇がおっしゃって云(い)ったことには、「(藤原彰子の)太皇太后宮職を停めて、上東門院とするように。・・・」ということだ。」
『小右記』万寿3年(1026)1月19日条

女院となってからも上東門院は内裏に出入りしているが、毎年朝覲行幸が行われ、女院が太上天皇に准ずる地位であったことがわかる。
ただし、女院となることは后位を退くことであり、皇太后・太皇太后時代は常に天皇の側にいて摂関とともに天皇を補佐していたのが、離れた所から天皇へ影響を与えていくようにその立場は変化した。
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8月8日
・この年、定朝が、後一条中宮威子の御産祈祷にため、27体の等身仏(釈迦尊・七仏薬師・六観音・五大明王・六天)を造った。
「作米千石、尺九寸(約58cm)木十三枝余、七八寸卅余枝、二寸半板百枚、砂金百六十余両、鉄百卅余延」(『左経記』この日条)
必要な料物と材料が柱の太さで注文されていることがわかる。

また、約2ヶ月弱で仏像が造られて、安置の際には康尚以下21人の大仏師と、その下に各5人の計105人の小仏師に賜禄されていて(『左経記』10月10日条)、大規模な仏所が組織されていたことがうかがえる。
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11月
・越前国気比宮神人、陽明門で加賀守但波公親を訴える
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万寿4年(1027)
1月
・中御門大路、富小路から出火した火災が延焼し、法興院、安養寺が焼亡。あわせて「千余家」が焼亡(『日本紀略』)。
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5月
・この月、道長の男子で出家していた顕信が無動寺で没す。
顕信は、長和元年(1012)正月、自ら右馬頭の官を捨てて比叡山に入って出家した。
この頃から、道長の娘の皇太后妍子が病を発し、道長自身も故障がちである。
妍子の病は不明であるが、数々の修法にもかかわらず病状は進む一方で、道長も食欲を失って衰弱しつつあった。
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9月14日
・皇太后妍子(34歳)、歿。
9月3日、妍子は十中九まで絶望といわれ。そして、14日、髪を切って出家の姿となり、即日没した。
『栄花物語』によれば、妍子は8月に枇杷殿から法成寺に移っていた。
9月14日朝、衣を改めて父道長を呼び、手まねで髪を切るさまを示し、道長は泣く泣くその用意を整えたという。没したのは申の刻(午後4時)。
道長は、「御ともにゐておはしませ(一緒につれて行ってください)」と号泣したと伝えられる。
(寛子、嬉子に続いて)重ね重ね、子に先立たれた悲しみが、衰えた道長に最後の打撃を加えた。
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10月28日
・皇太后妍子の七々日忌が法成寺阿弥陀堂で行なわれたが、道長は既に法事に列座することもできなかった。
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