2013年2月27日水曜日

寛仁3年(1019)2月~3月 藤原道長(54)の出家 刀伊の入寇(Ⅰ.女真族、対馬・壱岐を襲撃)

江戸城(皇居)東御苑 カンザクラ 2013-02-26
*
寛仁3年(1019)
2月
・この月、数ヶ月間精進物しか食べなかった道長は、眼病が重くなって2~3尺離れた人の顔すら見分けにくくなったので、医師や陰陽師の勧めにより、魚を食べることにした。
彼にとっては残念千万であったらしく、仏に50日間のお目こぼしを願ってから食べている。
日記に、「これただ仏法の為なり、身の為に非ず」と記す。
*
2月3日
・京都の放火・強盗
3日、京の東南方に火が見え、23日夜は群盗が故為尊親王の妻の中御門邸付近を荒らす。
*
3月14日
・京都の放火・強盗
14日夜、内裏の東宮御座所の凝華舎の西の廊下に放火、発見が早く叩き消すことができた。
17日、穀倉院の倉が2棟焼失。
月末、群盗が常陸介藤原惟通の先妻の家に放火し、娘が焼け死んだ。
*
3月21日
・藤原道長(54)、胸病が重く土御門第で出家。戒師は院源で、法名は行観(のち行覚に改めた)。
この月、胸病の重い発作が道長を襲い、彼は剃髪出家を決意。
21日、延暦寺の僧院源を招いて戒師とし、行観(のちに行覚)の法名を得た。
発作は月末には収まるが、実資によれば、「容顔老僧の如し」という状況で、彼の心境は、急速に来世に傾いていったと察せられる。
朝臣は土御門邸に続々と集まり、太皇太后・皇太后・中宮など、道長の3女もお見舞の行啓があった。
彼がその居邸である土御門邸のすぐ東に、壮麗な法成寺を建立する決心を固めたのは、この頃であろうと思われる。

『御堂関白記』には3月17日までは詳細な記事があるが、以後は翌年(寛仁4年)にも僅かな記事があるだけで、その翌治安元年は、9月1日条「念仏を初む、十一万遍」など、5日まで念仏の回数が書かれているだけ。
道長は、出家後も頼通に指示を与えて政治的に大きな力を持ち続けたが、日記は出家とともに終わったと言える。
日記は、官人として公事を記録し、子孫に拠るべき先例を伝えるためのものであるというその本質が見てとれる。
*
3月28日
・刀伊の入寇。
女真族、対馬・壱岐・筑前に来襲。
大宰権帥藤原隆家ら奮戦して撃退。

刀伊の襲来は3月末、賊船50隻による対馬・壱岐の襲撃に始まった。
対馬は、3月28日付で急を大宰府に報じている(この日、突然の攻撃があったと思われる)。
被害は甚大で、壱岐守藤原理忠(まさただ)は死に、対馬守遠晴(姓不明)は難を逃れたが、対馬からの急報は4月7日、大宰府に到着した。

一方、壱岐島分寺(とうぶんじ、国分寺と同じ)の講師常覚(じようかく)は、三度にわたって賊襲を撃退したが、ついに数百の敵に抗し得ず、単身逃れて同じく7日午後に大宰府に着いた。
大宰府はこの時初めて賊難を知ったが、その日、賊船は筑前怡土(いと)郡(福岡県糸島郡)に襲来し、志麻郡・早良郡などを掠め、暴れ廻った。

「それ賊徒の船、或いは長さ十二箇尋、或いは八、九尋、一船の檝(かい)は三四十人許り、乗る所五六十人、二三十人は刀を耀し奔騰(ほんとう)し、次で弓矢を帯し楯を負ふ者七八十人許り相従ふ」。

彼らの船は長さ8尋~12尋くらいというから、平均15mぐらい。櫂(かい)を30~40も並べ、非常に速く、50~60人を乗せるという。
上陸に際しては100人ばかりで一隊をなし、みな楯を持ち、前陣20~30人は鉾や太刀を持ち、これに弓矢を持った70~80人が従い、この類のものが10隊、或いは20隊と荒れ廻り、山野を駈け巡って馬や牛を斬っては食い、犬も殺して食う。
手当たりしだいに人を捕えて老人・子供は全て斬殺し、壮年男女はすべて船に追いこみ、穀物を奪い、民家を焼いたという。
壱岐島は、400人の島民が殺されたり捕えられたりして、残る者わずかに35人に過ぎなかったという。

■大宰権帥藤原隆家
伊周の弟で、花山法皇に矢を射かけて伊周左遷の原因を作った張本であるが、罪を許されて帰京。その後、出仕してからは政界に活躍することはなかったが、豪傑で、独特の風格をもって毅然とした態度を取り、人々に畏敬されていた。
道長の妨害を受けて実資が苦心した長和元年(1012)の娍子立后の際にも、その儀に参列した数少ない公卿の1人で、皇后宮大夫として娍子の世話を引き受けた。
しかし、その年冬頃、彼は目を突いて、それから眼を患ったらしい。
長和2年(1013)2月には皇后宮大夫も辞任して引き籠り、熊野詣などもして治療に努めたがはかばかしくなかった。

その頃、九州に宋の名医がいると聞いて、九州に行きたいと思ったらしい。
たまたま長和3年(1014)2月に大宰大弐平親信が辞任し、大宰府に空席が出来たので、彼は熱心に大宰権帥の任を望み、仲のよい実資にもそのことを語っている。

大宰帥(大宰府の長官)には親王が任ぜられるのが例になっていたが、これは名ばかりで、赴任せず、現地に赴いて実際の長官となるのは権帥か大弐であった。
大宰府は、九州全体を統率する小朝廷であり、外国貿易の利得も多く、都落ちの形とはいえ景気のよい官であった。
菅原道真、源高明、藤原伊周の例のように、大宰権帥は大臣を左遷するときの官名としても使われるが、この様な左遷の時の権帥任命には、実務には関与すべからずとの但し書きのついた命令が出て、待遇も罪人扱いになる。

その年6月、隆家は、僧清賢に砂金10両を持たせて九州に眼の薬を買いにやらせている。
清賢はそのとき実資にも子供のための薬を手に入れるように頼まれて、その代わりに実資の手配で早船を世話してもらい、九州で宋から来た医僧の恵清(えじよう)から薬を買って帰京している。隆家が聞きつけたという名医は、この恵清のことであろう。
この時の大宰府の空席には希望者が多かったが、11月7日、隆家は望みどおり大宰権帥に任ぜられた。

そして翌長和4年(1015)4月21日、参内して赴任する旨を奏上し、正二位に叙せられ、諸方から砂金150両・馬3疋をはじめ、多くの餞別を受けて任地に赴いた。

彼の九州での治績は不詳であるが、問題の多い大宰府ではあるけれども、彼の在任中、時に事件は見当たらない。
大宰権帥の任期は5年で、彼はその最終年にこの刀伊の事件に当面した。
『大鏡』には、彼が善政を施すとて、九州こぞって従ったとあり、多いに人望を集めていたらしい。
隆家が大宰府官人や豪族を率いて賊に対したことは、当時としては最良の条件を備えていたといえる。

隆家はなかなか気骨のある人物であったようだ。
ある日(寛弘年間か)、道長が土御門第の宴会に隆家を呼んだところ、みな服の紐を解いて盛り上がっているところに、隆家が遅れて正装でやって来た。「早く御紐を解かれなさい」と道長が言うが躊躇っていたので、ある人が「解いてやろう」と言うと、「隆家は不運な身だが、おまえらにそんなことをされる身ではない」と気色ばみ、道長が「まあまあ」と自分で紐を解いてやり、宴に興じたと『大鏡』に伝える。
道長も彼に一目おいていた。
*
*

0 件のコメント: