2024年12月16日月曜日

治安4年/万寿元年(1024)~万寿2年(1025) 赤斑瘡(麻疹)が流行 道長、二人の娘(寛子、嬉子)を失い、悲嘆極まりなし 

江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-05-08
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治安4年/万寿元年(1024)
7月13日
・万寿に改元
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万寿2年(1025)
・この年、赤斑瘡(麻疹)が流行
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1月10日
・頼通(34歳)に初めて子どもが生まれる。子はのちに元服して通房と名付けられた。母は源憲定娘。通房は生後まもなく祖父道長の土御門第で養育されることになった。
『栄花物語』などによると正室の隆姫が嫉妬深く手元に置きたがらなかったとう。
通房は13歳で従三位、18歳で権大納言になるなど頼通の後継者として順調に官位を進めていたが、長久5年(1044)年、突然の病により没した。
頼通は18歳の時、寛弘6年(1009)頃、具平親王の娘隆姫と結婚したが、子どもができなかった。
そのこともあって、妻隆姫の弟源師房(もろふさ)と自らの弟教通の長男信家を養子にしていた。また、源顕基や源俊房も養子となった。
これらの養子は頼通が自分の跡継ぎを得るためのものではなく、一族の子弟を後見したり、養子を通じて親族関係を結び、その結合を強化するためであったとされている。
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2月9日
・行成が先月の踏歌節会(とうかのせちえ)での大納言藤原斉信(ただのぶ)の失錯を扇に記しておいたところ、誤って披露され、斉信にひどく怨まれた(『小右記』この日条)。
行成は「暦に記さんがため、先づ扇に注す、彼の日の事を忘れざらんがため」という。
彼の日記『権記』は、毎日の政務が客観的に記されて有名である。公事の失錯は厳しくチェックされて日記に記されていた。
のちに「古今著聞集」「古事談」にとられた有名なエピソード。
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7月9日
・小一条院女御藤原寛子、没。
寛子は久しく病気がちで、ことにこの数ヶ月は食欲を失い、衰弱の末、7月8日に髪を切って尼の姿となり、翌日没した。
彼女の病は、夫を奪われて憤死した前女御藤原延子や、その父左大臣顕光の怨霊によるものと信じられている。
『栄花物語』には、寛子の死に際してこれらの「もののけ」どもが勢いづき、同音に「いまぞむねあく(やっとさっぱりした)」と叫んだと記されている。
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8月
・この月、大納言藤原斉信は、娘が出産に際して麻疹に罹り、危篤状態となった時、一生魚鳥を食わぬという誓願を立てる。
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8月3日
「申(さる/午後3時~午後5時)の終剋の頃、左衛門尉(宮道)式光が馳せて来て、云(い)ったことには、「尚侍(藤原嬉子)は男児(王子親仁)を産みました。後産(のちざん)については未だ遂げられていません」と。」(『小右記』万寿2年(1025)8月3日条)
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8月5日
・東宮敦良女御藤原嬉子(19)、没
道長は相次いで2人の娘を失う。
嬉子は、臨月に赤斑瘡をわずらい、8月3日、かろうじて王子を出産したが、そのまま危篤の状態に入って5日、歿した。
寛子の母は源明子、嬉子の母は源倫子であったが、僅か1月足らず2人の娘に先立たれたことは、これまでそのような不幸を味わうことのなかった道長にとって、深刻な嘆きであった。

宰相(藤原資平)が帰って来て云(い)ったことには、「未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時)の頃から、鬼籍に入ったようです。(藤原嬉子は)遂に入滅しました。諸僧は分散しました」と云うことだ。(『小右記』万寿2年(1025)8月5日条)
早朝、上東門院(土御門院)に参り向かった。立ったまま、源宰相朝任に相対した。退帰した。禅閤(藤原道長)・北方(きたのかた/源倫子)・関白(藤原頼通)・内府(藤原教通)は、同処に於いて悲泣していた。『小右記』万寿2年(1025)8月6日条

嬉子の遺骸は7日、入棺の上、車に載せ、土御門邸を出て法輿院の北の僧房に移されたが、道長、関白頼通以下、藁履(わらぐつ)をはいて歩行してこれに従った。女房たちの悲泣の声は絶えず、道長の悲嘆きわまりなく、天下の男女は空をあおいで嘆息したと記録に見える。道長は尚諦めきれず、嬉子が生き返るという夢を見て魂を呼び戻そうと種々の秘法を行なわせた。
その間、同じく道長の娘である中宮威子、さらに後一条天皇が、相次いで赤斑瘡に罹っている。
ここにも例によって顕光や延子の怨霊が現れ、人々の恐怖・混乱は容易に静まらなかった。

9月21日、嬉子の七々日の法事が法成寺阿弥陀堂で行なわれ、実資も参列して、やがて道長とも対面したが、道長は絶えず涙を流し、その言語もよく聞きとれなかったという。
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12月18日
・『小右記』に書かれた平維衡の常陸介在任中の国守ぶり。
『小右記』この日条に、維衡の後任藤原信通の書状が引用されている。

それによれば、前司維衡以往の常陸国内作田は僅かに300町で、「人民飢餓」「国いよいよ亡弊」という状態が現出していた。
また、万寿元年常陸国の相撲人公侯(きみこべ)有恒が、何者かによって殺害された。
維衡が、犯人は同族の常材(恒木)なる人物だと言上すると、常材は国守維衡が犯人だと切り返した。
真相は、任期切れ直前の維衡が有恒らを殺害し、彼の妻を責めて犯人は常材と言わせたところにあるらしい(『小右記』万寿2年7月21日条)

維衡は当時の受領国司一般と少しも変らぬ、無道な収奪吏であったことを暗示している。
彼は、国内に盤踞する同族常陸平氏(貞盛の弟繁盛の子孫たち)になにがしかの便宜を与えながら、彼らの協力をえ、常陸国内支配を実現したと推測できる。
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