2024年12月16日月曜日

寛仁4年(1020)6月~寛仁5年/治安元年(1021)4月 「無量寿院講堂の礎を上達部曳くべし。・・・近日、疫病方発し、下人死亡す。遺りたる民無かるべきに似たり。万人悲歎す。誰人を以て曳かしむるか」(『小右記』)

江戸城(皇居)二の丸雑木林
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寛仁4年(1020)
6月14日
・この日付け『左経記』。
関白内大臣頼通が病気により関白と随身を辞する上表を奉じ、不許可の勅答が下ったとある。
この上表と勅答は太皇太后彰子に覧じられた。
これらの文書は本来関白頼通へ申上されるべきものであるが、関白自身の辞表であるため、代わりに太皇太后彰子へ覧じられた。
後一条天皇が元服した後も、母后は関白とともに天皇を補佐していた。
この時期には、太皇太后彰子は内裏にいる時でも後一条天皇や東宮敦良親王(後一条弟、母は彰子)から朝覲を受けており、上皇待遇であった。
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7月
・この月、道長、頼通の病いのため実資と共に法性寺五大堂に籠る。
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8月3日
・畿内5国を中心として、鴨川堤防の築造が国々に割りあてられ、その受領が築造の費用や人夫を負担した。
この日、近江守源経頼は、堤の造成の様子を次のように記す(『左経記』)。
「午剋(うまのこく)をもって防河の事を始む。官史忠信、史生以下を率いてその所に臨み、国々に分ち充て験札(けんさつ)を立つと云々。近江の所当は、川合社西、賀茂下社以南の堤百七十丈、これを築くべし。・・・」
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10月14日
・この日の春日社行幸には、母后(太皇太后彰子)は天皇と同輿している。
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10月16日
「「入道大納言(藤原道綱)が、昨夜、入滅した」と云(い)うことだ。」(『小右記』寛仁4年(1020)10月16日条)
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12月3日
・平維衝(伊勢平氏の祖)は、藤原実資とも主従関係を結ぶようになっている。
この年、彼は常陸介として赴任するにあたり、実資より餞けとして馬1匹を与えられた。
実資は、自分は維衝の赴任日を知らないが、「家人たるの上芳心有るにより兼日遣はす所なり」と述べている。
馬を引いていったのは維衝の郎等の通政という人物であった。実資は通政を「我か僕」と呼んでおり、維衡と実資は従者を共有する関係にあった(『小右記』12月3日条)。
こうして彼は、道長・顕光・実資といった政界有力者たちと、それぞれ別個に主従関係を結ぶようになった。
維衡が受領を歴任しえたのも、これら政界有力者たちとの関係によってであり、『尊卑分脈』によれば、彼は上野・常陸・伊勢・陸奥・出羽・伊豆・上野・佐渡の国守に任ぜられている。
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閏12月13日
・平維幹(常陸大掾氏の祖)の子為幹が故常陸介藤原惟通の妻を強姦するという事件が起きたが、為幹は、実資の指示により、密かに平維時のもとに預けられ(『小右記』寛仁4年閏12月13日条)、結局、罪に問われることはなかった(『小右記』治安元年12月26日条)。
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寛仁5年/治安元年(1021)
この年
・道長「御堂関白記」記述終了
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・寛仁2年(1018)、道長は奝然が宋からもたらし、没後建立された清凉寺に納められていた宋版一切経を半ば収奪するようにして自邸に納め、この年、前年に供養した法成寺経蔵に収納した。
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1月24日
・藤原実資の養子資頼が伯耆守に任命されて赴任する際の記事。
資頼は、この日の県召除目において伯耆守に任じられ、26日に入道殿(道長)・関白殿(頼通)のところへ挨拶に行っている。
2月2日、赴任に当たり頓料(とんりよう、挨拶の品)の麻100端(たん)を入道殿(道長)の元へ奉じている。
さらに、「一、恒例の神事を勤仕すべき事、一、農桑を催し勧むべき事、一、早く国内の濫行の輩を制止すべき事」の三事からなる庁宣を在庁官人・書生らへ下した。
前司藤原隆佐からは分付帳(国司交替に際して作成される帳簿)が届き、馬などが贈られて来ている。
3月7日午時(正午頃)に出発。出発に際して、陰陽師の安倍吉平が道中の安全を祈る反閇(へんぱい、特殊な足の踏み方をする呪法)の儀を行った。
また、当日早朝、実資は資頼に対して絹の装束と絹40疋が納められた衣櫃1荷と馬4疋を贈っている。
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2月2日
・治安に改元。辛酉革命に当たるため改元。
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2月29日
・この日付け『小右記』に、実資の養子資平の言葉として「無量寿院講堂の礎を上達部(公卿)曳くべし。上上臈は三果、下臈は二果、てへり。二百余人を以て一果を曳くべし。二日に引き着くべしと云々、てへり。是れ鴻臚(館)の石と云々。近日、疫病方発し、下人死亡す。遺(のこ)りたる民無かるべきに似たり。万人悲歎す。誰人を以て曳かしむるか」とある。
講堂の礎石を公卿に据えるように割り当てたが、一つの礎石を据えるのに200人必要で、2日間で行わなければならず、当時疫病が流行して礎石を曳かせる下人(民衆)がいないような状態であるのにと嘆いている。
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4月27日
・この日の夜、道長の次男教通(17)は四条大納言藤原公任の娘(13)と結婚した。
式は公任の姉太皇太后遵子の御所の西の対(たい)で挙げられ、公任は婿教通の世話に一生懸命であった。日常の世話はもとより、朝儀に詳しい彼は婿教通のために作法の心得を記して参考にした。彼の著書で儀式の書として名高い『北山抄』は、このような婿のための指導書を一部分として出来上がったものである。
公任には定頼などの息子もいるが、それに対してはこのような心遣いは見せていない。
朝廷で教通がちょっと体のぐあいが悪いといって退出すると、公任もすぐ後を追って中座退出することは再三で、その婿に対する気の使いかたは大変なもの。
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