明治17(1884)年11月3日
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●田代栄助、皆野村に進出。
大宮郷本営の田代栄助は、甲乙両隊の独断専行に不満を抱き、荻原勘二郎の「寄居、熊谷警察署及ビ電信、鉄道ハ己ニ破却シ、中山街道恰モ人ナキガ如シ」との報告にも「心窃ニ疑フ」が、「部下ノ衆、之ヲ聞キ、大ニ勢ヲ得、命ヲ待タズシテ出発」したので、前進を決意し、午前9時頃、井上伝蔵・宮川津盛ら側近と護衛数10名を率い皆野村に向い、正午頃、乙隊の本営「角屋」に入る。
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栄助は、ここに主力の集中する事を決意し、群馬県から来援の新井貞吉と、自分の倅八作に対し、大宮郷に残置した兵力を纏めて皆野に連れてくるよう命じる。
2人は急いで大宮郷に戻り、この夜は妙見の森(秩父神社のこと)で夜を明かす。4日朝、入方(荒川上流地域)の大滝村で困民軍の背後を脅かす動きのあることが伝えられ、貞吉と八作は、大宮郷の残置兵力は後方の固めのためこのまま置く必要があると判断し、2人だけで皆野に戻り栄助に報告。栄助は、「大滝ノ方ハ構ハズト置ケ」と、やはり大宮郷の兵力の皆野村進出を指示。
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●皆野村での高利貸し打毀し、軍用金徴収、狩り出し。
皆野村ではまず、高原耕地の高利貸金子利吉を打毀す。
軍用金は、柴岡熊吉が質屋兼荒物商金子谷蔵方から80円を徴収し、上州の横田周作や「東京の先生」千本松吉兵衛らが、大店の升屋から50円、その裏の家から30円を徴収し総理に提出。
金崎村聯合(金崎村・大淵村・下日野沢村・金沢村・矢納村)に対し聯合戸長役場を通じ、根こそぎ動員を働きかる。
金沢村の学務委員若林寿一(56)は、午後7時頃、「学務上ノ用」があって村の用掛宅に向う途中、抜刀の困民党兵士8人に脅迫されて狩りだされる。親鼻の警備につくと、そこには坂本宗作指揮の300人ほどが陣を張っていた(「若林寿一訊問調書」)。
狩り出しにより、3日午後から夜にかけて、皆野の困民軍兵士は2千人になり、通りは「通り切レヌ程」の賑いをみせ、「大勢ニテ只ガヤガヤ致シ居り」という状況となる(「新井寅吉訊問調書」)。
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・午前9時30分、東京憲兵隊第1陣(春田少尉・隈元少尉)の1小隊、寄居着。
別に第2陣内田少尉指揮の1小隊は1時48分、第3陣小笠原大尉・影山少尉指揮の1小隊は4時48分に、浦和に到着し、この日中に川越・熊谷方面進出。
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「之ヲ以テ吾ガ隊ノ士気昨日ニ倍セリ、然レドモ這(コレ)ハ憲兵ヲ見テ発揮シタルニ非ラズ、利銃ヲ携フルヲ以テナリ、何ントナレバ当時万ヲ以テ数フル兇徒、十中ノ八、九ハ猟銃ヲ携へ、吾ガ警察ニ銃器ナク、頗ル防禦ニ苦ミタルガ故ナリ」(「桶川警察署巡査粕谷清五郎出張復命書」)。
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江夏警部長、吉田県令、春田憲兵少佐、寄居町で今後の作戦を協議。
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賊状判断。
「一 暴徒之員数ハ概ネ千五、六百名計ナラント推測ス、尤モ内決死ノ党ハ百名或ハアルヤナキヤ
一 銃砲ハ古流ニシテ百四、五十挺モアルナラン
一 賊ハ大宮郷ニ於テ徒類ヲ二分シ、一ハ名栗、飯能、所沢ヲ経、一ハ小川、松山ヲ経、川越町ニ相合シ、本県庁署ヲ襲撃シ、東京府下ニ進行シ、暴発セントスルノ見込
一 暴徒ノ主魁トナリタルモノハ、自由党員又ハ博徒及ビ三百代言ノ輩ナリ
一 群馬県下南甘楽郡ノ人民ヲ煽動シ、己レノ徒ニ加ヒ、連絡ヲ固クシ、同所監獄署ヲ攻撃シ、同党員ノ縲絏ニ困ムモノヲ奪去ルノミナラズ、囚徒ヲ同徒ニ入レ、同県庁ニ乱入強奪ヲ究メントスル」
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鎌田警部は、「彼暴徒ハ、皆知ル所ノ如ク本県庁ニ強願スル目的ナラントセバ、必ズ寄居・児玉ノ方面而巳進行スベカラズ、小川・飯能等ノ間道ヲ進行スベキハ勿論ナリ」と説明、これらに基いて「寄居ヨリ憲兵ヲ以テ山中ニ進軍シ、賊徒大宮郷ヨリ逃走スル者ヲ捕獲ノ為メ、小川、越生、飯能ニ手配スル」との作戦計画をたてる。
寄居に集合した巡査192人を、この計画に基いて諸口に配置。
矢那瀬口:巡査30、飯能口:巡査35、小川口:巡査30、越生:巡査30、寄居:巡査30(他に町警備に22)、八幡山口:巡査30。
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・午後2時40分、隈元少尉率いる憲兵隊3半隊と警官40名、偵察のため寄居発。皆野に進む途上、午後4時頃、憲兵・警官が対岸の金崎にさしかかると、親鼻の渡しで三山の銃砲隊(予備兵卒の青年が指揮)が射撃。
隈元少尉は試みに応戦後、本野上に引上げ、日没後、秩父の関門矢那瀬に退き、ここを警備。
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憲兵第1陣1個小隊の3半隊(1個小隊の3/5の兵数)は、警部補重信常潔(26、警察本署・鹿児島県士族)・同福永政布(31、熊谷警察署・栃木県士族)、同坪山需(28、大宮郷警察署・福井県士族)、収税属兼警部補川上四郎助ら若手警部補指揮の巡査30名による警官隊の誘導で、秩父本道を進撃、午後2時30分頃、金崎村・皆野村間の親鼻の渡し場に近づくと、金崎村は暴徒に組したとみえて「人家皆戸ヲ閉テ男子ヲ見ズ」で、荒川対岸の皆野村方向には「白鉢巻ノ暴徒奔走スル」のが望見される。
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困民軍は官兵の動きを、荒川沿いの藤谷淵村を進行中から捕捉。
「十一月三日正午頃、暴徒二十四、五人、村境字人打破崩新道ノ辺迄押来り、憲兵ノ荒川ヲ隔ツル藤谷淵村ヲ進行スルヲ見テ、一時皆野村迄引返」す。
報告を受けた菊池貫平は、親鼻の渡し場に布陣する困民軍に応戦準備を命じる。
対岸の金崎村に官兵が現れるや、「鬨ノ声ヲ挙ゲツ、親鼻津頑ヨリ荒川ヲ隔テ猟銃ヲ雨注」する。
「此日皆野ニ於テハ猟手七、八十人許リアリシモ、諸所ニ配置シテ親鼻ノ戦線ニアリシハ約五十人」という(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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このとき困民軍全般を指揮は参謀長菊池貫平がとるが、射撃の直接指揮は三山村の予備兵卒大河原三代吉(24)がとる。彼は、常備兵役満期の際に支給された軍服を着用し、銃隊50余を散開させ、「火縄銃ハ遠見ニ達セザルヲ以テ、敵ノ接近スル場合ニ於テ連発スベキ事」を指示し、荒川対岸に憲兵を見るや発砲を号令。三代吉は、事件後兇徒聚衆の罪で重禁錮3年6ヶ月に処せられる。
他にも、「銃砲隊ノ大将ハ下日野沢村加藤団蔵ナリ」と言う者もあり、銃撃戦指揮は1人ではなかったようである。
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一方の官兵側は親鼻の渡船場近くまで進むと、「暴徒数百入喊声ヲ発シ、数十ノ鳥銃」を射撃。
警官隊はピストルで応射し、憲兵も散開してスペンセル銃で応戦しようとするが、携行した弾薬が西南戦争当時製造のもので、引鉄を引いても弾が出ない。このため幹部が携帯する短銃で応戦するも、「弾丸賊軍ニ達セズ、却テ賊丸ニ沮(ハバ)メラレ、該川ヲ渉ル事能ハズ、則チ数十分ニシテ戦止メ」本野上村に退き、篝火を焚いて賊を牽制し、夜のうちに矢那瀬と象ケ鼻の渡船場まで後退。
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憲兵隊は、早速東京から新式村田銃(明治13年製造)180挺と弾薬9千発を取り寄せ、4日中に各所に配置の憲兵に配付。配分にあたった郡書記は「兵壮機鋭、殊ニ愉快ヲ覚ユタリ」と言う。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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