■明治17(1884)年秩父(13)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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10月24日
・オルグ活動を終えた田代栄助、この日より日野沢村門平惣平宅に泊り込み情勢分析。
佐久から菊池貫平らの来援は頼もしい情報だが、9月にあれほど大風呂敷を広げた小柏常次郎の群馬側オルグが殆ど進捗せず、また、自分の地元8ヶ村での組織活動もままならず。
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同24日
・薄井盛恭の原南多摩郡長宛書簡。
津久井困民党は、妥協案の内容に不服で、岡部芳太郎(県会議員、のち自由党に関係)・安西庄司(旧中沢村戸長、10月10日自由党入党発表)を代理にたて、仲裁人グループ代表の1人薄井盛恭に面会、仲裁交渉継続を要求。津久井困民党は、11月前後には銀行側妥協案にそって交渉のテーブルにつく。
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10月26日
・秩父困民党、粟野山会議。
自由党中央からの中止指令を廻り、幹部9人の会議の予定が、近隣農民集合しての大会議となる。石見・粟野山で総代会議。
田代栄助・井上伝蔵は決行予定日10月28日の1ヶ月延期主張。否定され、11月1日朝8時下吉田村椋神社集合・11月2日午前2時大宮郷繰出しに決定。
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上州勢小柏常次郎・遠田宇市(33)も出席。田代栄助・加藤織平より群馬側動員体制の弱さを難詰される。
坂本宗作が遠田宇市と共に上州へ派遣。門平惣平・飯塚森蔵は信州へオルグとして派遣決定。
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□栄助と常次郎のの論争。
栄助は、常次郎が「目的外ノ説」を唱え、各地で組織は出来上がっているというのに、人を送って調べると、事実は全く異なっている。いたずらに人を煽動し、即時決行を説くとは何たることか、と常次郎を批判。
常次郎は、栄助が自分に言うには、恩田卯一が秩父に来て、「群馬方ハ鉄砲一、二発モ打テパ忽チ大勢集り押出ス手筈」と、頼もしい話をしたが、栄助自ら南甘楽坂原村の公認自由党員井上勇吉の家に行き、一ノ宮の人を呼んで状況を聞くと、秩父の事は少しも知らないと言うし、第一今日まで群馬から誰も連絡に来ないのはどういう訳かと自分に詰問した。傍らの織平や柏木太郎吉も、「何故、常次郎ガ自身行ツテ組織セザルヤ」と詰め寄る。そこで、常次郎は栄助に、恩田を責任者として1度目は太郎吉、2度目は宗作が自分に同行して組織にあたり、「鉄砲一、二発打テバ・・・」というのは同行者も認めていることだと答え、栄助の批判を切り返す。
(つまり、今までも恩田宇一と共に太郎吉や宗作ら幹部が派遣され、状況は報告されており、それに異議が挟まれたことはなかったではないかと、反論)。
栄助の延期提案は、「窮民等債主ノ督促ヲ避ケ、所々ニ流寓シ、多クハ家ニ還ラザルノ状況ヲ以テ、衆皆延期ヲ好マズ」と否定され、更に15日延期を主張したがそれも拒否され、11月1日決行に決定。しかし、論争は、31日の小前耕地の幹部会議でも再燃。
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10月26日
・佐久の第2陣北相木村の菊池恒之助(40)・菊池市三郎(20)、第1陣の井出代吉の指示により石間村の加藤織平訪問。「粟野山会議」の田代栄助と面談。翌27日、恒之助・市三郎は、信州へのオルグ門平惣平・飯塚森蔵と同道して北相木村に戻る。途中、第3陣の菊池貫平・井出為吉とは会えず。門平惣平らは31日秩父に戻る。
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同26日
・風布村大野福次郎、伝令より10月30日に身支度して待つように指示を受け大野苗吉宅で弾丸製造に取り掛かる
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同26日
・秩父郡日野沢村付近に潜行中の本野上分署巡査、分署長に蜂起近い事を報告
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同26日
・社説「国家心腹ノ病」(「自由新聞」)。
高利貸しが貧民を虐げている現状を批判、貧民が復讐主義に陥って破壊党になるのを防止するには減租・小作料緩和しかないと論じる。地方党員は何をなすべきかの指針示されず。
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「日日新聞」(福地源一郎)は、加波山事件は自由党決死隊の暴挙と攻撃。
「自由新聞」の弁明は歯切れが悪い。
わが党は自由の大義を唱え、国家の幸福を増進しようとするが、封建の余習は一掃されず、個人の独立と公衆の合同が両立しない。福島事件・新潟事件・加波山事件では、自由の良友が自由の敵となったとの批判を受けざるを得ない。いずれも軽挙、暴動であるが、ただそれらが、人民が困難な地方か、困難な人民に同情を送るべき地方に起った点を注意しなければならない。
わが党は同志諸君がこの失策を犯す立場に陥らないよう警告する。大陸には清仏戦争、外交には条約改正、国内には財政諸問題があり内憂外患であるが、国家心腹の病とは、このころ新聞に現われる借金党である。
「試ニ見ヨ、此数年間彼ノ所謂ル高利貸卜称スル者多ク世上ニ出現シ、貧者ノ究困ヲ奇貨トシテ非常法外ノ高利ヲ貪り、為メニ貧者ヲ虐ゲシ者其数千ナルヲ知ラズ」。
経済的優者が劣者を圧して恥じることのないのが、社会の大勢である。しかし、貧困党の変遷をみると、債主---負債者から地主---小作人の争論となり、復讐主義に陥り破壊党に転じるおそれなしとしない。この傾向を防止するのは、滅租による農民負担の軽減、小作関係の緩和である。
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同27日
・埼玉県警本部の巡査、小鹿野の密告者より28日石間山中集合との急報うける。夜、派遣された鎌田冲太警部が小鹿野到着。翌朝、警官を石間、三山に派遣し探偵、午後、戻った警官は「別段ノ異常見聞セズ」と報告。
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この日、埼玉県警本部の巡査は、小鹿野の密告者から急報を受ける。
「鎌田警部致ストコロノ小鹿野神社祠官泉(某)ノ十月廿六日夜小鹿野町旅舎ニオイテ石井警部以下五名ノ警部、警部補ノ面前ニ在テ密告スルヲ雨宮警部ノ傍聴セル筆記ノ写書
十月十七日 (某)、田代栄助宅へ往キ自由党へ加盟ヲ請ヒ、他ニ同盟者ノアルヲ告グ。栄助曰ク一時故アリテ解散セシメタリ。而シテ金策ノ方法ヲ立テ貧民党へ檄文ヲ発スルノ計画ナリト云フ
十月二十一日 栄助、(某)ノ宅へ来り告ゲテ曰ク、貧民党ハ来ル二十六日小魁タル者集会シ、二十八日一般ニ嘯集スルノ目的ナリ。・・・」(鎌田冲太警部復命書)。
石間の山中に集まるのは一六ヵ村の総代で、貧民党の幹部から借金の四ヶ年据置・四〇ヶ年賦返済を高利貸に強請し、承認しなければ爆裂弾で放火し、戸長役場に乱入して奥書簿を焼きすて、警察を襲撃して浦和の県庁まで押出す計画である、というもの。
本部はこの急報に接し、鎌田警部を秩父に派遣。警部はその夜小鹿野に着き、郡内の署長・副署長と困民党の動静を分析し、密告者も席によび、その報告の内容通りとの結論に達す。また、秩父と同時に上州南甘楽郡も蜂起し、前橋まで押出すと囁かれていることが報告され、会議は朝4時まで続く。夜が明け、警官は、石間・三山など各方面に探偵を行う。
午後に集めた警官の報告は、「別段ノ異常見聞セズ」というもの。警部は、栄助・織平の地下潜行が気にかかるものの、困民党が具体的行動計画を農民に発表した形跡もなく、先日の強盗事件で栄助・織平らを追及するよう指示し、本部に戻る。本部へは、「近日中暴発スベキ景況ナシ」と報告。
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この密告者の小鹿野神官神官泉田某の子の泉田蔀は兵糧方として蜂起に参加。
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▽国事犯:
明治14年11月、各府県に「警部長」制度を設け(太政官達第98号)、その職務を、「第一 警部長ハ事ヲ府知事県令ニ承ケ、其府県警察上一切ノ事務ヲ調理ス 第二 警部長は国事警察ニ付テハ直ニ内務卿ノ命令ヲ奉ジ、又直ニ其事情ヲ具状スルコトアルペシ」(太政官達第99号)と規定し、政治警察の統制強化を図る。
また、従来府県警察の長である警察本署長は判任官の警部であったが、警部長は奏任官8等として身分向上を図る。
埼玉県の初代警部長は、翌15年1月25日、当時警察本署長兼典獄の笹田黙介(山口県士族、36)が就任するが、4月には埼玉県少書記官(副知事)に昇進、後任警部長に江夏喜蔵(鹿児島県士族)が就任、秩父事件に遭遇。
国事警察の対象である「国事犯」は、明治13年布告の「刑法」第2章「国事ニ関スル罪」の中の「内乱ニ関スル罪」と「外患ニ関スル罪」を言う。
秩父事件は「政府顛覆」を目的とする内乱であるが、政府はこの事件の影響を恐れ、「国事犯」とは見なさず、あえて「兇徒聚衆ノ罪」(暴動)で処断することにする。
国事警察事務は、実際には警察本署(県警本部)の有力警部が担当し、秩父事件当時は筆頭警部鎌田冲太(鹿児島県士族、39)が担当。
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○警部鎌田冲太:
戊辰戦争では緒戦の鳥羽伏見の戦から参加した歴戦の勇士。幕府軍を追撃し大阪に進撃、東征にあたっては吉田県令と同じ北陸道先鋒に加わり、越後の鶴ケ岡の激戦で敵弾を受けて後送。その後薩摩藩から年禄8石を受けて療養。
明治2年3月、砲隊伍長として軍に復帰、藩主島津忠義に従って上京、徴兵隊に加わる。4年12月埼玉県勤務となり主に警察事務に従い、一時埼玉裁判所検事局の逮部課に勤務して犯人の逮捕取調に当る。
8年10月、警部・巡査制度発足と共に4等警部に任ぜられ、この年(17年)の秩父事件発生当時は警察本署(県警本部)の警視部長兼国事担当。
鎌田警部は事件発生前も、秩父地方不穏が地元警察から報告されると、「県令初メ警部長ノ命ヲ承り、不知按験トシテ十幾回秩父往返セシヤ、殊ニ其七、八月頃ノ如キハ警部長ニ従ヒテ七十名ノ巡査ヲ率ヒ、秩父諸所ノ集会ヲ駆逐セシコトアリシ、就中微行シテ入秩セシ時ノ如キハ、秩父三署員ノ知リ得ザリシ事モアルペシ、而シテ暴徒中ニハ款ヲ送り信ヲ通ズルモノ数名アリ」(鎌田冲太「秩父暴動実記」)で、自ら現地に乗り込み情報収集にあたる。事件後の19年8月秩父郡長に栄進。
to be continued
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