■明治17(1884)年秩父(7)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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つい先ほど、「女優貞奴」(山口玲子 朝日文庫)をぱらぱらめくっていて、ちょっとムカついたので、下記を「黙翁年表」に追加した。日付的には、掲載済みなので、ここに置いておきます。
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この年の7月20日のこと。
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・藤田伝三郎、井上馨、内海忠勝、伊藤博文の政財界人4人、木挽町の待合の女将を立会人に、「各自の寵妓をとらないという一種の不侵情的(ママ)」(菊地「明治史の裏面・名士と名妓」)を結び、誓紙を書く(「とらない」と書いた色紙が現存)。
この頃、後の女優貞奴(貞)は、13歳の誕生日を2日前に迎えて小奴という名の雛妓)で、3年後の水揚げは、伊藤博文によるとされていた。「とらない」とは、小奴の貞を伊藤博文からとらないと、他の3人が約束したことを意味する。
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この日は、秩父の困民が期待をかけた春蚕の初市で、困民たちが絶望的な結果をみた日です。この年の養蚕は6分の出来、2年前の半値という市況。
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年を越せない派遣労働者の群れ。・・・連夜、バー通いのタロウ、と重なる。
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さて、何故今頃、こんな本を・・・、と言いますと、以前の「ゲーテ座」のシェークスピア劇のくだりが気になってて、多分この本に書いてるんじゃないかと、探した次第。結果、よくわかりませんでした。この本は、98/3/25に読んだことになってました。
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9月前半(1~15日)
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-・片山潜、米へ向かう
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-・杉田定一、自由党解党の約1ヶ月前のこの月から1年にわたり清国を遊歴。
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-・小坂鉱山、久原庄三郎に払下げ
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-・深川工作所(セメント)、浅野総一郎に払下げ
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-・夏目金之助(17)・正岡常則(子規、18)、東京大学予備門予科(明治19年4月、第一高等中学校に改称)に入学。同級に南方熊楠、山田武太郎(美妙)、中村是公、芳賀矢一ら。
子規は明治18(1885)年、入学初年度学年末試験で不合格となり落第(「余が落第したのは幾何学に落第したといふよりは寧ろ英語に落第したといふ方が適当であらう」(「墨汁一滴」))。
漱石も明治19(1886)年、腹膜炎のため進級試験を受けられず成績も悪く落第。
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熊楠は学校の授業には興味を覚えず、図書館での抄写、上野博物館・動物園・小石川大学植物園などで自学、考古遺物・動植鉱物などの標品を採集する。この頃、世界的隠花植物学者イギリスのバ-クレイやアメリカのカーチスが菌類(キノコ・粘菌など)を6千点集めたと知り、それ以上の標品を採集し図譜を作ろうと思い立つ。学業には精を出さず、学年末試験に失敗、1886(明治19)年2月帰郷、渡米して勉強したいと父に申し出る。当初は反対していた父も、その熱意に負け渡米を許す。
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-・高橋義雄「日本人種改造論」。雑婚奨励。極端な欧化主義。
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-・群馬の農民闘争。
秩父の東隣・児玉郡4ヶ村の負債農民100名、連合規約を起草し児玉町の洪盛社に負債返済延期交渉準備。弾圧される。浅見村では、10数ヶ村代表60~70名が集会、解散させられる。
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-・新井周三郎、秩父郡石間村に小学校教員の欠員あると聞き加藤織平を頼る。この時、出入りしていた小柏常次郎から困民党運動を知り係るようになる(10月12日幹部会議出席)。明治14年頃、男衾郡西ノ入村の小学校教員。その後、群馬県緑野郡浄法寺村の浄法寺学校に転じる。
「今ヤ世上不景気ノ極ニ達セルヲ以テ、之ヲ拯フテ世直シヲセントノ実ハ目的ニ在リシナリ・・・元来自分ノ借金アルニ非ザレドモ、村民ノ困窮ヲ目ノアタリ傍観スルニ忍ビズ」(新井周三郎訊問調書」)。
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9月1日
・午前10時、八王子警察署長原田東馬、負債延納運動中心人物南多摩郡下川口村(現八王子市川口町)塩野倉之助宅捜査。書類を整理していた町田克敬(下川口村)引致、同盟のための盟約書や負債書類を押収。
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9月1日
・愛甲郡の民権家、困民党事件を前にして再び地租軽減運動に取り組む。
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9月2日
・秩父、堀口幸助他1人、大宮郷に田代栄助を訪ね出馬を要請。この日は旧暦お盆の13日。栄助は盆のうち必ずうかがうと曖昧に回答。
9月2日、田代宅を再び訪れたのは、堀口幸助と石間村姓名知らざる者の2人と田代供述にある。
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堀口は沼津の生まれ、群馬県渋川で代言業を営み、いつの頃か秩父に来る。弁の立つ2人の説得は、村上泰治の投げやりな驕慢とは異なる真摯さで栄助は不信を解く。堀口らは、高利貸の無慈悲の為、一般は困窮に陥められている。加えて、学校費嵩み、雑収税負担、村費の過重から解き放たれるにはどうすべきか、ともども相よって協議したい、と云う。
田代は、大意分った、盆のうち(旧暦7月14日~1日、新暦9月3日~6日)に必ず出頭すると回答。
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9月2日
・秩父、飯田村富農犬木寿作(32)、高岸善吉と接触。
高利貸しの「貪欲苛薄」を知り周旋の労をとる。明治14年小鹿野町の高利貸柴崎佐平・加藤恒吉らと共同出資で製糸会社「共精社」設立。村民に金を融通し取立てのため熊谷の裁判所に出向いたりする。花火師でもあり手広く火薬販売もやる村の顔役。秩父事件では飯田村小隊長。
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9月2日
・秩父、「石間、上吉田、大田百人余・・・鍋釜諸道具持来リ(高利貸しと)掛合始メル」(「木公堂日記」)。困窮農民は夜逃げ、自殺行為から、団結し、より能動的に鍋・釜を持っての掛け合いを始めるようになる。
「九月二日 ・・・自由党組デモ有力小鹿野エ来り、トキワヤ、アプラヤ、仝、坂本徳松、田端建次外二三軒エ金貸一件ニ付石間、上吉田、大田百人余モ腰根山ヤ小鹿野エ鍋釜諸道具持来り掛合初メル咄。高利分切ナシ五ヶ年置スエ、跡長年賦ノ掛合夫ニ付、巡査熊谷ヨリ此辺皆集マル。石間城山ニ大勢コモル、七ケ村集マル。」
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9月3日
・自由政談大演説会。福井茂兵衛「仏国革命自由の凱歌講談」。
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9月4日
・川口困民党副頭取小池吉教(西中野村戸長)、明神山(ひよどり山)集合布告。
小池は5日の歎願デモ途中で逃亡、非難されるが、明治20年、多摩困民党唯一の犠牲者として獄死。
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9月5日
・9・5事件。
川口困民党、ひよどり山集会後総代200人(南北西多摩郡33ヶ村民)、八王子警察へ行進。この日、八王子警察署乱入。総員逮捕。南多摩郡下川口村塩野倉之助、領袖として投獄。南部人民は北部と合流すべく御殿峠に再結集始めるが、横浜本署増援部隊が到着し、人民は引いてゆく。
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八王子警察署で一同は、「御願ガ御座リマス、借金ヲ十ヶ年賦ニ願マス」と叫び、町田の釈放と書類の返還を要求。警察は解散を命令し、210名全員を逮捕拘留。翌年2月、横浜裁判所は塩野倉之助に兇徒嘯衆罪で軽懲役6年の判決。塩野は下獄。この日以降、警察の警備は厳重になるが、この頃から相模・武蔵の農民が合同する「武相困民党」の一大組織が結成されつつある。11月19日、須長蓮造が組織する。
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9月6日
・八王子南方・北方の困民党呼応。津久井困民党、再起し御殿峠集結の動き。弾圧厳しく運動退潮化。
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5日夜~翌朝、西中野の小池宅は対策を協議する人民100余が集結。警察署には農民が同志奪還に押寄せるとの情報が入り、更にこれまでは別個の活動をしていた八王子南方・北方の困民党が呼応、合流を始め、加えて津久井の囲民党が再起し、一大結集の為に御殿峠に集結を始める。
八王子警察署長原田東馬警部の報告。
「九月六日南多摩郡南方の各村及び高座郡、津久井部各村の人民共、前日北方下川口村人民数百人八王子へ押し寄せ警察署にて喧閙し、尚ほ残徒中野村辺に屯集して追々八王子に押し来らんとするの景状を伝通し、同日午後八時より夜を徹し、南多摩郡鑓水峠と御殿峠の中間なる檜窪官林に集まり、八王子に押寄せくる北方各村の人民と相会せんと謀り、午後九時頃追々御殿峠及び檜窪に集合」、その数は夜半にかけて増加。
ところが、7日夜明け頃、群衆は姿を消し、警部巡査ら駆けつけた時には誰もいない。理由は、横浜署から馬車数台に分乗して警部3・巡査35・監守10の増援部隊を、「憲兵数百人繰込みたるもの」との誤報と聞き違え、緊急退避したため。
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幾つかの「偶然」が原田警部や高利貸資本)を助ける。
①この地域に電信・電話施設が架設された直後であり、5日夜のSOSが直ぐに増援部隊派遣となって威力を発揮。
②デマか聞き違えか、ともかく流言により3困民党の連合を直前に阻止できた。
③石坂昌孝率いる三多摩自由党が微妙な瞬間に沈黙を守り、力の均衡を保つ。
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9月6日
・秩父、田代栄助、運動参加決意(8月21日と9月2日に要請される)。
夕刻、新井繁太郎が大宮郷熊木の田代の家に迎え、阿熊村新井駒吉宅に向う。翌3日午後6時、上吉田の高岸宅、下吉田の井上宅と場所を変え3日間会議。井上伝蔵・坂本宗作・高岸善吉・飯塚盛蔵・小柏常次郎ら。
田代栄助は小柏常次郎らの「関東一斉蜂起説」により困民党総理就任受請。山林集会を止めて委任状取り纏め大宮警察署への陳情決定。
この頃、善吉・宗作・寅市トリオに加え、加藤織平・井上伝蔵・門平惣平・新井周三郎・小柏常次郎など秩父困民党指導部の輪郭出来上がる。
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石間村新井繋太郎を使者とし、栄助を大官郷熊木の自宅から阿熊村のアジト新井駒吉宅に引っ張り出す事に成功。
栄助が重い腰を上げた大きな理由に、「群馬から自由党員小柏常次郎先生もお越しのこととて・・・」との使者の説明があったからと、栄助は供述。
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討議内容(栄助供述による)。
①高利貸のため身代を傾け目下生計に苦しむもの多し、よって債主に迫り10ヶ年据置き40ヶ年賦と延期を乞う。
②学校費を省くため3ヶ年間休校を県庁へ迫る。
③雑収税の減少を内務省に請願する。
④村費の減少を村吏へ迫る。
これらは、説得に来た堀口の主張と同じもの。「10ヶ年据置き、40ヶ年賦」は、高利貸連が到底呑まぬだろうし、その他の要求を内務省などに突きつける事も尋常の手段では行かぬだろう、とは容易に分ることで、敢えてそれらを目標とするには、力の対決になることを、彼らは充分理解している。
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栄助の調書。
「容易ナラザル事件ニシテ何レモ生命ヲ捨テザルヲ得ザル事柄ニツキ、熟考スル方可ナラント述べタル処、貧民ヲ救フガ為メモトヨリ一命ヲ抛テ企ツルモノナレバ宜シク賛成アレト、善吉他六人言ヲ揃へテ申開ケタリ。尚ホ小柏常次郎自分ヲ励シテ申スニハ、貧民ハ独り埼玉県ニ止ラズ何県ニテモ同様ノ事ナレバ速カニ同意ヲ表シ貧民ヲ救フニ尽力セラレヨト。ヨツテ自分決意ノ上、諸君何レモ一命ヲ棄テ万民ヲ救フノ精神ナレバ速カニ尽力セント答へタリ」。
群馬から運動に加わる小柏常次郎が、秩父一郡に埋没しがちな困民党中枢の戦略論の視野を拡大させるが、これがためらう栄助の侠気に強くアピールする。
蜂起が秩父一郡に止まるならば、それは敗北と死を意味し、しかも、蜂起が関東一円に広がる可能性は、今後の困難な組織活動にかかっていることを栄助は承知しており、この時から栄助は秘かに死を心に決めていたと思える。
「関東一斉蜂起」の鍵は、自由党中央の指導でなければならないが、栄助は村上泰治に代表される自由党の在り様へ深い不信を持っている。また実際にも、明治17年秋の自由党は10月29日の大阪解党大会を目前に瀕死の重症にあえいでいる。
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この様に、栄助に総理就任を決意させた主動因は、善吉以下7名の初期困民党幹部の熱意と、群馬からの客人小柏常次郎の展開する「関東一斉蜂起説」であり、栄助は蜂起に向けて最後の土壇場まで関東一斉蜂起説に固執し、執拗にそれを追求し続ける。
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「自分ハ生来強キヲ挫キ弱キヲ扶クルヲ好ミ、貧弱ノ者便リ来ルトキハ附籍為致、其他人ノ困難ニ際シ中間ニ立チ仲裁等ヲ為スコト実ニ十八年間、子分ト称スル者二百有余人・・・」(田代栄助訊問調書)。
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9月6日
・秩父、粟野山(吉田川・石間川合流点近く)、発起人27人で160人ほど集会。警官が現れ住所氏名を控えて解散させる。8日、発起人27人で蓑山で集会。警官70人。(小柏常次郎の訊問調書)
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9月6日
・「自由党甲州、八王子所々二集マル。当郡内所々マタ集マル咄。イズレモ高利二付騒グ」(「木公堂日記」)。
「九月六日 ・・・自由党甲州、八王子所々二集マル。当郡内所々山々マタ集マル咄。イズレモ高利ニ付騒グ。中ニハ浦和ノ牢破リノ者五六十人モ居ル咄ナリ(これは単なる噂であった)。皆、城峯(山)へ籠ル」。
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9月7日
・武相困民党第2の昂揚期は退潮。
多摩北部(川口)困民党下の各村100余、滝山村少林寺に集合。解散させられる。8日警察が警戒するも農民は現れず。10日、南多摩・高座人民、相模原北辺で100余が集会。
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この頃、警察は、3名以上集合の人民を全て9・5事件(「兇徒多衆嘯衆事件」)の違犯者とし厳重に追及、各地に「巡査の配置所を増設し、臨時数名の連行巡回を施行し、非常警戒を厳にし」運動を地下に押し込める。これ以来、津久井の困民党を除いて、八王子北方・南方人民の動きは官憲の記録からも新聞からも姿を消す。
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9月8日
・多摩北部(川口)困民党石川嘉吉・立川周蔵・木下久兵衛ら7人、谷野の須長漣造宅で連行。須長自身も6日勾留状、16日収監状、30日予審判事補の召喚状を受ける。
石川は、事件当日、八王子某所で三多摩自由党最高指導者石坂昌孝と面会し、北部困民党の実情を訴え、9・1弾圧事件への救援を依頼。石川はこれを須長に報告。石坂の回答は不明であるが、少くとも同じ仲裁者グループの一員だった塩野・町田両名の貰い下げについて奔走したという形跡は見当たらない。
その後も、9月9、10、23、30日と高座郡相模原・津久井郡などに集合するが、官憲の厳しい追及の為に次第に地下に潜行していく。
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9月8日
・植木枝盛(28)、8月末、東京発。中山道経由、この日大阪着。13日、自由平権懇親会出席。20日、「土陽新聞」補助員になり、この日から10回、「貧民論」(「土陽新聞」連載)。財産による参政権制限の不当性。22日~高松へオルグ。6日間。
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9月8日
・自由党板垣退助・後藤象二郎、駐日フランス公使サンクィッチと会見。朝鮮でのクーデタ実行資金100万ドル提供求める。清仏戦争の背後をクーデタで牽制する目的。
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「自由党史」では、後藤象二郎・板垣退助・自由党幹事小林樟雄が、駐日フランス公使を訪れ、朝鮮「独立」のため開化派援助費100万円の借款を依頼、公使は個人資格で斡旋を承諾したという(この記述の真偽には論争あり)。9月9日、板垣・後藤が公使に借款斡旋依頼をしたことはフランス外交文書に記されている(但し、公使は承諾していない)。
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9月10日
・加波山事件。
この日、門奈茂次郎・河野広体・横山信六・小林篤太郎4名、神田小川町で質屋強盗。12日、爆裂弾作成のメンバー鯉沼九八郎・館野芳之助・平尾八十吉の内鯉沼・館野2名、爆裂弾製造中の事故がで負傷。
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9月11日
・上州の小柏常次郎(屋根板割)、落合・坂本・高岸らに秩父困民党への協力求められ受諾(常次郎の供述調書、但し、もっと早い時期の筈)。
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9月11日
・「九月十一日 ・・・自由党蓑山へ凡ソ六百人斗り籠ルト云フ。皆貧窮人ニ頼マレテ高利貸ニ掛合ナリ。」(「木公堂日記」)。
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9月12日
・西多摩郡長細谷五郎右衛門、各村戸長役場に「乾第拾三号」(検査官吏派遣あり準備せよ)の指令を流す。
「自今私立銀行及金貸会社営業等視察スル為ニ臨時官吏ヲ派出シ帳簿ヲ検査シ又ハ尋問ヲナシ不都合之所為有之卜認メタルトキハ営業ヲ差止候義モ在之旨其筋ヨリ達シ有之候条該営業者へ無洩相達シ置ベシ 此旨相達置候事」。
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9月12日
・大住郡伊勢原学校、放火のため全焼。
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9月13日
・平野友輔・小林幸二郎ら、盟友奥宮健吉・山口俊太・和田稲積・龍野周一郎らを招き、八王子に自由政談演説会。~14日。16日、平野ら6名、青梅町英昌亭で政談演説会を行なおうとして、解散を命ぜられるが屈せず、学術演説会に切り換え、17、18日に強行。聴衆は両夜とも400~500名以上。
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9月13日
・高ケ坂村の市川志郎助、細野喜代四郎に書簡。高ケ坂村の困民が細野の説得を大枠で受けいれ、各村(との会合を持つので、仲裁人への返答を2、3日待ってほしいとの内容。高ケ坂村は、仲裁人グループの説得にそって問題の解決をはかり始める。
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9月15日
・台風、疲弊した関東の農村を襲う。17日にも。家屋破壊、河川氾濫、作物に大被害。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
to be continued
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