2023年6月5日月曜日

首相公邸は観光スポットではない 岸田首相「弾よけ」長男秘書官更迭も政権体力奪う「身内問題」 / 【岸田さん、「丁寧な」説明を!】 「岸田首相は報道で知った」⇒「首相も挨拶をした」⇒「首相も一緒に食事を共にした」 / 「公邸忘年会」は岸田首相が主催? 政府見解に新たな疑義 政界の断面(神奈川新聞);「『翔太郎氏がいとこなり同世代の親族を呼び集めた』との前提なら容易に成り立つが、『おいが叔父を呼ぶ』構図はあり得るか」(同)と新たな疑義が生じている /  やっぱりあった!岸田首相が「息子大ハシャギ公邸忘年会」に寝間着&裸足で「ご満悦参加写真」独占入手(FRIDAY) / 「この忘年会は、岸田首相の弟や妹家族が集まって行われたものでした」 「『顔を出した』と認めた岸田首相をはじめ、親世代も宴会に参加しています」 / 大ハシャギ新写真「岸田一族の正体」 寝そべり男は株資産2億(週刊文春); 「組閣ごっこ」写真には、岸田総理の次男と三男も / 岸田首相の長男、ボーナス返納申し出も「返納できないからただのポーズ?」満額252万660円は“バカ息子”の手に(週刊女性) / 「公邸で忘年会」の岸田翔太郎秘書官、心が折れて自ら「もう辞める!」母も“悪ノリ撮影”かばい切れず(FLASH);「しかし裕子夫人は、頑として息子の更迭を認めず、今日まで来てしまいました。」 / 岸田首相長男で秘書官の翔太郎氏が公邸で忘年会 海外なら退陣ものなのに…身内に甘い政治がもたらすこと(東京) / 「異次元の親ばか」の声も…ひな壇で“組閣ごっこ”?岸田総理・長男が公邸で忘年会 / 公邸忘年会「岸田一族のための空間か」 原武史さんが問う世襲の弊害(朝日);「大臣らの集合写真が撮られた公的な空間が、岸田一族の私的空間になってしまった。いわば権力の私物化が、現代の日本社会で公然と行われていたことは驚き以外の何ものでもない。日本の政治があまりにも、二世三世の世襲政治家により占められていることが背景にあると感じる」 / 32歳にもなり総理秘書官という公職にある人が、何故ご自分で説明し謝罪しないのか。 / 岸田総理、翔太郎氏の忘年会報道に「誠に遺憾」「緊張感をもって対応を」(TBS);「適切さを欠くものであり、国民の皆さんの不信を買うようなことであるならば誠に遺憾である」 / 翔太郎氏は首相を支える秘書官です。報道された写真のような、修学旅行中の中学生グループのような悪ノリは論外でしょう(日刊ゲンダイ) / 現職の首相秘書官が首相公邸で「バイトテロ」みたいな事をするのって、前代未聞じゃないですかね(՞ةڼ◔) / 岸田首相一族が首相公邸で大ハシャギ 「階段寝そべり」写真と翔太郎秘書官の「閣僚ひな壇」撮影(文集オンライン)


  



 

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2023年6月4日日曜日

〈藤原定家の時代381〉建仁3(1203)年8月5日~8月23日 後鳥羽院、俊成(定家父)の90歳祝賀を提案(俊成九十賀屏風) 摂政左大臣良経までもが卿三位藤原兼子のもとで家司のように扱われている 「近日、偏ヘニ家務ヲ行フガ如シ」 定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕        

 


〈藤原定家の時代380〉建仁3(1203)年7月20日~8月4日 頼家発病 「御病悩既に危急」 運慶・快慶の東大寺金剛力士像完成 叡山の学生と堂衆の争乱 より続く

建仁3(1203)年

8月5日

・早旦、良経の許に参ず。午の時に退出。浄衣を着して、広隆寺に参ず。昨日より、中納言御坐す。見参して、一首を賦す。日入り、騎馬して帰る。(『明月記』)

8月6日

・院より俊成九十賀屏風歌を詠進すべき由仰せあり。

未の時、法性寺殿に参ず。いささか伺い申す事あるによるなり。御前に召し、仰せを蒙る。申終許りに女院に参ず。日入るの程、九条の宿所に入る。

昨日辰の時、この屋根に白鷺がいて、不吉なので、尼上は他所に移りたいというが健御前は、移る所がないので困り、定家に相談するので、鷺は渡殿の上にいるのではないから、大丈夫だといった。

夜更けて、清範奉書に、俊成の九十の賀を、和歌所に於て賜るので、屏風の歌を詠進すべしという。この事につき、俊成は恐れ多く、深く辞退している。「入道殿深ク謙退セシメ給フ」。どうしたものだろうか、お受けすべきかと(『明月記』)

8月7日

「将軍家御不例太だ辛苦すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月7日

・良経の召しにより参上、すなわち院参。叡山の僧衆、騒動、夜前合戦に及び、堂衆はもはや利あらず退くと。この事により、俄に公卿を召された。(『明月記』)

8月8日

・良経の許に参ずるも、来客中にて見参せず。太秦の中納言中将殿に参ず。御供して法輪寺に参ず。勒韻又和歌の序あり。申の時、広沢の池に行く。又勒韻あり。昏黒、広隆寺に帰りて、退出。数奇の窮屈なり。(『明月記』)

勤韻 ; 

「はじめに韻を分け定めて詩をつくること。たとえば平声東韻で中・翁・風・空というように、一韻の中で数個の字を取り、その字の次第順序を定め、その順のままに一編の詩をつくること。」(『精選版 日本国語大辞典』)

8月9日

・放生会に勤仕の召しあり。巳の時、束帯して院に参ず。卿三位の堂供養へ向う。権門の催しにて、左府禅門さえこのことに日来奔走、「近日、偏ヘニ家務ヲ行フガ如シ」。密儀にて院も臨幸。(『明月記』)

摂政左大臣良経までもが卿三位藤原兼子のもとに行ってまるで家司のように扱われている

8月11日

・良経の許に参じ、御供して院に参ず。昨今、政務は山大衆の事のみ。座主参入して、諸卿を召される。(『明月記』)

8月14日

定家、俊成九十賀屏風歌を詠進。良経の歌を見る。自詠の歌を見せる。

小瘡なお煩いありて籠居。九十の賀の屏風歌、今日詠進すべきの由、夜中に重ねて仰せらる。

放生会を営むの間、風情いよいよ泥(なず)む。良経より召しあり。午終に参入す。御歌を給わりて見る。愚詠を又御覧ず。今度の作者は、御製・良経・慈円・有家・定家・雅経・讃岐・丹後・宮内卿・俊成卿女。明日撰定、その座に候すべきの由なり。清範仰せていう、放生会に相撲を執る、奏定めて深更に及ぶかの由、申し終ると。この役の勤仕、もっとも然るべからざる由、今更に御気色ありと。未の時許りに退出す。

小時ありて、八葉の車に乗り、京を出づ。東寺の辺りにて日没。鳥羽の北門に於て、船に乗り、差し渡る。八幡別当、車を儲く。月に乗じて、宿所に入る。予、又人々に馬を借りる。(『明月記』)

8月15日

・定家、石清水放生会で出居を勤める。京極殿で俊成九十賀屏風歌の撰定あり(定家不参)。当座歌会に出詠、講師を勤める。

未明に装束、天明くる程に、別当の車にて参上す。八幡放生会出仕。儀式遅々、違例多く、神人等群れで路なし。予、ひそかに逐電し宿所に入る。浄衣を着けて、馳せ出づ。供の者等来らず、ただ小童一両人を以て、渡し船に乗り、馳せ帰る。夜半に及ばず、冷泉に入る。

布衣を着し、京極殿に参ず。屏風の歌を撰ばれる。題を出す人々、沈思するの間なし。あきのつき、五文字を頭の上に置く、五首の歌なり。詠み終り、各々これを置く。定家を召す。参上して読み上ぐ。終りて退下す。ついで院入御。良経の御供して、三条坊門に参じ退出す。作者は院・良経・慈円・有家・予・雅経・具親・家長・秀能等なり。今日、右将、杖を取り、弓に取り副えず、未曾有の異例なり。又沓を第二級に脱ぐ、進退物忩なり。猿犴に異ならず。(『明月記』)

8月16日

・足の瘡痛みて、出で行かず。(『明月記』)

8月17日

・良経若君御百日、所労により不参。(『明月記』)

8月21日

・定家のもとに将軍頼家より小阿射賀御厨のことで返書到来。

所領の小阿射賀の事、尋常の返事あり、悦ぶ。(『明月記』)

8月22日

・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕。~23日。後鳥羽院水無瀬御幸は30日まで。

申始許りに、為説・清範等、水無瀬御幸一定なりと示し送る。すなわち車に乗り、鳥羽に赴き、船に乗る。船を下る、直ちに御所へ参ずるの間、入りおわします。秉燭の程、退下す。風烈し。(『明月記』)

8月23日

・巳の時許りに参上す。午終許りに、出でおわします。江口の遊女、着座す。神崎未だ参ぜず。退下するの後、向殿におわします。退出し、船に乗り、京に帰る。日入りて鳥羽に着き、九条に宿す。(『明月記』)


つづく

2023年6月3日土曜日

「死の商人」と言われ賛成派が猛反発…これって「言葉狩り」 元技術者も懸念する防衛産業強化法案(東京新聞) / 松川るい「"死の商人"というレッテル貼りで防衛産業の皆さんが後ろ指をさされてはいけない」 杉原こうじ「自衛の武器から、敵基地攻撃や武器輸出に使われ他国の人々を殺傷し得る武器に変え、技術者を"死の商人"と後ろ指をさされるところに追い込んでいるのが与党や賛成会派」 / 「死の商人」批判を問題視 自民と維新、参考人は反論(共同);「防衛装備品移転を拡大すれば日本を「死の商人」に変えかねないとした参考人の政府批判発言を、自民党と日本維新の会の議員が「レッテル貼り」などとして問題視した。自民と維新は、防衛装備品の移転推進が必要だとする立場。参考人は反論した。」  

 



 

〈藤原定家の時代380〉建仁3(1203)年7月20日~8月4日 頼家発病 「御病悩既に危急」 運慶・快慶の東大寺金剛力士像完成 叡山の学生と堂衆の争乱

 


〈藤原定家の時代379〉建仁3(1203)年7月4日~19日 『吾妻鏡』に鳩の死の記事(不吉な予感) 定家、有馬で湯池保養 その後、後鳥羽院の水無瀬殿に向かう 定家、良経の春日詣に供奉(7/16~18) より続く

建仁3(1203)年

7月20日

・源頼家、病悩。政局から離れる。

「戌の刻、将軍家俄に以て御病悩。御心神辛苦す。直也事に非ずと。」(「吾妻鏡」同日条)。

なお、『愚管抄』巻六には「頼家ガヤミフシタル(病み伏したる)ヲバ、元ヨリ広元ガモトニテ病セテソレニスヱテケリ」とある。頼家は大江広元の邸で療養していた。

7月20日

・千葉胤正(63)、没。嫡男(4代目)成胤(48)、後継。

7月20日

・早旦、法性寺殿兼実の許に参ず。丹後の禅尼を以て、仰せを承る。退出するの後、良経の許に参ず。中納言殿御座す。夜に入りて退下す。(『明月記』)

7月22日

・女院並びに良経に参ず。大風木を折り、屋をゆるがす。昼、権亮殿頻りに召す。相共に川原の水を覧る。夕に退出し、冷泉に帰る。(『明月記』)

7月23日

「御病悩既に危急の間、数箇の御祈祷等を始行せらる。而るに卜筮の告げる所、霊神の祟りと。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月23日

・布衣にて、春日殿に参ず。人なし。蓮華王院に参ず。已に以て人なし。所に休息し、夕に参上す。番々参じ、宿すべきの由、催しありといえども、心神よろしからざるにより、祇候するあたわざる由、女房に申す。今夜は宿す。(『明月記』)

7月24日

・運慶・快慶の東大寺金剛力士像ができる。

7月24日

・辰の時に参上す。午の時許りに寺門を出でて、京に帰り、冷泉に入る。殷富門院、今日一品供養あり。夢の告げと。(『明月記』)

7月27日

・宜秋門院御所にて良経作文歌会。

良経の許に参じて、退下す。秉燭以後、束帯して参上す。

女院の御所に於て、始めて詩歌を講ぜらる。公卿以下、多く所労を申す。人数甚だ少なし。下﨟より詩を置く。地下置き終りて、殿上人忠定以上、これを置く。公卿座中より置く。置き終りて講師を召す(為長)。読師(大理)詩を取り、宣房を召し、重ねしむ。大学頭・両の翰林、参じ寄りてこれを詠む。御作の落句、風雨千秋の契りあるが如し。先言を忘れ、大名に居らんことを恐る。文人退く。ついで歌を置く。読師同じ。講師親房・知家。ついで予、長押の下に候す。詠み終りて、各々退く。殿下すなわち帰りおわします。(『明月記』)"

7月29日

・良経の許に参ず。早く歌を進めて退下す。日吉社に参詣す。夜、宮廻りて通夜。

今日、詩歌合、番わると。(『明月記』)

この詩歌合に、定家は、詠進したのみで、出席していない。


8月1日

「掃部の頭入道寂忍注し申して云く、叡山の堂衆と学生と確執し合戦に及ぶ。

その起こりと謂うは、去る五月の比、西塔釈迦堂衆と学生と合和せず。惣堂衆始めて各々別に温室を興す。

八月一日学生城郭を大納言岡並びに南谷走井坊に構え、堂衆を追却す。

同六日、堂衆三箇庄官等の勇士を引率し登山し、上件の城郭を攻め戦う。両方の傷死の者勝計うべからず。

而るに院宣を下さるるに依って、堂衆は、同七日城を棄て退散す。

学生は、同十九日城を出て下洛しをはんぬ。

今に於いては静謐の由を存ずるの処、同二十八日また蜂起す。本院の学生同心し、霊山・長楽寺・祇園等に群居し、重ねて濫行に及ばんと欲すと。」(「吾妻鏡」9月17日条)。

〈↑段落を加えた〉

8月1日

・定家、北野社に参詣。良経家詩歌歌合。

暁更、御殿開き奉り、終りて京に帰る。北野社に参じ、すなわち帰る。

未の時三条坊門におわす良経の許に参ず。申の時許りに出でおわします。詩歌を評定す。各々得ざるか。歌負け終りぬ。一番難題を以て、二首を詠む。歌に於ては極めて大事か。家隆、弁の歌をあげしめ、みずから読み上げ、勝負をつく。御作(慈円)多く勝たしめ給う。自余、頗る興なし。詩作、中納言・大弁・権弁・四儒。歌、慈円・権亮殿・有家・予・義隆・戒心・具親。今度は尋常にこれを詠む。(『明月記』)

8月3日

・定家、後鳥羽院稲荷御幸に参仕

8月4日

・定家、承明門院の小仏事に参仕

8月4日

「朔日より山上騒動す。学生悪徒城を構う。」(「明月記」同日条)。

7日「殿下の召しに依って参上す。即ち参院せしめ給う。山の衆徒騒動すと。夜前酉の刻以後すでに合戦を遂げ、堂衆不利にて退くと。」(「明月記」同日条)。


つづく


〈参考;学生と堂衆の争乱〉

 建仁3年(1203)5月、西塔釈迦堂の学生(がくしょう)と堂衆(どうしゅ)が不和となり争乱が起こっている。学生は学問を修める僧侶のことで、当時は貴族の師弟からなり、堂衆は寺院の雑役をする下級僧侶であった。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、荘園所領の管理や経営を行なったことから、堂衆の地位はあがったかのようにみえたが、比叡山上においてはその身分格差は歴然としており、温室(風呂)に入る順番も学生がまず入浴し、堂衆はその後に替って入った。

 その温室であるが、同年3月に西塔南谷の湯治の際、堂衆がその制度を守らず、刻限が来たため先に入浴してしまい、それを学生が咎めると暴言を吐いて立ち去っていった。翌日、学生が入浴しようとすると、堂衆側は二人を差し向けて湯釜に砂礫を入れ、釈迦堂の庭に出してしまった(『天台座主記』巻3、66世権僧正法印実全、建仁3年条)。

 南谷の学生は憤懣に堪えず、南谷より退散し、彼らに同心するほかの谷の学生も退散してしまった。5月23日に西塔各谷の堂衆たちは協議して、それぞれの谷で湯屋を別に設けることとし、7月16日にはほかの西塔四谷(北谷・東谷・南尾谷・北尾谷)も温室を設けた(『天台座主記』巻3、66世権僧正法印実全、建仁3年条)。

 学生と堂衆の対立は、学生側が8月1日に大納言岡と南谷走井房に城郭を構えたことによりエスカレートし、堂衆を追い払った。追い払われた堂衆は同月6日に荘園の軍兵を率いて登山し、両城郭を攻撃したが、双方に多大な犠牲が出て、7日に堂衆は退却した。学生も19日には退去することを決定し、28日に京都に降り、長楽寺・祇園に退去した(『天台座主記』巻3、66世権僧正法印実全、建仁3年条)。

 10月4日には堂衆を除名して叡山から追放すべき旨の院宣がくだったが、13日には釈迦堂の堂衆に東塔の堂衆が力を貸し、八王子山に城郭を構えた。15日には官軍が差し向けられ、攻撃を行なったが、堂衆の必死の抵抗のため、攻め落とすことが出来ず、かえって堂衆が落とす矢や石で死傷者が多くなった。17日夜に堂衆はひそかに退去して散り散りとなったが、11月6日には八王子山の三宮神殿・彼岸所が焼失しており、堂衆が群居して穢れたための神火であるといわれた(『天台座主記』巻、67世僧正真正、建仁3年10月4日~11月6日条)。

 このような学生と堂衆の争乱は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて比叡山上でたびたび発生しており、それらは荘園所領の経営や寺院の清掃などの実務に携わる堂衆の不満が噴出したためでもあった。学生と堂衆の争乱は合戦となることが多く、そのたびに多くの死傷者の発生、堂坊の焼失をまねいた。

以上は、

「本朝寺塔記」の

 釈迦堂

より引用


2023年6月2日金曜日

一片の「おことわり」で済まそうとしている(「河合氏のそうした言動について把握しておらず、原稿の確認作業でもチェックできませんでした。、、、寄せられた指摘について、重く受け止めます。」) → 朝日新聞、Colaboバスカフェ嫌がらせをした河合ゆうすけを持ち上げてる → 京大卒ジョーカー、挫折の先の自己実現 ウケ狙いから当選への分析(朝日)

 

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 朝日新聞のおことわりです。  5月30日夕に朝日新聞デジタルで配信した「京大卒ジョーカー、挫折の先の自己実現 ウケ狙いから当選への分析」で取り上げた河合悠祐氏について、草加市議になってからの今春、虐待や性被害などにあった女性を支援する一般社団法人「Colabo(コラボ)」の活動の場で差別的な発言をしていたなどの指摘が複数寄せられました。  改めて確認したところ、河合氏は一連の言動について「その場でも、その後のツイッターでも、けなすような過激な発言をしたのは大人げなかった。不適切だった」と述べました。  5月30日に記事を配信した段階で、河合氏のそうした言動について把握しておらず、原稿の確認作業でもチェックできませんでした。当該記事は、主に千葉県知事選や埼玉県草加市議選での河合氏の取り組みに焦点をあてた内容ですが、こうした言動に触れずに報じたのは不適切でした。寄せられた指摘について、重く受け止めます。

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またまた維新 → 維新・久保田正紀京都市議の団体『2年連続で収支報告書の提出期限を守らず』(MBSニュース)

〈藤原定家の時代379〉建仁3(1203)年7月4日~19日 『吾妻鏡』に鳩の死の記事(不吉な予感) 定家、有馬で湯池保養 その後、後鳥羽院の水無瀬殿に向かう 定家、良経の春日詣に供奉(7/16~18)      


 〈藤原定家の時代378〉建仁3(1203)年6月1日~25日 定家、足の腫れに対して蛭による瀉血療法を始める 「蛭を飼う」 和歌所影供歌合 より続く

建仁3(1203)年

7月4日

「未の刻、鶴岡八幡宮、経所と下廻廊と造合の上より、鳩三喰い合い地に落ち。一羽死ぬ。」(『吾妻鏡』)

同9日「辰の刻、同宮寺閼伽棚の下に、鳩一羽頭切れて死す。この事先規無きの由、供僧等これを驚き申す。」(『吾妻鏡』)

7月7日

・季夏より、有馬の湯屋に在り。今朝、この山上人の湯屋に渡り坐す。此の処の地形、もっとも幽なり。高山に対し、遠水を望む。今日、水場を始む。(『明月記』)

7月8日

・牛の時、微雨の中、輿に乗り、厳径を攀じ、山奥の飛滝を見る。其の高さ三丈ばかり、雲涯を出ずるが如し。相ついで、女体権現に参ず。和歌と詩を柱に書いて、宿に退く。(『明月記』)

7月9日

・後鳥羽院、熊野御幸。~8月3日。

7月10日

・若狭三方郡向笠が伊勢神宮領となる。

7月10日

・定家、有馬での保養の後、京には帰らず、後鳥羽院の水無瀬殿に向かう。江口で遊女の家で、清明の月を見る(定家にしては珍しい風狂)。

遅明、社頭に参ず。すなわち路に赴く。輿遥かに山野を過ぐ。未の一点、神崎の宿所に着く。しばらく休息するの後、申の一点ばかりにここを出て船に乗る。夜に入り、江口に着く。船を下り、遊女三位の宅(この人、天王寺に参じて留守)にて、一寝す。院、瘧病重く発りおわしますと。晩、月清明。(『明月記』)

7月11日

・江口を出て、船に乗る。酉の時許りに、赤江にて船を下り、輿に乗る。鳥羽の席門に於て、車に乗り、日入るの程、冷泉に帰る。無事に帰着したことを悦ぶ。これを以てなぐさめとする。本病、未だ癒えず、恨みをのこすといえども、小減なきにあらず。(『明月記』)

7月15日

・九条道家(良経の子)の中将の拝賀。定家が供をする。

『石清水八幡若宮撰歌合』、判者俊成。

7月16日

・阿野全成の子、頼全、京都東山延年寺で在京御家人により殺害される。

7月16日

・定家、良経の春日詣に供奉。~18日。

春日詣。未明に、人々ようやく参入すと。前駆の声を聞き眠り覚む。日出づる以前、右大丞過ぎらる。刻限に臨み、装束を着けるためなり。辰の時許りに束帯して参上す(これより先、北政所に、出車を献ず)。今日、沛艾(はいがい)の馬一匹、この中に在り。例の番長久清騎すべき由、諸人目を澄ますの間、敦近が乗った。舞人渡り終るの間、下官、かねての仰せにより北政所御見物の車を寄す。七条院、密儀に御見物と。稲荷を伏拝する辺りに於て、馬に乗りかえ、木綿山に於て輿に乗り、馳せ奔る。

宇治の船津で一行を待ち、僕従を皆宿所に寄せ、食事をさせた。急ぎ出づべき、を下知す。程を経ず、御車着きおわします。御沓を取り、御船に参ず。良輔、舟中に御坐す。少納言と食事を進む。

船を下りて騎馬し、八幡に於て伏礼。又御沓に候す。これより先陣し、贄野の池に於て輿に乗る。又束帯を脱ぎて騎馬し御車の前近くに在り。

法華寺の鳥居の辺りに於て、松明をとり、佐保の殿所に入らしめ、庭に於て拝さる、例の如し。ついで、入りおわします。予、退かず、御前に在り。明月蒼然たり。勝地、感を催すこと頻りなり。御眺望、数刻の後、人々参入す。亥終計りに、出でおわします。予、御沓を献ず。殿上人眺望を見に来らず。予、私の優を以て、大弐に申さしめていう、御装束に奉仕する人なしと。社頭の鳥居の下に於て、これを申す。兼時に参ずべき由仰せらる。ついで、下りおわします。予、御沓をとる。祓殿の儀、例の如し、長俊、ついで陪膳。西の中門の外に於て、剣を解き、尻を懸く。笏(こつ)を取りて棚の下に進み寄り、ひざまずき、笏をはさみて、棚を昇き起つ。神人引導す。薦(こも)を敷き、棚を薦の上にと立て定めて、いささか立ちのきて、立ちながら、裾を垂れて笏を抜く。坐しながら一拝して立ち、退きて帰る。その後、役がないので、ひそかに退出す。予宿所に臥す。時に夜半を過ぐるか。今夜、到着殿に御着きなり。(『明月記』)

7月17日

・巳の一点に装束し(青朽葉の下襲(したがさね)を着く)、到着殿に参ず。午の一点許りに出でおわします。中将殿、御沓を取らしめ給う(女郎花の表袴、萩三重の下襲)。予。取り継ぎて御沓を献ず。御笏を中納言殿の御車の簾にさす。各々騎馬す。

黒木屋の前に於て、御牛を放ち、しばらく榻(しじ)を立つ。公卿皆散ずるの後、中将殿御沓(予、仰せによりて、扶持し奉る)、下りおわします。中将殿、下襲の尻を取りおわします。歩み進ましめ給うの間、これを置き給う、北の階を昇らしめ給い、御沓を取る。中将殿、笏をはさみて、取らしめ給う。殿下の御随身、誤りてこれを取り、前駆に沓を給う。東の檻の下に、立ち給わしめ給う(予、同じくここに在り。仰せによるべきなり)。公卿次第に昇る。刑部卿、列に加わる(各々西の階を昇りて、座に着く)。僧綱東北の階を昇りて、着座し終る。中将殿、同じ階を昇りて、北面の簀子に候せしめ給う。予、この後、南面を廻り、殿上人の座に加わりて着く。次いで舞人御馬に上る。ついで馬を馳す。舞終り、舞人御前を渡りて、饗に着く。

予、座を起ちて閑所に入る。中将殿又起ちて、入らしめ給う。閑所より密々に御退出。御車の下に参じて帰り入り、又座に着く。この間に、童舞・万歳楽・地久あり。ついで還城楽。ついで馬を引く。ついで僧綱以下退下す。公卿以下起ち、下りて立つ。良経下りおわします。予、御沓を取る。申の刻、佐保殿に入りおわします。事終りて分散し、予退出す。今日の早速(はや)きこと、未曾有か。宿舎に帰る後、私に御社に参じて奉幣す。秉燭、宿舎に帰る。今夜窮屈、帰参するあたわず。(『明月記』)

7月18日

「御所の御鞠なり(今日以後この御会無し)。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月18日

・日出づる以後、束帯して(野剣)、佐保殿に参ず。良経御装束終る。舞人を召す。院の御随身三人、皆、水干狩襖を着す。ついで纏頭。ついで、人々下り立つ。良経、下りおわします。予、御沓を取る。ついで各々騎馬し、十町許り、中将殿の御車に供奉す。

予、泉木津に於て、ひそかに船に乗る。衣を脱ぎて休息。鳥羽の方より、申始許りに九条に着く。又束帯す。此の間、御車着きおわしまし、即ち入りおわします。検非違使二人に馬を給わり、各々これに召す。御随身、御馬を引き出すなり。これを給わりて、退出す。入御、御輿を以て、南殿に還るの由、仰せらる。よって、下りて九条に在り。(『明月記』)

7月19日

・早旦、召しあり。用意せざるにより、昨日の装束を着して、参上す。中将殿、布衣にて、客亭た出でらる。予、御前に候す。良経、簾中にて御覧ず。中将殿、蘇芳生の御衣を取りて給う。予、これを取り、これを被く。退出するの後に、休息。昼又参上す。(『明月記』)


つづく

2023年6月1日木曜日

鎌倉 明月院 紫陽花はもう見頃 花菖蒲は三分咲きくらい 2023-06-01

 6月1日(木)晴れ

今日は貴重な晴れ。朝から、庭の片づけをちょっとだけ済ませて、お昼前から混雑覚悟で明月院に出かけた。

実は、今年は花の開花時期が早いので、紫陽花、少しは咲いているだろうと見越して、5月18日に来たんだけど、まあ、全くと言っていいくらい咲いてなくて、その意味で、自分にとっては、今日は明月院紫陽花のリベンジでもあった。

紫陽花、何分咲きとかは判断できないが、もう見頃と言っても間違いないくらい、しっかり咲いていた。大満足であった。

で次に、後庭園の花菖蒲だけど、こちらは期待に反してまだ三分咲き位だったろうと思われる。

咲き始めの花は、傷みもなく生気に溢れていて、見ていても気持ちが良いけど、もう少し賑やかだったらもっといいだろうにな、という感じだった。贅沢だけど。
















▼後庭園の花菖蒲









維新は「新しい戦前」の推進役 → 維新の馬場代表 ; 「核共有はまかりならぬ状態」「自衛隊は軍隊ではないが通説」「大国が大人なら日本は子ども」「色んな意味でフルスペックの中身に追い付いていない」 だから憲法改正。 / 維新議員「台湾は生命線」と質問 林外相は答弁控える、衆院外務委(共同) ; 「生命線」=これがなくなったらヤラレル的な危機煽り、、、 / 日本維新の会の和田有一朗氏が「台湾を失ったら、どうなるか」と質問しました(夕刊フジ) ← 台湾は日本の領土とでも思ってんのかな?          



 

〈藤原定家の時代378〉建仁3(1203)年6月1日~25日 定家、足の腫れに対して蛭による瀉血療法を始める 「蛭を飼う」 和歌所影供歌合 

 


〈藤原定家の時代377〉建仁3(1203)年5月19日~29日 頼朝の異母弟の阿野全成(51)、謀反の疑いで捕らえられる 常陸に配流 下野で殺害 定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕(5/20~24) 太白(金星)が昼見えたとの記録(「明月記」) より続く

建仁3(1203)年

6月1日

・定家、足腫を患い、これ以降度々蛭を飼う

夕、九条に行く。足の腫れ苦痛。蛭を飼うの後、いよいよ発動す。(『明月記』)

6月2日

・今日、良経若君(基家)、御行始めなり。足の腫れ、術なきの間、信定に示し送る。仰せていう、なお人なきなり、相構うべしと。大雨の中、前駈騎馬の由聞く。束帯し、車に乗り、富小路の辺りで待ちもうける。かくてしばらく供奉、二条京極より、所労のため、早々と冷泉に帰る。(『明月記』)

6月3日

・頼家、駿河国富士の狩倉に出かける。10日、鎌倉に戻る。

6月3日

・腫物に雑熱あり、出で行かず。(『明月記』)

6月7日

・定家、実快僧都より黒牛を贈られる

6月8日

・今日、又蛭を飼う。(『明月記』)

6月10日

・又蛭を飼う。家長、影供の題を送る。御春日詣にて延引と。(『明月記』)

6月11日

・夕に、有長来談す。清範来りて、色紙の形の事を示し合わす。良経より、色紙の形、書き進むべき由、予を以て、伝え仰せらる。夜半に又書き終り、持ちて進ず。(『明月記』)

6月14日

・又腫物に蛭を飼う。妻・その母・男女の子息等、相公の桟敷に行きて見物。道路深泥なり、雑色等、万里小路に於て、皆騎馬という。(『明月記』)

6月16日

・『和歌所影供歌合』、定家、具親と勧盃を勤める。歌合並びに当座歌会の講師を勤める。

定家の妻、腹病を病む

去る夜、丑の時許りより、妻俄に腹痛、終日辛苦す。家長所労を構え扶け、参ずべきの由、再三示し送る。夕、構え扶けて参上す。

良経、以前に御参あり。戌の時許りに、和歌所に出でおわします。座定まりて、予を召す。講師定まれる役か。良経歌合を取り、文台に置く。次第にこれを読む。三題終って、本座に復す。紙硯を召す。家長持ちて参ず。御前に進む。書き出すに随いて、文台の上に置く。各々置き終りて、予を召す。又講師、良経、兼宗をして和歌を重ねしむ。次第に置かしめ給う。家長・秀能、この召しに応じて、読み上げ終り、座を立つ。公卿座に復さず。次いで下より退下す。良経御退去終る。

家に帰りて、鐘を聞く。病者辛苦す。(『明月記』)

6月17日

・妻の病気、今朝すこぶるよろし。近日、この病流行すると。(『明月記』)

6月18日

・足の瘡、尚痛みて出仕せず。(『明月記』)

歌会では、円座に坐るが、この敷物は、藁などで編んだもので、座ぶとんと違って痛い。

6月19日

・近衛佐伯国近来談していう、院の御随身久清を、番長に補せられたので、近衛一の座の武澄(もと良経の兵杖番長)、恨をいだいて籠居、其の父兼澄もまた籠居しているので、天気不快と。又得意の久清は、小屋立ての鴇毛の馬に騎すと。(『明月記』)

6月20日

・午の時許りに院に参ず。越中内侍に逢い、示し付ける事あり。これより先、神泉苑に御幸と。すなわち退出す。(『明月記』)

6月23日

・京を出て、日吉社に参ず。午の時に参着。夕に奉幣、十禅師の宝前に候す。すなわち通夜所指し出での廊に入る。(『明月記』)

6月24日

・大江能範、河野全成の子、頼全を誅殺すべき上洛。

6月24日

・懺法終りて京に出づ。晨月清明。日出づるの後、冷泉に帰る。巳の時許りに、嵯峨に行きて宿す。(『明月記』)

6月25日

・午の時、慈円の御房に参ず。春日詣、宇治の雑事を申すためなり。院に参ぜしめ給うと。留守人に申し付け、退出。(『明月記』)

つづく