建仁3(1203)年
7月20日
・源頼家、病悩。政局から離れる。
「戌の刻、将軍家俄に以て御病悩。御心神辛苦す。直也事に非ずと。」(「吾妻鏡」同日条)。
なお、『愚管抄』巻六には「頼家ガヤミフシタル(病み伏したる)ヲバ、元ヨリ広元ガモトニテ病セテソレニスヱテケリ」とある。頼家は大江広元の邸で療養していた。
7月20日
・千葉胤正(63)、没。嫡男(4代目)成胤(48)、後継。
7月20日
・早旦、法性寺殿兼実の許に参ず。丹後の禅尼を以て、仰せを承る。退出するの後、良経の許に参ず。中納言殿御座す。夜に入りて退下す。(『明月記』)
7月22日
・女院並びに良経に参ず。大風木を折り、屋をゆるがす。昼、権亮殿頻りに召す。相共に川原の水を覧る。夕に退出し、冷泉に帰る。(『明月記』)
7月23日
「御病悩既に危急の間、数箇の御祈祷等を始行せらる。而るに卜筮の告げる所、霊神の祟りと。」(「吾妻鏡」同日条)。
7月23日
・布衣にて、春日殿に参ず。人なし。蓮華王院に参ず。已に以て人なし。所に休息し、夕に参上す。番々参じ、宿すべきの由、催しありといえども、心神よろしからざるにより、祇候するあたわざる由、女房に申す。今夜は宿す。(『明月記』)
7月24日
・運慶・快慶の東大寺金剛力士像ができる。
7月24日
・辰の時に参上す。午の時許りに寺門を出でて、京に帰り、冷泉に入る。殷富門院、今日一品供養あり。夢の告げと。(『明月記』)
7月27日
・宜秋門院御所にて良経作文歌会。
良経の許に参じて、退下す。秉燭以後、束帯して参上す。
女院の御所に於て、始めて詩歌を講ぜらる。公卿以下、多く所労を申す。人数甚だ少なし。下﨟より詩を置く。地下置き終りて、殿上人忠定以上、これを置く。公卿座中より置く。置き終りて講師を召す(為長)。読師(大理)詩を取り、宣房を召し、重ねしむ。大学頭・両の翰林、参じ寄りてこれを詠む。御作の落句、風雨千秋の契りあるが如し。先言を忘れ、大名に居らんことを恐る。文人退く。ついで歌を置く。読師同じ。講師親房・知家。ついで予、長押の下に候す。詠み終りて、各々退く。殿下すなわち帰りおわします。(『明月記』)"
7月29日
・良経の許に参ず。早く歌を進めて退下す。日吉社に参詣す。夜、宮廻りて通夜。
今日、詩歌合、番わると。(『明月記』)
この詩歌合に、定家は、詠進したのみで、出席していない。
8月1日
「掃部の頭入道寂忍注し申して云く、叡山の堂衆と学生と確執し合戦に及ぶ。
その起こりと謂うは、去る五月の比、西塔釈迦堂衆と学生と合和せず。惣堂衆始めて各々別に温室を興す。
八月一日学生城郭を大納言岡並びに南谷走井坊に構え、堂衆を追却す。
同六日、堂衆三箇庄官等の勇士を引率し登山し、上件の城郭を攻め戦う。両方の傷死の者勝計うべからず。
而るに院宣を下さるるに依って、堂衆は、同七日城を棄て退散す。
学生は、同十九日城を出て下洛しをはんぬ。
今に於いては静謐の由を存ずるの処、同二十八日また蜂起す。本院の学生同心し、霊山・長楽寺・祇園等に群居し、重ねて濫行に及ばんと欲すと。」(「吾妻鏡」9月17日条)。
〈↑段落を加えた〉
8月1日
・定家、北野社に参詣。良経家詩歌歌合。
暁更、御殿開き奉り、終りて京に帰る。北野社に参じ、すなわち帰る。
未の時三条坊門におわす良経の許に参ず。申の時許りに出でおわします。詩歌を評定す。各々得ざるか。歌負け終りぬ。一番難題を以て、二首を詠む。歌に於ては極めて大事か。家隆、弁の歌をあげしめ、みずから読み上げ、勝負をつく。御作(慈円)多く勝たしめ給う。自余、頗る興なし。詩作、中納言・大弁・権弁・四儒。歌、慈円・権亮殿・有家・予・義隆・戒心・具親。今度は尋常にこれを詠む。(『明月記』)
8月3日
・定家、後鳥羽院稲荷御幸に参仕
8月4日
・定家、承明門院の小仏事に参仕
8月4日
「朔日より山上騒動す。学生悪徒城を構う。」(「明月記」同日条)。
7日「殿下の召しに依って参上す。即ち参院せしめ給う。山の衆徒騒動すと。夜前酉の刻以後すでに合戦を遂げ、堂衆不利にて退くと。」(「明月記」同日条)。
つづく
〈参考;学生と堂衆の争乱〉
建仁3年(1203)5月、西塔釈迦堂の学生(がくしょう)と堂衆(どうしゅ)が不和となり争乱が起こっている。学生は学問を修める僧侶のことで、当時は貴族の師弟からなり、堂衆は寺院の雑役をする下級僧侶であった。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、荘園所領の管理や経営を行なったことから、堂衆の地位はあがったかのようにみえたが、比叡山上においてはその身分格差は歴然としており、温室(風呂)に入る順番も学生がまず入浴し、堂衆はその後に替って入った。
その温室であるが、同年3月に西塔南谷の湯治の際、堂衆がその制度を守らず、刻限が来たため先に入浴してしまい、それを学生が咎めると暴言を吐いて立ち去っていった。翌日、学生が入浴しようとすると、堂衆側は二人を差し向けて湯釜に砂礫を入れ、釈迦堂の庭に出してしまった(『天台座主記』巻3、66世権僧正法印実全、建仁3年条)。
南谷の学生は憤懣に堪えず、南谷より退散し、彼らに同心するほかの谷の学生も退散してしまった。5月23日に西塔各谷の堂衆たちは協議して、それぞれの谷で湯屋を別に設けることとし、7月16日にはほかの西塔四谷(北谷・東谷・南尾谷・北尾谷)も温室を設けた(『天台座主記』巻3、66世権僧正法印実全、建仁3年条)。
学生と堂衆の対立は、学生側が8月1日に大納言岡と南谷走井房に城郭を構えたことによりエスカレートし、堂衆を追い払った。追い払われた堂衆は同月6日に荘園の軍兵を率いて登山し、両城郭を攻撃したが、双方に多大な犠牲が出て、7日に堂衆は退却した。学生も19日には退去することを決定し、28日に京都に降り、長楽寺・祇園に退去した(『天台座主記』巻3、66世権僧正法印実全、建仁3年条)。
10月4日には堂衆を除名して叡山から追放すべき旨の院宣がくだったが、13日には釈迦堂の堂衆に東塔の堂衆が力を貸し、八王子山に城郭を構えた。15日には官軍が差し向けられ、攻撃を行なったが、堂衆の必死の抵抗のため、攻め落とすことが出来ず、かえって堂衆が落とす矢や石で死傷者が多くなった。17日夜に堂衆はひそかに退去して散り散りとなったが、11月6日には八王子山の三宮神殿・彼岸所が焼失しており、堂衆が群居して穢れたための神火であるといわれた(『天台座主記』巻、67世僧正真正、建仁3年10月4日~11月6日条)。
このような学生と堂衆の争乱は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて比叡山上でたびたび発生しており、それらは荘園所領の経営や寺院の清掃などの実務に携わる堂衆の不満が噴出したためでもあった。学生と堂衆の争乱は合戦となることが多く、そのたびに多くの死傷者の発生、堂坊の焼失をまねいた。
以上は、
「本朝寺塔記」の
より引用
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