建仁3(1203)年
6月1日
・定家、足腫を患い、これ以降度々蛭を飼う
夕、九条に行く。足の腫れ苦痛。蛭を飼うの後、いよいよ発動す。(『明月記』)
6月2日
・今日、良経若君(基家)、御行始めなり。足の腫れ、術なきの間、信定に示し送る。仰せていう、なお人なきなり、相構うべしと。大雨の中、前駈騎馬の由聞く。束帯し、車に乗り、富小路の辺りで待ちもうける。かくてしばらく供奉、二条京極より、所労のため、早々と冷泉に帰る。(『明月記』)
6月3日
・頼家、駿河国富士の狩倉に出かける。10日、鎌倉に戻る。
6月3日
・腫物に雑熱あり、出で行かず。(『明月記』)
6月7日
・定家、実快僧都より黒牛を贈られる
6月8日
・今日、又蛭を飼う。(『明月記』)
6月10日
・又蛭を飼う。家長、影供の題を送る。御春日詣にて延引と。(『明月記』)
6月11日
・夕に、有長来談す。清範来りて、色紙の形の事を示し合わす。良経より、色紙の形、書き進むべき由、予を以て、伝え仰せらる。夜半に又書き終り、持ちて進ず。(『明月記』)
6月14日
・又腫物に蛭を飼う。妻・その母・男女の子息等、相公の桟敷に行きて見物。道路深泥なり、雑色等、万里小路に於て、皆騎馬という。(『明月記』)
6月16日
・『和歌所影供歌合』、定家、具親と勧盃を勤める。歌合並びに当座歌会の講師を勤める。
定家の妻、腹病を病む
去る夜、丑の時許りより、妻俄に腹痛、終日辛苦す。家長所労を構え扶け、参ずべきの由、再三示し送る。夕、構え扶けて参上す。
良経、以前に御参あり。戌の時許りに、和歌所に出でおわします。座定まりて、予を召す。講師定まれる役か。良経歌合を取り、文台に置く。次第にこれを読む。三題終って、本座に復す。紙硯を召す。家長持ちて参ず。御前に進む。書き出すに随いて、文台の上に置く。各々置き終りて、予を召す。又講師、良経、兼宗をして和歌を重ねしむ。次第に置かしめ給う。家長・秀能、この召しに応じて、読み上げ終り、座を立つ。公卿座に復さず。次いで下より退下す。良経御退去終る。
家に帰りて、鐘を聞く。病者辛苦す。(『明月記』)
6月17日
・妻の病気、今朝すこぶるよろし。近日、この病流行すると。(『明月記』)
6月18日
・足の瘡、尚痛みて出仕せず。(『明月記』)
歌会では、円座に坐るが、この敷物は、藁などで編んだもので、座ぶとんと違って痛い。
6月19日
・近衛佐伯国近来談していう、院の御随身久清を、番長に補せられたので、近衛一の座の武澄(もと良経の兵杖番長)、恨をいだいて籠居、其の父兼澄もまた籠居しているので、天気不快と。又得意の久清は、小屋立ての鴇毛の馬に騎すと。(『明月記』)
6月20日
・午の時許りに院に参ず。越中内侍に逢い、示し付ける事あり。これより先、神泉苑に御幸と。すなわち退出す。(『明月記』)
6月23日
・京を出て、日吉社に参ず。午の時に参着。夕に奉幣、十禅師の宝前に候す。すなわち通夜所指し出での廊に入る。(『明月記』)
6月24日
・大江能範、河野全成の子、頼全を誅殺すべき上洛。
6月24日
・懺法終りて京に出づ。晨月清明。日出づるの後、冷泉に帰る。巳の時許りに、嵯峨に行きて宿す。(『明月記』)
6月25日
・午の時、慈円の御房に参ず。春日詣、宇治の雑事を申すためなり。院に参ぜしめ給うと。留守人に申し付け、退出。(『明月記』)
つづく
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