2009年2月28日土曜日

昭和13(1938)年1月 南京は終らない 郭沫若と夏衍

昭和13(1938)年1月1日
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郭沫若の手配により、この日、広州で「救亡日報」復活。編集長は夏衍(劇作家、のち文化部副部長)。郭沫若は、6日、立群と共に広州から武漢に向う。9日武漢着。
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[郭沫若のこれまでの経緯]
□東京~上海(滞在4ヶ月)
前年1937年7月25日、千葉県市川の寓居を出て、27日上海着。10年近い日本亡命生活。
虚構橋事変後、帰国の決意を固める。妻の安娜(アンナ)=佐藤をとみは、脱出は結構だ、ただ郭がぐらつき易い性格であることだけが心配だ、郭さえりっぱなな生き方をしてくれれば、たとえ面倒が起こってもじっと耐えよう、と言ったという。
上海には、福建省参議の郁達夫(イクタツブ)が福州からかけつけ、国民政府行政院政務処長何廉(カレン)も南京から迎えに出ている。数日間ホテル住まい後の8月1日、フランス租界高乃依(コウダイイ)路(現皋蘭コウラン路)のチェコ人経営のアパートに移る。
14日、国民政府は「自衛宣言」を発し全面抗戦決意を表明。
22日、国共両党合意の下、工農紅軍は国民革命軍第8路軍(第18集団軍)に改編、9月22日、中国共産党が2ヶ月前に発表し「国共合作宣言」を国営通信社の中央社が公表、翌日蒋介石がこれを受け入れ、共産党の合法的地位を承認する談話を発表するという形で、第2次国共合作が成立。
上海にも第18集団軍上海辧事処が設置され、投獄されていた共産党員たちも釈放され上海に戻って来る。上海辧事処主任潘漢年の方針で、ある者は延安に送られ、ある者は上海で救亡活物(民族の滅亡を救うの意。この頃、左派は「救国」という語を嫌う)を続ける。
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8月中旬、郭沫若・潘漢年・夏衍が国民党代表潘公展を訪ね、国共双方が500元ずつ出し、編集長も双方が1人ずつ出して、上海文化界救亡協会機関紙とすることに合意し、24日、郭沫若を社長とするタブロイド判「救亡日報」創刊。
編集長には共産党側から夏衍、国民党側から樊(ハン)仲雲が就任するが、樊は毎晩一度顔を出す程度で、実際上の編集長は夏衍。樊仲雲の下の編集部主任汪馥泉は毎日出社する交通費から茶・タバコ等まで要求し、夏衍は特別にその要求に応じる。他の10人前後の社員は、給料・原稿料もとらず、交通費も自弁。
宋慶齢・何香凝・鄒韜奮・胡愈之・鄭振鐸等の上海の知識人たちは進んで寄稿してくれる。蒋介石直系将軍陳誠は、200部を買い上げ、前線部隊に配り、また陳誠の要請で、上海の文学者・演劇人たちは、「戦地服務団」を組織し、3班に分かれて前線に行き、慰問・宣伝を行う。更に、租界内に逃げ込んでくる難民救済も大きな仕事であった。
郭は、この頃上海で難民救済活動をしていた于立群(ウリツグン)と知り合い、のちに結婚し、4男2女をもうける。日本に残った安娜=佐藤をとみが郭と再会するのは、1948年、香港。
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11月12日、日本軍が租界を除く上海全域を制圧するが、「救亡日報」は発行継続。その後の22日、「上海が中華の手にもどる日、それが本紙が諸君に再びまみえる日である」とする社説を掲げ停刊。
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11月27日朝、郭は上海を出航、香港に向かう。船の近くには上海派遣艦隊の旗艦「出雲」が停泊。開戦以来、中国側の飛行機の爆撃目標にもなり、逆にこの艦などからの艦砲射撃が何度か上海を揺るがしていた。郭沫若らが乗ったランチがフランス船に近づくと、「出雲」の近くから水上機が一機飛び立ち、威嚇するかのように低空でランチの上を3回旋回。
夏衍・潘漢年も約1ヶ月後、フランス船「ヴァンティ伯爵号」の2等船室に乗って香港に向かう。「救亡日報」は、この後広州・桂林と場所を変えながら、1941年3月に桂林版が国民党の圧迫のため停刊するまで、断続的に発行を続ける。
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□上海~香港~広州まで。郭沫若「抗日戦回想録」より
郭沫若:前年1937年7月27日、日本~上海着、4ヶ月滞在し、11月27日早朝、仏船で上海を離れ香港に向う。廖仲愷未亡人(廖承志の母)、鄒韜奮(スウトウフン、抗日七君子の1人)らも同じ船。
「あるものは革命の聖地-延安へ行き、あるものは大後方へ移ってひきつづき活動をつづけた。後者は演劇界の友人たちが十の救亡演劇隊を作ったように、集団行動をとって、それぞれ後方へ出発したが、中には個人的行動をとったものもあって、私はその一人であった。」(周揚はこの時延安に行く)。
「南京政府の抗戦態度は、・・・。軍事方面では迫られて武器をとったものの、政治方面ではその都度主義で日を送り、姿勢を変える誠意は少しもなかった。とりわけ民衆動員については、全然手をつけなかった。「抗敵後援委員会」はいたるところに作られたが、口実をもうけて金を集めるだけで何もしなかった。」
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香港で偶然友人(林林、姚潜修、葉文律、郁風(画家、郁達夫の姪)、干立群(のち郭の妻)ら)に出会う。彼らは、上海フランス租界の国際難民収容所で働いていた人で、郭と立群とは、共に何度も前線の抗戦将兵の慰問に出かけている。
立群は「大公報」日本特派記者于立沈の妹で、原籍は広西省賀県だが、2人共北平で育つ。彼らの家庭は没落官僚の家で、立沈は貧と病のた盧溝橋の4ヶ月前、上海に帰りまもなく自殺。郭は7月上海に戻った時初めて20歳を少し出た年齢の立群と知り合う。郭は立群に延安地区へ勉強に行くよう勧め、彼女はそれを受け入れ、郭より早く上海を離れていた。
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「香港の救亡活動は当時でも相当緊張していて、公開の歓迎会、講演会などがほとんど連日行われていた。」。しかし、郭は、広州で「救亡日報」を復活するため、1週間後、林林、潜修、文律、郁風、立群らと広州に向う。
「さすが石と化した広州でも、抗戦の大暴風を経て、かすかながら生命の脈縛が鼓勤しはじめている。時々敵機の空襲があった。市街にはたまに虎の皮のように儀装した装甲砲車が出動し、防空施設もお粗末ながら各所に出来ていた。軍隊の中にも政治工作が回復しはじめ、所によっては短期訓練禁開かれ、泥縄式に宣伝人員を訓練していた。少なくとも抗戦のための宣伝なら禁を犯したことにならないのだ。
私は、こうした情況の下で、何度か歓迎会、講演会に出席し、また政府側の訓練班に頼まれて講演した。広州の放送局にも頼まれて、「民衆動員の必要」という題で放送もした。全くこれが核心的な問題だったのだ。だが、この核心は上海、南京におけると同様、人々から重視されていなかった。民衆が動こうとしないのではなく、当局が民衆を恐れ、民衆が動くのを恐れていたのであった。それでどうして抗戦ができよう。どうして抗戟に前途があろう。」
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「だが、実に意外なことに、少しも希望のないところで、またも希望が生まれてきた。・・・余漢謀(広東の軍司令官)は私を彼の司令部に引見した。彼は私が口を開く前に、『救亡日報』の発行を支持したい、毎月一千元出そう、早速十二月から始めれば開設費にあてることができて多少とも融通がきくだろうといってくれた。
彼がこうした「気前」を見せたのは私にも理解された。彼は蒋介石の直系でないので、人気とりに二股膏薬をはっていたのだ」。
「『救亡日報』の復刊の目鼻がつき、友人たちの活動の持場もきまった。林林、潜修、文律、郁風らはしばらく広州に留まって編集をたすけてくれることになった。同時に上海へ電報を打って編集長として夏衍(劇作家、のちの文化部副部長)に急いで来てもらうことにした。」
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「突如、元旦に、私は一通の武漢からの電報を受け取った。内容はしごく簡単で「御相談したき用件あり、直ちにおいでを乞う、陳誠」とあるだけだ。上海、南京が陥ちてから、軍事と政治の中心は、すでに武漢に移っていて、陳誠〔のちの国府行政院長〕はそこの警備司令をしていることは、知っていた。・・・
・・・八路軍はすでに漠口に事務所を設け、周恩来、董必武、葉剣英、鄧頴超らも出て来ている。長いこと別れていたので、彼らにも会いたかった。
こうなると、立群をつれて行かねばならない。」
「夏術は五日に着いた。・・・引継ぎはすっかりかたづいて、『救亡日報』は元旦に正式に復刊し、長寿東路に社屋を設定した。広州に残した任務が一段落したので、私は出発できることになった。
六日の夜、私たちは粤漢(エツカン)線〔広州~漢口〕の汽車に乗って、黄沙駅から出発した。私と立群、それに蘇という青年が同行した。」
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○夏衍
1900年浙江省杭州生まれ。浙江省立甲等工業学校在学中、同志と共に半月刊「双十」創刊。
26年(大正15年)明治専門学校電気工学科(福岡)を卒業(4年3ヶ月在学)し、九大工学部に入学。学校には余り行かず、国民党左派の一員として、東京はじめ各地で活動。
1927年「4・12クーデタ」直後帰国。杭州の工業学校時代の友人がやっている上海・虹口・東有恒路一号にある紹敦電気公司という電気器具店に転げ込むが、この店は、上海に戻った「流亡人士」たちの集合場所になり、のちには中国共産党閘北区委員会の連絡所になる。5月末頃中国共産党に入党、閘北区第3街道支部に属す。
29年陶晶孫らと芸術社劇を組織し、機関紙「芸術月刊」を編集。同年馮乃超と共に、中国共産党江蘇省委員会から派遣されて、魯迅と左翼作家聯盟結成について協議。
翌30年、同聯盟発足の中心的役割を果たし、28年頃から展開されている魯迅と革命文学派の革命文学論争に決着をつける。
一方、ゴ-リキ-、平林たい子らの作品を翻訳し、「賽金花」「自由魂」「上海屋檐下」などを発表、「中国のチエ-ホフ」と呼ばれる。
1937年、上海において、郭沫若らと「救亡日報」を主宰。その後、桂林から香港に脱出。その後、西南における進歩の拠点となった桂林を中心に人民の啓蒙運動に活躍。
革命後、全人代上海市代表、全人代山東省代表等を手始めに、対外文化協会副会長、中国文学芸術界連合会全国委副主席、アジア・アフリカ作家会議中国代表団副団長、ガネフォ中国準備委員、中日友好協会理事等を歴任して、政治、文化の両面にわたって活躍。
文革中の1966年10月、1925年時点での、魯迅と北京師範大学在学の許広平との往復書簡「両地書」において、許広平が「反動的国防文学」と決めつけている事により失脚。
1978年、中日友好協会副会長として復活し、79年12月魯迅研究会顧問となる。これより先11月には中国電影家協会主席となる。80年、鑑眞大師像帰国巡回展委員会委員。同年9月に中日友好協会代表団長として日中友好協会成立30周年慶祝大会出席のため来日。
to be continued

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