所在地:京都市上京区下長者町通智恵光院北東角(辰巳児童公園内)
碑文:
空爆被災を記録する碑
昭和二十年(一九四五年)六月二十六日昼前、低い雲の上空に、敵
機B29の爆音が近づき、突然に轟然たる爆発音とともにすさまじ
い土煙が上がった。この時の被爆は上長者町通より南は下立売通、
東は大宮通、西は浄福寺通に至る方四百メートルの地域で、当時の
報告には五十キロ爆弾七発とも五発とも言われた。
報道管制のため、その状況は、多くの市民の知るところとならな
かったが、西陣警察署の記録によると、
一、死傷者 即死 四十三人、 重傷 十三人、
軽傷 五十三人、 計 百九人。
二、被害家屋 全壊 七十一戸、半壊 八十四戸、
一部損壊 百三十七戸、計二百九十二戸。
三、罹災者 八百五十人。
であった。ちなみにこの辰巳公園も被災地跡にできたものである。
第二次大戦(大東亜戦争)において京都市は非戦災都市と言われ
てきたが、東山区馬町と太秦の三菱工場および当地域が爆撃をうけ
たものであり、当地域が最も大きな犠牲者を出したのである。
ここに戦後六十年を期して、この悲惨な空爆の事実を伝えるため
この碑を建立して後世への記録と留める。
平成十七年八月
空爆被災を記録する碑の建立委員会
昭和二十年(一九四五年)六月二十六日昼前、低い雲の上空に、敵
機B29の爆音が近づき、突然に轟然たる爆発音とともにすさまじ
い土煙が上がった。この時の被爆は上長者町通より南は下立売通、
東は大宮通、西は浄福寺通に至る方四百メートルの地域で、当時の
報告には五十キロ爆弾七発とも五発とも言われた。
報道管制のため、その状況は、多くの市民の知るところとならな
かったが、西陣警察署の記録によると、
一、死傷者 即死 四十三人、 重傷 十三人、
軽傷 五十三人、 計 百九人。
二、被害家屋 全壊 七十一戸、半壊 八十四戸、
一部損壊 百三十七戸、計二百九十二戸。
三、罹災者 八百五十人。
であった。ちなみにこの辰巳公園も被災地跡にできたものである。
第二次大戦(大東亜戦争)において京都市は非戦災都市と言われ
てきたが、東山区馬町と太秦の三菱工場および当地域が爆撃をうけ
たものであり、当地域が最も大きな犠牲者を出したのである。
ここに戦後六十年を期して、この悲惨な空爆の事実を伝えるため
この碑を建立して後世への記録と留める。
平成十七年八月
空爆被災を記録する碑の建立委員会
爆地点を示す略地図
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昨年8月6日の「日経新聞」朝刊に、「京都にも空襲があった」との記事がありました。
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以下、ネット上の記事をかいつまんで使わせて貰います。
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1 京都市内の主な空襲
昭和20(1945)年1月16日 東山区馬町(東山空襲)
3月19日 右京区春日
4月16日 右京区太秦
5月11日 上京区京都御所
6月26日 上京区出水(西陣空襲)
2 東山空襲と西陣空襲
①東山空襲:死者 41人 重軽傷 56人 家屋破壊 141戸
昭和20(1945)年1月16日午後11時23分頃、京都市東山区馬町(渋谷通東大路)東入付近に、米軍機が爆弾投下。京都市では初めての空襲。
②西陣空襲:死者 50人 重傷 66人
昭和20(1945)年6月26日朝、B29爆撃機1機が爆弾7発を京都市上京区出水付近に投下。うち2発は不発。京都市内最大の空襲。
3 報道規制
最初の空襲の後、厳しい報道規制が敷かれ、公式発表では、「一般的に被害は軽微」というだけで、被爆地の様子については詳しく触れられなかった。新聞にも被爆地については、「京都市の一部」としか示されず、多くの市民は詳しい様子を知ることが出来なかった。
「デマを飛ばすな」「流言は敵の謀略だ」「被爆地の写真撮影を禁ず」などのビラが張り出された。
1月18日の京都新聞には、「一昨夜、B29一機が京都市に侵入、投弾」と報道はしていたが、被害については、「ごく軽微」とされていた。
京都市の初めての空襲であり、夜更けで警戒警報も出ないまま、突然、爆撃されたので、警察などは人々が動揺することを怖れたための報道規制だと考えられる。
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1 京都市内の主な空襲
昭和20(1945)年1月16日 東山区馬町(東山空襲)
3月19日 右京区春日
4月16日 右京区太秦
5月11日 上京区京都御所
6月26日 上京区出水(西陣空襲)
2 東山空襲と西陣空襲
①東山空襲:死者 41人 重軽傷 56人 家屋破壊 141戸
昭和20(1945)年1月16日午後11時23分頃、京都市東山区馬町(渋谷通東大路)東入付近に、米軍機が爆弾投下。京都市では初めての空襲。
②西陣空襲:死者 50人 重傷 66人
昭和20(1945)年6月26日朝、B29爆撃機1機が爆弾7発を京都市上京区出水付近に投下。うち2発は不発。京都市内最大の空襲。
3 報道規制
最初の空襲の後、厳しい報道規制が敷かれ、公式発表では、「一般的に被害は軽微」というだけで、被爆地の様子については詳しく触れられなかった。新聞にも被爆地については、「京都市の一部」としか示されず、多くの市民は詳しい様子を知ることが出来なかった。
「デマを飛ばすな」「流言は敵の謀略だ」「被爆地の写真撮影を禁ず」などのビラが張り出された。
1月18日の京都新聞には、「一昨夜、B29一機が京都市に侵入、投弾」と報道はしていたが、被害については、「ごく軽微」とされていた。
京都市の初めての空襲であり、夜更けで警戒警報も出ないまま、突然、爆撃されたので、警察などは人々が動揺することを怖れたための報道規制だと考えられる。
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また、米側資料を分析して、原爆投下候補都市の第一番目に京都があったということを突き止めた方がおられるそうです。
▼「ウォーナー伝説」。
東洋美術に造詣の深いランドン・ウォーナー博士が、「ウォーナー・リスト」と呼ぶ京都など古都の文化財のリストを作り、アメリカ政府に「京都や奈良を爆撃しないよう進言した」とされる「伝説」。
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奈良県桜井市の「安倍文殊院」では、毎年、博士の命日に法要を開き、非戦と平和を誓っているとのことで、こうした美談を伝える記念碑は、奈良の法隆寺、鎌倉などに7ヶ所あるという。
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戦後公表された米軍の極秘資料によって、この伝説が「全くの作り話」、「全くのデマであり、全くの迷信です」と 証明された歴史学者がおられるとのこと。
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奈良県桜井市の「安倍文殊院」では、毎年、博士の命日に法要を開き、非戦と平和を誓っているとのことで、こうした美談を伝える記念碑は、奈良の法隆寺、鎌倉などに7ヶ所あるという。
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戦後公表された米軍の極秘資料によって、この伝説が「全くの作り話」、「全くのデマであり、全くの迷信です」と 証明された歴史学者がおられるとのこと。
その方によると、「ウォーナー・リスト」は、「文化財返還のための資料ですね。或いは、賠償のための資料」とのこと。
ナチスドイツの文化財略奪に備え、アメリカは各国の文化財リストを作り、これを元に、文化財の返還や賠償を求める計画を持っていた。
つまり、「日本が他国の文化財を盗んだり紛失した場合、日本版の文化財リストで『どれで返してもらおうか』と」いう計画だとか。
つまり、「日本が他国の文化財を盗んだり紛失した場合、日本版の文化財リストで『どれで返してもらおうか』と」いう計画だとか。
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一夜に10万人以上が亡くなられた東京大空襲と比較すると極めて小規模の空襲ですが、亡くなった方のひとつひとつの命を考えるならば、全体規模の大小にかかわらず、失われた生命の重みは変わらないと思う。
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2 件のコメント:
京都にも空爆があったことと、ウォーナーリストが伝説だったというのは初めて知りました。まぁ京都を空爆の目的地から外してたというのはうそ臭いとは思っていましたが。
体験した方の話を聞くと、空襲の恐怖感というものは相当なものらしいですから、イラクの方がアメリカを恨むというのも無理はない気がします。
今もこういう無差別爆撃が存在するんですよね。
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