2009年2月18日水曜日

昭和13(1938)年 南京は終らない

昭和13(1938)年
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(日付なし)
・日中戦争開始の37年7月から2年間に、憲兵が察知した軍人・軍属6452人の要注意通信、言動、手記などを分析したデータ。
 
「略奪強姦は自由」「捕虜は列ベて試斬りとし又は機関銃にて射殺す」など「皇軍将兵の略奪強姦良民虐殺」に関するものが418件。「死体散乱し惨状目を覆ふ」など戦争の悲惨を言うものが288件にのぼえう(大本営陸軍部研究班「支那事変ヨリ観察セル我ガ軍人軍属ノ思想状況」(「日本軍思想・検閲関係資料」)。
また、「我軍は支那兵二万を捕虜としたるが之を全部機関銃にて射殺し死体は揚子江に流したる旨」「楊(揚)子江岸にて捕虜一万二千名に対し食糧を供給能はずしておう殺したる由」。国内でそう話した2人の民間人が38年、それぞれ陸軍刑法違反で有罪判決を受ける(西ケ谷徹「支那事変に関する造言飛語に就て」)。
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・社会大衆党、前年37年7月の戦争勃発とともに「今次事変は日本民族の聖戦である」(戦時下運動方針)として「帝国主義戦争絶対反対」のスローガンを取り下げ、綱領を改正(「我党は国体の本義に基き・・・社会運動の過去の理論を揚棄し、全体主義の理論をもって、・・・」(38年大会一般方針))。
翌39年には、右翼団体東方会と合同して「革新政党」結成する共同声明を発するが、旧日労(全労)系と旧社民(総同盟)系の両派が対立し、合同問題は失敗。
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1月(日付なし)
・満州、中共中央に反して北満臨時省委設立の東北人民革命軍第3軍趙尚志、意見交換要請受け入ソ、後、逮捕、監禁1年半。
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・山西省臨時政府籌備委員会初代委員長曽紀綱、没。新委員長に高歩青が就任。
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・満州映画協会の北京支社、新民映画協会として開設。
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・海軍省、「支那事変に於ける帝国海軍の行動」発行。空撃の無差別性や非戦闘員殺害を否認。
「而して我が空撃が如何に正確無比であるかは、『日本海軍の空爆は適確に軍事施設を狙うから民家は安全で、空爆に際しても一般住民は安んじて生業に従事している』との外人記者報道と、『日本空軍の勇敢無比、質の優秀なことは正に世界一である』との外人飛行士の談話等によるも、その片鱗を窺うことができる」。
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・日本農民連盟、結成。
全農内の稲村隆一ら一部幹部、全農が組合総同盟(鈴木文治会長)との合同を進めている動きに反発、1937年末に全農を脱退、中野正剛主宰の東方会と連絡をとり、長野農村更生連盟・信州郷軍同志会・甲府革新党など地方組織を糾合して、日本農民連盟を結成。後、土佐農民総組合・千葉農村更正連盟などが参加。
40年9月解散。前後して、日本農民組合総同盟(7月)、大日本農民組合(8月)その他地方的農民組合が解散。日本農民組合も41年3月、山梨県連の解散を最後に全組織を解消。
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・武田麟太郎らの雑誌「人民文庫」、連続発禁のため廃刊。旧プロレタリア作家たちによって作られた「独立作家倶楽部」も解散。
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・小林秀雄(36)、「日本語の不自由さ」(『文学界』)、「女流作家」(『新女苑』)、「文芸時評」「文芸雑誌の行方」(『東京朝日新聞』)。『文学界』座談会「支那を語る」、『文芸』座談会「志賀直哉の人と芸術」。
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・石川淳「マルスの歌」(『文学界』)発表。1937.12.29 発禁。
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・坪田譲治「子供の四季」(「都新聞」)1~6
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・中河與一「天の夕顔」(「日本評論」)1
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・徳田秋声「光を追うて」
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・正宗白鳥「思想無思想」
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・今村均少将、兵務局長就任。阿南惟幾の後任。
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・文部省の指導パンフレット「国民精神総動員と学校教育」。
勅語奉読を伴う行事の強化、時局教育の導入、各教科毎に総動員教育が強調される。
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・ドイツ外務省・国防軍首脳の人事異動。ヒトラー強硬外交で戦争政策の反対者失脚(~2月)。ドイツ政府、民間部門の全ての職から非アーリア人追放を奨励。リッペントロップ外相、日独関係強化を大島武官に希望。
日独軍事同盟の話題が出始める。日本大使館付武官大島陸軍中将、年賀を兼ねて、オーデル河畔ゾンネンプルクの別荘にリッベントロップ外相を訪問。リッベントロップは、ドイツ・日本間を条約で更に接近させる道はないか相談を持ちかける。
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・ヘミングウェイ(39)、1月帰国、3月スペイン行き、5月帰国、9月スペイン行きと多忙な移動生活。
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1月1日

・南京市政府に代る住民代表による南京自治委員会再建。
中支那方面軍特務部の指導。市政府の役割を事実上代行していた難民区委員会から行政責任を引継ぐ。日本軍占領から2週間以上無政府状況。
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正月以後も、国際委員会は「統治する能力も・・・自信もない」(「一ドイツ人の見聞記」)行政能力の低い自治委員会を肩代りして、精力的な救援活動を継続。特に日本兵の非行摘発は、1月上旬に復帰した米大使館など外国代表部に窓口を切替え、外国政府⇒日本外務省⇒陸軍中央部⇒現地軍のルートを通じ圧力を加え、それなりの効果を得る。
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・この日付(1月1日)けジョン・ラーベ(南京安全区国際委員会代表、ジーメンス社南京支店長)の日記(「南京の真実」)。
「夜の九時に日本兵がトラックに乗ってやってきて女を出せとわめいた。戸を開けないでいたらいなくなった。見ていると中学校へむかった。あそこはたえず日本兵におそわれている。・・・」
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1月1日
・蒋、内閣改造。行政院長辞任。後任孔祥煕。講和の責任取らぬ意志表示。この日、トラウトマンより新4条件に関する細目11ヶ条が非公式に伝えられる。
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蒋は、「倭寇が持ち出した(細目)条件は、わが国を征服し滅亡させるものに等しい。日本に屈服して亡びるよりは、戦いに敗れて亡びる方を選ぼう。厳しい拒絶をもって回答としなくてほならない」(「蒋介石秘録」12)と、2日の日記に書く。
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「孔(行政院院長)、張(副院長)はこの日(1月1日)正式に就任し、二日には白崇禧、閻錫山等が漢口を去って前線に赴き、四日には蒋介石も開封方面に去ってしまった。ここで後に残った孔、張二人に和平の全責任が負わされてしまったのであるが、しかし前後左右からいろいろ邪魔が入り、徒に時日を空費しているうち、日本軍は遂に待ち切れなくなって一月十六日の声明を発し、すべては全く水泡に帰してしまったのである。・・・和平方針はすでに(民国)二六年(1937年)の大晦日の国防会議で正式に決定され、二七年の元且から実行される筈であったのだ」(安藤徳器「汪精衛(兆銘)自叙伝」)。
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to be continued

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