1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(10)
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3月30日追加
・マルセイユ。臨時県委員会が綱領的宣言を採択。マルセイユ市会、革命勢力に反対する「秩序」勢力支持を呼び掛ける。
マルセイユのコミューンからパリのコミューンへの手紙。マルセイユ・コミューン蘇る(4月4日大弾圧)。
「われわれは各大都市の選挙によって選ばれた市会に、行政上および市政上の諸特権をゆだねることによって、コミューンの自治とともに、行政の地方分権化を要求する。
県知事の制度は自由にとって有害である。
われわれは全国的な国民衛兵の連合によって共和国の強化を望むものである。
しかしながら、われわれは、何よりもそして何にもまして、マルセイユの望むところを望むものである。」
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3月31日
・仏、コミューン、コミューンの議員に1日15フランの俸給を与える決定。
労働者団体と商工業会議所に、商業手形支払期間の問題についての提案を呼び掛ける事を決定。
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・中央委員会とコミューンの最初の衝突。
自己の権威確立を決定した中央委員会は、軍事代表委員クリュズレに国民衛兵再組織を委任。
クリュズレ、セイヌ県砲兵隊中央委員会の活動について、砲兵部隊組織について、コミューンの軍事委員会と協力してパリ防衛計画を完成することについて、報告提出(コミューン執行委員会は報告を承認、法令の効力をもつことになる)。
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○[コミューン群像:ギュスターヴ・ポール・クリュズレ]
将校の家庭に生まれ、軍隊に勤務。1848年6月蜂起弾圧に参加。クリミヤ戦争従軍、アルジェリアのフランス軍に勤務し、先住民統治の為の「アラヴ局」将校。1858年、不正商取引により起訴、退職。ニューヨークに移住。ガリパルディ軍に参加。
1861年、再びアメリカに行き、北軍に従軍、将軍になり、南軍の欠席裁判で死刑判決。戦後ヨーロッパに戻り、アイルランドのフェニアン党運動に参加。
フランスに帰国後、反対派新聞に寄稿し、軍隊についての論文の為に禁銅判決。監獄でヴァルランを知る。出獄後、再度ニューヨークに行き、インタナショナル支部に入る。
フランス帝政崩壊後帰国、パリ20区中央共和委員会に入り、国防問題を担当、
1870年9月15日付アピールに署名。9月17日リヨンに派遣、ローヌ県革命軍司令官になる。9月28日の行動には、ミハイル・バクーニンと共に参加。11月1~4日のマルセイユの民衆行動にも参加し、国防軍司令官及び南部連盟軍総司令官に任命。
パリに戻り、71年3月30日、国民軍中央委員会により、陸軍省に代表委員として派遣される。4月2日から軍事代表委員、4月3日から陸軍省代表委員(マルクス派のインタナショナル会員はこれに反対)。4月16日、第1、18区コミューン議員に選出(第18区の委任状を選択)。
コミューン軍を指揮し、国民軍を年齢別に行軍大隊と予備大隊とに分ける事など組織的措置を行う。公安委員会設置に反対。4月30日、イシ堡放棄の廉で軍事代表委員を罷免され逮捕。5月21日、コミューン会議での釈明が認められ釈放。
ヴェルサイユ軍のパリ侵入後、5ヶ月間市内に潜入、その後スイスに亡命、様々な新聞に執筆。インタナショナルハーグ大会諸決定に反対。1871年8月リヨンの軍法会議は要塞地域流刑判決を、72年8月パリの軍法会議は死刑判決を下す。
1880年恩赦後、帰国。社会主義的諸新聞に寄稿し、警察の迫害を受ける。1884年、社会主義者として代議士に選出、その後再選。1889年、第2インタナショナルパリ大会召集組織委員会委員。のちフランスの社会主義者やマルクス主義に反対、エドゥアール・ドリュモンの反ユダヤ主義運動に参加。
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・コミューンの代表たち、行政上の地位を獲得。テイスは郵政省を掌握、等々
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・穏和派議員、チラールに従い、コミューンを離れる。
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・交換・労働・工業委員会の初会合。
フランケルが計画提出。パン屋の夜業禁止(4月27日決定)についての検討と、工場主が放棄した工場が、自由な組合に結集した労働者によって管理されること、を望む(4月16日布告)。
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・司法委員会、コミューン議員プロトーに、緊急の民事・刑事問題の全てを担当し、「市民の個人的自由を防術するため、いっさいの必要な措置をとること」を委ねると決定。
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・パンテオン広場でパリ第5区国民軍諸団体の行進。国民軍兵士代表が、コミューン議員のところに派出され、「未来の旗」(赤旗)を贈る。
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・コミューン兵(連盟兵)とヴェルサイユ兵、クルブヴォア地区(パリの郊外)において交戦。
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・第3区の「ニコラ・デ・シャン」教会に本部をおくコミューン的クラブ、このクラブの例にならい、全教会に「民衆の政治教育」の為に、自治体のクラブを開くよう呼びかける。
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・アルジェリア。モクラニ、宗教団体ラフマニイア教主アル・ハッダードと息子シ・アジズと植民者に対する共同行動について会談。フランス軍、反乱民衆に対し懲罰行動。諸都市の民主的傾向のフランス移民は、ヴェルサイユ政府および軍当局に対し行動。
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・ベルリン。「ゾツィアル・デモクラート」、ドイツのプロレタリアへの呼び掛け掲載。
「現在の情勢におけるドイツ労働者の義務は、フランスの兄弟たちにできるかきりの援助をあたえることである。そして現在われわれは、ただ新聞紙上の中傷を反駁し、ドイツの人民が、彼らの願望のなかに人類を解放し、搾取を絶滅しようとする気高い闘争をみとめさせることだけしかできないとしても、これは大きい成果となるであろう・・・
われわれがブルジョア新聞の嘘をぱくろすることができれば、ブルジョアジーはその計画 - ドイツの兵器の力によって、フランスの労働者階級の解放をゆるさないように - することはできなくなるであろう」
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・ナルボンヌ。政府軍、市役所占領。コミューン崩壊。
to be continued
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