2009年2月14日土曜日

治承4(1180)年記(3) 大輪田泊築造~改修

2年14日
・藤原俊成邸近隣で火事。五条京極邸焼亡。俊成・定家ら、源成実邸に避難。その後、定家は法勝寺の外祖母の家に移る。
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□「二月十四日。天晴ル。明月片雲無シ。庭梅盛ンニ開ク。芬芳四散ス。家中人無ク、身徘徊ス。夜深ク寝所ニ帰ル。灯、髣髴(ハウフツ)トシテ猶寝ニ付クノ心無シ。更ニ南ノ方ニ出デ、梅花ヲ見ルノ間、忽チ炎上ノ由ヲ聞ク。乾ノ方卜云々。太(ハナハ)ダ近シ。須叟ノ間、風忽チ起リ、火北ノ少将ノ家ニ付ク。即チ車ニ乗りテ出ヅ。其ノ所無キニ依り、北小路成実朝臣ノ宅ニ渡り給フ。倉町等、方時煙二化ス。風太ダ利シト云々。文書等多ク焼ケ了ンヌ。刑部卿直衣ヲ着シ来臨サル。入道殿謁セシメ給フ。狭小ナル板屋、毎度堪へ難シ。」(「明月記」)。
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明月片雲なき夜、梅花の香流るる中、定家は寝もやらず徘徊しているうちに火事があった。俊成とともに、北小路成実朝臣の家に避難する。やがて、刑部卿が見舞に来る。俊成が逢う。俊成の家は全焼した。定家は、父俊成に対し、終始敬称をもって記述。
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□「十六日。晴天。今夜開院ニ行幸。衣裳等違乱ニ依り出仕セズ。東ノ大路ニ出デ、此ノ方ヲ望ム。只炬火ノ光ヲ見ル。後ニ間ク。供奉ノ公卿、大納言四人(大将・宗房・実国・宗国)、中納言四人(兼雅・大将・成範・実家)、参議(家通・実守・実宗)、三位(修範・実清・頼実)ト。武衛注セラルル所ナリ。」(「明月記」)。
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高倉天皇の行幸に、火事で衣裳を焼失したためか供奉しなかったが、大路に出てはるかにこれを見、供奉の人々を聞書きする。
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2月20日
・平清盛、摂津大輪田泊(おおわだのとまり)を修築を計画。宣下。
清盛の要請により、大輪田泊石椋(イシグラ)修造のため諸国雑物運上船の梶取・水主に夫役が課される(「東大寺文書」)。また、河内・摂津・和泉・山陽・南海道諸国より田1丁、畠2丁ごとに各1人の夫役を徴し、大々的な改修に着手。その結果、宋船が入港できるようになる。
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平氏の経済的基盤たる日宋貿易のため。
これまでの改修は平氏の私力によるものだが、今回は国家権力を挙げてのものとなる。人夫動員は、瀬戸内周辺諸国人民を強制雇用する計画だが、荘園領主・民衆の抵抗が予想される。平氏は武力を用いても断固実行の姿勢を構え、朝廷に提出する実施要望書には平氏筆頭軍団長平貞能の名前が添えられる(「玉葉」同条)。
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▽大輪田泊築造~改修の経緯
[清盛と福原]
12世紀前半、院生の武力的支柱として台頭してきた伊勢平氏は、保元・平治の内乱を経て、強大な政治勢力となる。
平治の乱後、二条天皇親政派と後白河上皇の対立が激化。清盛は両派の間で巧みに政界を渡り、急速な昇進を果たす。
仁安元年(1166)内大臣、翌2年2月左右大臣を越えて太政大臣となる。公卿の子でない者が大臣に進むのは安和2年(969)以来200年ぶりという(「花園天皇宸記」元応元年6月21日)。太政大臣は一種の名誉職であり、辞任後、前大相国という肩書での発言が重要で、僅か3ヶ月で辞任し、氏長者を嫡男重盛に譲る。しかし、これからという時に大病を患い、翌年2月に出家する。
幸い一命をとりとめるが、間もなく(仁安4年正月~2月頃)、摂津国八部(ヤタベ)郡平野(神戸市兵庫区湊山町辺)の福原山荘に移り、以降10年以上ここに居住する。隠退時、清盛と妻時子は、六波羅館を出て重盛に譲り、清盛は福原へ、時子は西八条邸に移る。
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清盛は福原転居の7年前の応保2年(1162)、摂津国八部郡の国衙領を得たと推測され、家司の藤原能盛に一郡全域の検注を命じる。八部郡は、摂津の最西部にあり、東は兔原(ウバラ)郡、北は有馬郡・播磨国美嚢(ミナキ)郡、西に明石郡、南に大阪湾がある(現在の神戸市中央区の西半、兵庫区・長田区・須磨区全域、北区の一部)。この検注に際し、郡内7ヶ荘も検注をうけ、九条家領輪田荘の31町が小平野(コビラノ)荘・井門(イト)荘・兵庫荘・福原荘の為に横領され、事実上平家領化してゆく。この中で、輪田荘にある和田の浜(その中に古代以来の重要港の大輪田泊がある)も福原荘に横領されたといわれる。
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[承安の外交]
大阪湾は注ぎこむ河川の土砂のため水深が浅く、大船の出入りには難があり、京への物資は兵庫津で小船に積替え、淀川を溯上するのが定法。
つまり、大輪田は瀬戸内海を東進する大型船の最終寄港地となるため、ここの掌握は西国物流の掌握を意味する。それ故に、清盛はこmの大輪田泊の北2.5kmにある福原山荘に居を定めることにする。この西国物流掌握は、単に内海水運掌握のみでなく中国貿易(日宋貿易)による巨万の富の源泉の掌握となる。
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嘉応2年(1170)9月には宋人が福原に来訪。京都では城南寺の競馬の最中であったが、後白河法王はそれが終るや福原に駆け付け、直接宋人を「叡覧」(「百練抄」9月20日条)する。右大臣九条兼実は「未曾有の事」「天魔の所為か」と仰天(「玉葉」9月20日条)。
承安2~3年、日宋関係は、貿易開始の前提として海賊除去を求める宋と、伝統的外交姿勢を踏み越えて行こうとする清盛・後白河の動きが一致し、以降日中貿易は大幅に拡大したと推測される。
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「平家物語」巻1「吾身栄花」で平家の繁栄は、「楊州の金(コガネ)・荊州の珠(タマ)・呉郡の綾・蜀江の錦、七珍万宝一として欠けたる事なし」と記され、清盛の中国貿易から得る富を示す。中国からの流入品の一番は銅銭で、これが日本国内で流通する。この大量の宋銭流通は社会問題の発生を伴っていたらしく、前年治承3年(1179)お多福風邪らしきものが流行した際、人々は「銭の病」と呼んで忌避する(「百錬抄」6月条)。一方、日本の輸出品は、砂金・真珠・硫黄と杉・檜・松などの板・角材であった。
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[経島築造]
承安2~3年の日宋交渉にあわせ、清盛は大輪田泊の改修を始める。
承安3年、兵庫嶋築造に着工(「帝王編年記」)、2年後の安元元年(1175)完成。
大輪田泊は、東南の大風常に扇(サワガ)しく、朝夕の逆浪凌ぎがたし」(「山槐記」治承4年3月20日条)といわれ、その波よけ風よけの為に作られた人工島も、翌年には崩れ去る。
そこで、阿波を本拠とし、吉野川下流南岸の沖積地の桜庭を中心に勢力をふるう平家の有力家人で、平家水軍の一翼を担う、田口良成(阿波民部大夫)が、改修工事責任者とされる。彼は、石の表面に一切経を書いて船に積み、船ごと沈める工法を採用(「延慶本平家物語」巻6太政大臣経島を突給事)し、経島と云われる所以となる。尚、阿倍民部大夫は壇の浦では平家に返り忠を行うことになる。
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「平家物語」では、「入道死去」の次の章節で、清盛の生前の事績を語る部分で触れられる。
□「凡そは最後の所労の有様こそ、うたてけれ、(清盛の臨終の病苦の有様は厭わしかったが)まことはただ人とも覚えぬ事ども多かりけり。・・・又何事よりも、福原の経島築いて、今の世に至るまで、上下往来の船の煩ひなきこそ目出たけれ。彼の島は去んぬる応保元年二月上旬に築き初められたりけるが、同じき年の八月に俄かに大風吹き、大波立って皆ゆり失ひてき。又同じき三年三月下旬に阿波民部重能を奉行にて、築かせられけるが、人柱立てらるべしなんど、公卿僉議ありしかども、それは罪業なりとて、石の面に一切経を書いて、築かれたりけるゆゑにこそ、経島とは名付けたれ」とある(但し、年代表記は全て誤り)。
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そしてこの年治承4年、最後の大輪田泊の改修が行われれるが、これは石椋(イシグラ)を修造する大々的な改修で、その結果、宋船が入港できるようになる
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2月21日
・高倉天皇(20)、平清盛娘・中宮徳子の子の言仁親王(ときひと、3)に譲位。4月22日、安徳天皇即位。
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□「この日譲位の事有り(御歳三歳)。応徳三年の例を以てこれを行わる(旧主宮閑院第、新主宮五條東の洞院)。幼主の礼、同居の儀、保安・永治共に以て快からず。各別の御所、長和・応徳すでに吉例たり。仍って強いて各別の儀有りたり。」(「玉葉」同日条)。
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2月23日
・定家、咳病により籠居。この後しばらく病悩。
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前日(22日)、幼帝安徳の母儀中宮建礼門院平徳子の行啓があり、定家は、「徒然ニ依りヒソカニ」見物し聞書する。23日、「咳病不快ニ依り籠居」。定家の宿病咳病は、青春の頃からのもの。
2月26日
・藤原俊成、家族と共に藤原盛頼のいる勧修寺に移る。定家は病の為移らず。
to be continued

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