■天文4(1535)年 [信長2歳]
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この年(月日なし)
・若狭守護武田家の家督争い。
この年、守護武田元光、出家して子の信豊への家督継承を急ぐが、弟信孝を擁立する勢力が出現。また、これまで武田軍の藩屏の役割を果たす有力被官で小浜代官の粟屋元隆が離反、天文7年には武田軍と戦闘となる。弟信孝も越前から若狭へ侵攻する気配を見せるが、元光は幕府を通し越前朝倉氏にその制止を要請、これを断念させる。
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・この頃、若越の廻船は下北半島方面へも出向くようになり、この年、野辺地湊(青森県野辺地町)の五十嵐甚右衛門家の初代が、越前三国よりこの地に移住したと伝えられる。
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・シチリア島。シチリア人の異端審問所反対要求に対し、カール5世、異端審問所の権力制限に同意。
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・ドイツのシュバイヤーとコロ、アンデス東側のパパメーネ河畔を探検
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・メキシコ。コルテス、カリフォルニア南東部にラ・パスの町を建設。
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・キューバ。ハコボの金鉱枯渇。この時点でキューバの原住民人口は2千人に減少。
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・ラスカサス、ニカラグアに到着。ドミニコ修道会開設。
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・インカ帝国の財宝によりブームとなったパナマ。アウディエンシア開設。
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・ペドロ・デ・メンドサ、ペルー貿易中継地としてブエノスアイレスを建設。入植者1,500人と共にブエノスアイレスに上陸、後、伝染病などのため植民を放棄。
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・スコットランド王、ローマ教皇より「高位聖職者指名権」を取得。
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・マイルズ・カヴァデイル「英訳聖書」。ルター訳に依存するところ大。1539年「グレート・バイブル」出版。
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・フランソワ1世、「シュノンソー城」をトーマ・ボイエ息子より購入。
シュノンソー城:1515~1522、大蔵大臣トーマ・ボイエと妻カトリーヌ・ブリリネが造営。1547年、アンリ2世が寵姫ディアンヌ・ド・ポワティエに譲渡。ディアンヌ・ド・ポワティエ、5つのアーチの「橋」を架け。カトリーヌ・ド・メディチ、橋の上に「ギャラリー」を建造(1580年完成)。
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・ミケランジェロ、「最後の審判」制作に着手。
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・イッポリート・デ・メディチ(26)、没(1509~1535)。トスカナ公アレッサンドロが毒殺。
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・ポンメルン、プロテスタント都市に転向。
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・エチエンヌ・ドレ、「キケロを模範することに関する対話」。キケロを無視したエラスムスを攻撃。ドレにとってはキリスト教よりもキケロ。
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・ミシェル・セルヴェ、リヨンで「プトレマイオス地理学」新版を校訂註釈して発表。比較地理学の先駆者。他に医学、星占学。「彼(セルヴェ)は無限なるものに苦悩せしめられ、彼方なるものを捜し求める人々の一人」(オーギュスト・ディード「ミシェル・セルヴェとカルヴァン」)。
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・ジュネーヴ。ギョーム・ファレルの扇動により民衆、旧教会略奪破壊。
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・ボーンホルム沖の海戦。
デンマーク、リューベックの船隊を撃破、ハンザ同盟の海上支配を終わらせる。
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1月(日付なし)
・越後守護代長尾為景の拠点の1つ下倉山城(新潟県堀之内町)、守護上杉定実の一族上条定憲により包囲、攻撃。越後は国を二分する混乱となる。
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1月2日
・山科言継(28)、右近衛権少将から同権中将に補任。
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1月6日
・日向、長倉能登守、国人と謀り伊東祐吉を擁立し佐土原城に入城。伊東祐清、難を避けるために剃髪して隠居。12日、伊東祐吉、伊東家当主として曽井城に入城。15日、清武城に入城。2月19日、宮崎城に入城。
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1月21日
・ヘンリ8世、教皇パウルス3世に反撥しトマス・クロムウェルに修道院の実態調査を命じる。
クロムウェル部下ライトン博士が調査。
ケント・ランドン大修道院では情婦と同衾する男、食器棚には男装した女。144の宗教施設は悪徳度合いがソドムに匹敵(修道院は子供だらけ、聖職者(大修道院長・修道士・托鉢修道士)は、娼婦だけでなく既婚女性ともいちゃついている)。調査に基づき、議会は修道院を弾圧。
カンタベリー大司教クランマー、密かに結婚していた2度目の妻をヘンリ8世の怒りに備え、ドイツに送り返す。
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1月21日
・パリ高等法院、クレーヴ広場で「檄文事件」犯人の新教徒6人を火刑。フランソワ1世、ドイツのルター派諸侯に「大逆罪」による処刑と説明、納得させる。
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2月(日付なし)
・フランソワ1世、オスマン皇帝スレイマン1世と同盟。皇帝カール5世への対抗策。
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・~6月、ラブレー(リヨン市立病院医師)、「檄文事件」で身の危険を感じ姿をくらます。
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2月5日
・大風により禁裏日華門が転倒。
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2月14日
・美濃で大洪水。枝広・井口間で死者2万余、家屋数万が失われる。
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2月17日
・若狭で大日照り。この日~6月29日迄殆ど雨が降らない。
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3月(日付なし)-
・毛利元就、備後多賀山城(比婆郡)の多賀山通続(久意)を降す。
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・アイルランド総督キルデア伯トーマスの根城メイヌース城陥落、全滅。トーマスはロンドン送還後1537年2月に処刑。キルデア家絶滅。
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3月18日
・朝廷、京都山科郷沽却の木材に公事賦課を停止(「後奈良院宸記」)。
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4月17日
・メキシコ中心にヌエバ・エスパーニャ副王領設立。
アステカ初代副王にアントーニオ・デ・メンドーサ(45)就任。15年間(副王在位1535~1552)。メンドーサ、ラ・プラタへ入植者1,500人。コルテスの行動は制約される。
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コルテスがアステカ帝国を征服して14年経過。コルテスに名声・人望・権力・富が集中。
メンドーサの使命は、国王権威確立、役人の悪弊是正、インディオ帰順と改宗促進、国王財政への最大利益収納のための植民地経済の発展など。メンドーサは原住民に対して家父長の如く接し、待遇・法的地位の改善に努力したといわれる。
1542年、「インディアス新法」は経済的混乱を引き起こしスペイン人の反発を招くため実施を見合わせる。
1546年、原住民の反乱鎮圧の際に、偶然サカテカス銀山を発見。この銀山はペルー副王領ボリビアのポトシ銀山と共に国王財政に大きく貢献。産業の振興に務め、小麦・オリーブ・絹・牛などのヨーロッパ産その他の産物の生産を奨励。
1542年、コロナードの探検隊を「シボラの7つの都」発見のために北方へ派遣(1540年コロナードはグランド・キャニオン発見)。
1551年、61才で第3代ペルー副王として派遣。ペルーでは国王権威の回復に努め、息子を各地鉱山に派遣してインディオの労働条件を報告させるが、志半ばで病に倒れ1552年62才でペルーで没。
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4月28日
・利休(千与四郎、14)、記録上に初めて現れる。
この日の日付のある「念仏差帳(サツチヨウ)日記」(堺の念仏寺の周囲の築地塀修理の為、地下より1貫文ずつ寄付させる奉加帳)で、大小路町以下10ヶ町の住人、計114名が列挙される中に、今市町に千与四郎(利休)の名が見える。
他に、
①文明の頃に既に知られる薬屋・和泉屋・奈良屋などの名がある。
②「つしかはな(辻ケ花)」がある。おそらく辻ケ花染めに関するもっとも古い時期の史料の一つであり、堺にはこうした新しい染色技法も早くから発達しているのがわかる。
③舳松(ヘノマツ)町の皮屋は武野紹鷗。この頃は新助五郎という材木町の天王寺屋(津田)宗及。今井家の宗久も堺では納屋と呼ばれており、市小路町か材木町中浜の「なや」のうちのどれかと推定できる。宗久は大永2(1522)年生まれの利休より2歳年長で、利休より2年長生き。津田宗及は生年不明だ利休と同じ天正19年(1591)没。
後年、信長・秀吉の中心的な茶頭として活躍するこの3人はほぼ同年齢。この時、14歳の利休はまだ紹鷗に師事していなく、入門は19歳の時と伝えられている。
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5月(日付なし)
・末、エラスムス、フライブルクからバーゼルに移住。フローベンの印刷所で働く(フライブルク滞在:1529年4月~1535年5月末)。バーゼルでは宗教改革の嵐は収まっていた。
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5月19日
・ジャック・カルティエ、セント・ローレンス川探検
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6月5日
・武田信虎、駿河に出兵。富士河沿い南下。27日、国境万沢口で今川氏輝と対陣。
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6月12日
・細川晴元の兵、大坂の本願寺証如の兵を攻撃して破る。
証如は主戦派下間頼秀・頼盛を追放し興正寺蓮秀らの努力で、この年和議を成立させ、晴元政権との共存路線を採用。
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6月13日
・越後守護代長尾為景、朝廷(後奈良天皇)に、長尾家が拝領していた御旗が紛失し新調したいと申請。この日、許されて「御旗御免綸旨」なるものを与えられる(「いよいよ函底に収め、永々累代の家宝に備」えるようにと為景に命じる)。為景は、長尾家が錦旗を授かる程の家格であると国内に誇示。礼銭100貫文余。
この年1月、為景の拠点の1つ下倉山城(新潟県堀之内町)、守護上杉定実の一族上条定憲により包囲、攻撃。越後は国を二分する混乱となる。
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6月20日
・岩富(弥富)城・小西城の原氏、足利義明の小弓城を攻める。弥富殿「原朗典」、小西衆の高橋・江口・佐藤氏らが討死。
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6月22日
・ロチェスター司教ジョン・フィッシャー、ヘンリー8世がローマ教会と絶縁することに反対し、刑死(斬首)。トマス・モアと同じく「首長令」に対する誓約を頑強に拒絶。カトリック内部からの刷新を信じて異端と戦う。
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6月24日
・北ドイツ都市ミュンスター、諸侯軍により陥落。
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7月(日付なし)
・皇帝カール5世、地中海のイスラム海賊バルバロッサの根拠地チュニスに遠征。提督ジェノヴァ人アンドレア・ドーリア(69、1466~1560)。
14日、カール5世艦隊、チェニス手前のラ・ゴレッタ要塞を攻略(ろ獲品中に3つのゆり印のついた大砲数門、フランスとトルコの同盟の証拠)。チェニス城内のキリスト教徒の捕虜数千人を解放。3日間、皇帝軍がチュニスを掠奪、劫掠(皇帝カール5世の汚点)。バルバロッサを取り逃がす。
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・フランシスコ・ピサロ、ディエゴ・デル・アルマグロ(スペイン人600、インディオ数千率い)をチリ探検に派遣、リマ(王達の都)建設。
1535年アルマグロはチリ探検に派遣。ティティカカ湖西岸からボリビア大地、アンデス山脈を越えコピアポで太平洋岸に出る。同行インディオの1500人死亡、困難な山岳踏破。コピアポから更に南下して現在のサンチアゴあたりまで進み、ペルーへ向かう。帰路はアタカマ砂漠を縦断。2年をかけた遠征。この遠征で一群のアルマグロ心酔派を生み出す。
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7月6日
・英、大法官トマス・モア(57)、王位継承法への署名を拒んだため大逆罪。ロンドン搭に15ヶ月間幽閉されたのち、この日斬首。
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7月21日
・能登守護畠山義総、修理大夫の官を申請。翌日、偶然、美濃守護土岐頼芸も修理大夫の官を申請。いずれも礼銭が少なく(10貫)却下。頼芸は併せて蘭麝待の破片を所望。後奈良天皇は、香木(将軍義政より献上された破片)は下賜。
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後奈良天皇期(1539~41)、禁裏料(皇室直轄領)の収入も途絶えがちになり、公卿の半数近くが在国(大名の許に寄寓)せねばならない状況。官位濫発が天皇に残された唯一の増収の道となる。「左京大夫」「修理大夫」が濫発され「官位インフレ」状態となる。
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「左京大夫」という官位。
南北朝合一時点(1392二年)で左京大夫の官を帯びている大名は三河・若狭守護一色詮範(アキノリ)のみ。6ヶ国守護職の大内義弘は左京権大夫(義弘の次々代、大内盛世の時、左京大夫に任官)。当時は右京大夫は管領家の細川氏以外に許されておらず、京職の長官であるとの両京大夫の本来のあり方からすると、右京大夫は管領の称号、左京大夫は侍所頭人の称号(侍所頭人となる資格のある四職家(山名、一色、京極、赤松4家)にしか許されない官)ということになる。
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永正14(1517)年、陸奥の伊達稙宗がこの官を拝するや、甲斐の武田、伊豆・相模の後北条が左京大夫を望み、任ぜられる。国持大名でもない伊達稙宗に与えられるならば、自分らには当然であろうというのが武田・後北条らの言い分であった筈。
小田原城主北条氏綱がこの官に任ぜられるのは、享禄2(1529)年8月~3年2月の間で、この頃、氏綱は大永3(1523)年、江戸城を上杉朝興より奪取、朝興ら旧勢力から「他国の凶徒」呼ばわりされ、支配の正統性を確保するため大永3年6~9月の間、伊勢から北条に改姓し、さらに朝廷に奏請して左京大夫に任官。伊達・武田ら周辺諸大名と同格の体裁を整える。
その後、天文年間(1532~55)、岩城・大宝寺・結城・大崎など、奥羽地方の小名にまでこの官途が与えられるようになる。天文8(1539)年は、10月に近江守護六角定頼の子の義賢に、翌11月に播磨守護赤松政村に与えられ、天文10年8月には、陸奥の岩城重隆と出羽の大宝寺晴時が任ぜられ、陸奥・出羽だけでも幾人もの左京大夫が並立する有様となる。
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戦国期(1493明応2~1568永禄11)、「左京大夫」に補任された大名。
防長豊筑等守護大内義興、陸奥守護伊達稙宗、甲斐守護武田信虎、相模小田原城主北条氏綱、防長豊筑等守護大内義隆、近江守護六角義賢、播磨守護赤松政村、陸奥国人岩城重隆、出羽国人大宝寺晴時、下総国人結城晴広、陸奥国人大崎義長、防長豊筑等守護大内義長、陸奥梁川城主伊達晴宗、相模小田原城主北条氏康、美濃守護斎藤義竜、河内飯盛城主三好義継、三河岡崎城主徳川家康。
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「修理大夫」。
鎌倉期の執権・連署が受領した(しかも当時は修理権大夫)官で、南北朝合一時点(1392年)でこの官を許されている大名は斯波一族の加賀守護義種のみ。九州の名族大友氏でも修理権大夫の官どまり。その後、永享年間(1429~41年)に一色氏当主義貫(侍所頭人)や畠山庶流家畠山満則(能登守護)に許されるが、いずれも幕閣の重臣会議(閣議)に出席しうる家格に限られている。
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陸奥の黒川稙国、肥後の名和行興らは土豪から成長した「田舎小名」で、守護でも国持大名もない。黒川氏は最上氏分家で、陸奥鶴館城(宮城県黒川郡大和町)主、名和氏も八代城主・古麓城主として八代一郡の郡主の地位を出ない。肥後の相良義陽も、同国南3郡(人吉・芦北・球磨)支配程度。
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戦国期(1493明応2~1568永禄11)、「修理大夫」に補任された大名。
日向・薩摩・大隅守護島津忠兼、相模守護・関東管領上杉朝興、豊後守護大友義鑑、肥前日野江城主有馬賢純、陸奥鶴館城主黒川稙国、日産隅守護島津貴久、雲・隠・困・伯・石・作・備中・備後等守護尼子晴久、肥後八代城主名和行興、河内飯盛城主・相伴衆三好長慶、肥後八代城主相良義陽、日薩隅守護島津義久。
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7月23日
・島津義弘、薩摩に誕生。
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8月(日付なし)
・ブリュッセルでネーデルランド総督マリアとフランソワ1世妃エレオノールが会談(2人は姉妹)。フランソワ1世 は、ミラノ公国を望むが、皇帝カール5世は拒否。
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・夏~翌春、フランソワ・ラブレー(「ガルガンチュア物語」作者)、ローマ滞在。アレッサンドロとフィリポ・ストロッツィとの対立など記述。アレッサンドロがカール5世の傀儡であることを見抜く。
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8月10日
・イッポリート・デ・メディチ枢機卿、暗殺。愛人コロンナ家未亡人ジューリア・ゴンザーガ(後、イタリア宗教改革で大きな役割果たす)。犯人はパオロ3世とフィレンツェ大公アレッサンドロ・デ・メディチ。
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8月17日
・カール5世艦隊、チュニスよりシチリアへ出航。イタリアをバルバリア人の侵略から守った勝利の栄光。
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8月18日
・今川氏輝支援の北条氏綱・氏康父子2万5千、小田原進発、甲斐郡内に出陣。19日、国境万沢口(南部町)で武田信虎と戦う。信虎が勝利。
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[北条、今川、武田の関係]:
北条氏は駿河今川氏と主従関係にあり、今川氏親が武田信虎と敵対、武田信虎は北条氏と敵対する扇谷上杉朝興と同盟。
大永6(1526)年、今川氏親没の頃、氏親娘・瑞渓院を氏綱子・氏康の妻に迎える。また、氏親の子氏輝と武田信虎も和睦成立。
天文4(1535)年、信虎が協約を破り駿河に侵攻、信虎が勝利して和談。
翌5年(1536年)3月、今川氏輝病没後、家督を巡り駿河は内乱となるが、信虎は、氏輝弟の善徳寺承芳(義元)を支援し、還俗した義元の家督継承の翌年、武田信虎と今川義元との甲駿同盟が成立。
北条氏は今川氏と断交し、扇谷上杉朝興・武田信虎・今川義元と敵対するこになる。
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8月21日
・郡内の小山田越中守信有と武田信虎の弟勝沼信友の軍勢2千、山中湖畔に布陣。信虎嫡男太郎勝千代(15)、傳役板垣信方と布陣。22日、湖畔の戦い。武田信虎、都留郡山中で北条勢と戦い敗れる。勝沼信友(信虎弟)・小山田信有、討死。
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9月(日付なし)
・扇谷上杉朝興、甲斐に出陣する北条氏綱の留守を突いて、相模中郡に出兵、木礎を焼く。
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9月3日
・大内義隆、日華門の修理料100貫を献上。太宰大弐を希む。
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9月7日
・ジャック・カルティエ(44、1491~1557)、2度目の北米探検。セントローレンス川を遡り、14日ケベックに到着。数名は更に遡り、10月2日到達した町をモントレアル(モントリオール)と名付ける。
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9月15日
・北条氏綱、入間川で扇谷上杉勢を破る。10月13日、氏綱、相武豆と上総・下総の軍勢で扇谷上杉家本城の武蔵河越城を攻める。
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9月17日
・武田信虎、諏方碧雲斎(頼満)と諏方社の宝鈴を鳴らして和睦
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9月27日
・幕府、日蓮宗5ヶ寺に長福寺領安堵の施行を命令(「長福寺文書」)。
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10月8日
・第3代古河公方足利高基(51)、没(異説1539年6月8日)。
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10月10日
・島津家に内紛。島津勝久没落し、薩摩・大隅・日向の諸氏も内紛状態に。
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10月24日
・最後のミラノ公フランチェスコ・スフォルツァ2世、没(スフォルツァ家断絶)。
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11月(日付なし)
・スペイン人の傀儡インカ帝王マンコ2世、スペイン人のインデイオに対する暴虐ぶりに怒り、武力蜂起を決意、クスコ脱出を図り捕えられる。各地でインディオの反乱。
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11月1日
・仏・スペイン紛争再燃。
仏、ハプスブルク家との協定派モンモランシーに代り提督シャポが実権掌握。フランソワ1世、ミラノに関する権利要求。アントニオ・デ・レイバ率いる皇帝軍、ミラノ公領無血占領。フランソワ1世、サヴォワ、ビエモンテ侵略。
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11月7日
・朝廷、狩野元信に唐絵屏風を描かせる(「後奈良院宸記」)。
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12月3日
・三河岡崎城主松平清康、再び尾張侵攻開始。5日、守山崩れ。尾張清洲城主織田信秀との戦いで守山に出陣。近侍に背後から襲われて斬殺。27日、織田信秀、松平清康の喪に乗じて三河に攻め入るが、松平清康弟康孝に大樹寺で敗れる。
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12月22日
・周防長門などの守護大内義隆、太宰大弐の官を申請。義隆はこれまで恒例の献金を充分行い、今回の礼として宮中日華門修理費100貫を献上。27日、後奈良天皇は一旦許可し口宣案の手続きに入るよう女房奉書を発給。28日、態度急変。女房奉書を返却させ任官を拒否。武家で大弐を拝した者は清盛以来いなく、天皇も逡巡する。
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12月29日
・大内義隆、小弐資元親子を放逐。
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