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「義経記」では、雨乞いの際、99人の白拍子が舞っても雨は降らなかったが、100人目の静が舞うと、にわかに曇り大雨が降り、後白河が「日本一」と褒めたといい、この時、義経と静はこの神泉苑の池の畔で出会った、というそうです。
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以下、多少古い本ですが、林屋辰三郎「京都」(岩波新書)からの引用で、神泉苑の紹介をします。読み易くするため、適宜改行を施しました。
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「序章 湖底の風土 -神泉苑ー
御池
京都は、神泉苑からうまれた。・・・
・・・もと東は大宮、西は壬生、北は二条、南は三条に至る東西二町・南北四町という広大な地域を占め、平安京大内裏の禁苑であった。正殿として乾臨殿(ケンリンデン)があってしばしば遊宴が行われ、また地中に善女竜王をまつって、祈雨の霊験をもって知られたのである。弘法大師空海が西寺の守敏(シュビン)大徳と請雨法を修してその技を競い、守敏の呪力を破ったこともずいぶん有名な話である。・・・
・・・このような大規模な紅林緑池が、全く人工によって成ったとは考えられず、遷都以前の旧地勢を利用して荘厳を加えたものであることは、うたがいがない。
京都は、かつては断層によって陥没した湖底(断層湖盆)であり、ある時には大阪湾につづく江湾でもあったと、地質学者は教えている。・・・こんにちも市中には地下水がきわめて豊富である。特に神泉苑の水は、京都を生み出した湖底からの涌泉で、旧賀茂川のながれの大きなよどみになり、さらに苑池となって、こんにちまで太古の湖水をとどめているところなのである。・・・
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自然の遺産
神泉苑は、中世になってからはしだいに荒廃をはじめた。もはや禁苑でもなんでもなく、非人小屋さえ立つありさまとなった。・・・
しかしこの苑池を決定的に破壊したものは、慶長七年(1602)徳川氏の二条城の築造であった。ちょうど古い信仰に挑戦するかのように、神泉苑の北の大半部が削られてしまったのである。太古の涌泉がそのまま、城内の苑池に役立てられた。
そのことは、新しい封建君主も、神泉苑の苑池に着目したともいうことができる。それはこの地がやはり京都の中心として無視できなかったことを意味しているのだが、しかし傷つけられた神泉苑は、その後しだいに人家によって蚕食され、ついに現在の半町四方というところまでせばめられてしまった。・・・それにしても神泉苑は、明らかに京都の最古の自然的遺物であり、王朝いらいの風土的中心でもある。京都人は、この池をもうすこしたいせつにしてもよいであろう。・・・」
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