2009年5月6日水曜日

明治17(1884)年11月2日(1) 秩父困民党、大宮郷を無血占領す。

■明治17(1884)年11月2日(1)
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午前1時、群馬南甘楽郡坂原村法久の自由党員新井愧三郎らの指導で、新田郡阿左美村から山田郡広沢村に向かい200人行進、警官出動・逮捕により散乱。
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午前2時坂本宗作の別働隊日尾村入り。各村々の駆出しのためこの頃200名となる。戸長役場で人足駆出しと公証簿の焼き捨て。
(この日午前5時頃参加した「酉番」は4日の石間の戦いで群馬の警部を斬り、後死刑になる)。
高利貸し焼討ちせず、鍵を出させて土蔵を開ける。次の藤倉村も同様。ゲリラ隊は300に膨れ上がり、昼頃、本隊の後を追って大宮入り。
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[詳細顛末]
戸長役場では筆生の関口俊平(製糸工場日尾盟社社長、51)が宿直。彼は、村の重立ちを集め、こうなったら一命にはかえ難いから要求通りにする方針を定める。
戸長も、蜂起目的についてある程度共感し、「近頃は追々不景気ヲ来シ、百姓困窮ニ相成り、如何ニモ難渋ニ付、先ソノ高利貸ヲナスモノノ家ヲ破壊シ、夫ヲ防ギニ来ル者ヲ打払ヒ、百姓ハ楽ニナル」と言うので、この村では役場が農民に出ろという形になる。
戸長役場に対する人足の要求は、3ヶ条。
「一、聯合村中、一戸ニ付一人ノ人足ヲ差出スべシ。 
一、右人足ハイヅレモ刀剣銃器ヲ携フルヲ要ス、所有ナキ者ハ何カ凶器ヲ携フベシ。 
一、白木綿ヲ以テ票示ヲナスべシ。」。
公証薄焼き捨ても、白刃をきらめかせての脅迫であり、関口はこれも見逃す。
次に、関口の隣家の高利貸に案内しろと言われ、行ってみると主人はいない。しかし、1,000円近い貸金証書は近所の人が差出したので関口は放火をお許し願いたいと交渉、農民が土蔵打ち毀しを始めたので、女房から鍵を借りて開けさせる。
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午前2時、皆野村(旅館角屋)の江夏警部長、憲兵派遣要請を電報し、特使を県庁へ派遣。
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午前3時、皆野村の江夏警部長ら、鎌田警部を殿郡として皆野より寄居に撤退。
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埼玉県知事吉田清英(薩摩)は私邸が東京にあり事件当日も留守。
少書記官笹田黙介(38)は長州、秩父警察総指揮者の警部鎌田冲太(39)は薩摩。鎌田らは寄居に退き、笹田らは鎮圧軍派遣を要請。
内務卿山県有朋・近衛連隊参謀乃木希典は長州、警視総監大迫貞清は薩摩。
秩父の無名農民の前に立ちはだかる権力は末端に至るまで薩長藩閥のピラミッド。警部長江夏喜蔵も薩摩。
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鎌田冲太:
鳥羽・伏見からの歴戦の勇士。東征では北陸道先鋒に参加、越後鶴ヶ岡で負傷、藩から8石をうけ療養。明治2年3月砲隊伍長で復帰、藩主忠義に伴い上京、徴兵隊参加。4年12月埼玉県(警察事務)勤務。8年10月警部・巡査制度発足とともに4等警部。秩父事件当時は県警本部警視部長兼国事担当。事件後、19年8月秩父郡長に栄進。後、「秩父暴動実記」を著す。
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午前3~8時宮川寅五郎のオルグ支隊(前夜、小鹿野の本陣を出発)、両神村の大地主・酒造家・高利貸に軍資金拠出強要(高利貸しは打毀し)。
困民軍は増殖し、てごまる峠から贄川(現、荒川村)に抜けてゆく。途中の古池の豪農「古池大尽」邸は襲わず。
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午前4時、田代栄助、小鹿野に集結した甲乙全軍を諏訪神社に集合させる。
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午前6時、困民軍主力、小鹿野諏訪神社より大宮郷に向かい進撃。先頭に銃砲隊、次に竹槍隊・抜刀隊と続き、小隊・大隊長が中にはさまり、また竹槍隊をはさみ、その後に伝令使と総理が位置をしめ、2列の長い縦隊をなす、堂々たる大行進。殿長は堀口幸助。午前11時、小鹿坂峠に達する。
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昼前、秩父困民党5~6千、大宮無血占領郡役所・警察署は避難撤退
指揮は加藤織平(郡役所・裁判所の書類を焼き捨て、監獄を開放)。
参謀菊池貫平の発意で郡役所を本陣とする(秩父郡の地方権力を困民軍が手中にしたことを意味する)。
高利貸し7軒打毀し(内3軒焼討ち)。貸金証書焼却。豪家10軒から軍資金調達。
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郡長伊藤栄は、「暴徒ノ情勢頗ル猖獗ニシテ到底之ヲ防グ事易カラズ、寧ロ彼等ノ意ニ任セタル方却テ一般ノ安全ヲ保ツニ於テハ得策ナルベシ」と言い置き、下僚を指揮し、郡役所の重要書類と共に、妻坂峠を越えて名栗村へ難を避け、警察署も皆野から寄居に撤退。
郡長は功なり名とげ、太った人物らしく、脱出の際にどこかの坂をころげ落ち、「だるま郡長」という渾名を付けられ、巡査も郡吏も八字ひげを剃り落し、農民の着物を借りて逃げたという。郡都大宮郷は全く無防備のまま、困民軍に委ねられる
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「竹鼻渡ヲ越へタレドモ町内ノ模様不安心ニ付協議ノ上、自分ハ井出為吉、小柏常次郎、井上伝蔵、群馬県ノ由姓名不知者四人、銃砲方二人、竹槍持チタル者五、六人ニテ同郷地蔵院ニ至リ本陣ト為シ、加藤織平ハ甲乙両隊ヲ率ヒ同郷町内ニ繰込ミタリ」(田代栄助尋問調書)。
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田代栄助は困民軍本営を秩父神社に置こうとするが、参謀長菊池貫平は、困民軍主力を秩父神社に留め、指導部は秩父郡役所に移動させるよう指示。郡役所を本営に定め、中央政府の出先機関を奪取した意味を誇示する必要性。
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大宮郷は総理田代栄助の郷里。この夜、栄助は近くに住む姉に会いに行ったという。
高利貸稲葉貞助打毀し。稲葉は貧民から身を起し10年で巨富5万円を築く(稀代の悪徳と言われる)。稲葉は軍資金提供を申し出たため、栄助は1千円を申し付けるが、番頭は僅か50円を持参。打毀しを決意して加藤織平が向うと、今度は450円を差し出す。軍資金450円は大金であるが、1等の悪人に対する要求を半額の軍資金提供で打毀しを免じるのは死後の汚名に残すと、織平の持ち帰った金を番頭に返し、3日午前3時打ち壊しを命じる。高利貸し打毀しは7軒(うち放火3軒)。
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軍資金募集は井出為吉が担当。町内豪農10軒から500~800円、合計2,980円(官金257円含む)。受領書には「革命本部」もしくは「革命党本部」と書かれる。他に、武器の徴発と炊き出し。
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▽当日炊出しを命じられた矢尾商店の日記「秩父暴動事件概略」にみる困民軍の動き。
朝8時頃、「十一時ヲ期シ暴徒等大宮郷へ繰り込ム由」の情報。
「日記々者帳場二階ニテ記載致シ居リシニ小鹿坂峠ノ寺院音楽寺ニテ早鐘ヲ乱打シ鯨声ヲドット揚ゲタル故早々二階ヲ下り土蔵ノ目塗ヲ手伝ヒ未タ終ラザルニ疾クモ兇徒等潮ノ涌ガ如ク市中へ乱入シー整ニ鯨声ヲ揚ゲ迅風ノ如ク市中ヲ通過シ先駆ハ忽チ警察署ニ狙撃乱入シ両役所ノ書類ラ引裂キ或ハ戸外へ投棄シ或ハ火ヲ焚キ之ニ投ジ或ハ塀垣戸障子諸器ノ嫌ヒナク手当り次第ニ打砕キテ書類ノ紙片ハ市中ニ散乱シテ時ナラザルニ雪ヲ降ラシタリ如斯乱暴狼籍ヲ極メリ実ニ言語道断且ツ筆紙ニ尽シ難シ又タ追々続々ト多数ノ暴民加ハリ小鹿野辺ニテハ四五百名ノ聚集ナリシガ此時既ニ二千余名ニ増加セリ劫説追々繰込ミノ行列ヲ述レバ兇徒等ハ抜刀鎗或ハ銃砲或ハ竹鎗等ノ兇器ヲ閃メカシ白木綿ヲ棒鉢巻ト為シテ味方ヲ区別シ或ハ白木綿ヲ以テ旗トシテ暴民等ノ村名ヲ書シタルヲ翻シ暴徒等異口同音ニ進メ進メノ掛声ヲナシ或ハ戸ヲ閉鎖シタル家ハ鉄砲ヲ打込ム故早々ニ開クベシ或ハ我々ハ圧制政府ヲ転覆シテ世直シヲナス為ノ企図ナレバー家一名宛目印ヲナシ義勇兵トシテ早々人足ニ出スベシト揚言シ号令旗ヲ打振リ振リ浮虚子(ウンカ)虫ノ如ク繰込ミタリ」。
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矢尾商店に「暴徒」が現われ、「刀剣ヲ借用シタシト請求」。「ナイ」と答えると、「斯ル大家デアリナガラ二本ヤ三本ノ刀ガナキコトハアルマジ」と、土足のまま帳場から座敷に上がり捜し始める。
その間、既に前日警察に命じられて供出したと申しでると、警察に味方するとはけしからんということになり、結局、倉庫に残っていた数本を持ち出してきたところへ、「幹事ラシキ人品ヨキ者(井上伝三ナリ)来リテ彼等ニ諭シテ曰ク、無刀ノ輩ハ何レ本部ヨリ渡スベキニヨリ此四本ハ先ヅ此家へ預テ直後ニ本部ヨリ借用ニ罷出ヅベシトテ当店へ預ケタリ」。
これで「薄氷ヲ踏ムノ心地ナリシ」一幕は終わる。
やがて、総理群馬県人相馬義広より使者が来て、中食炊出しを命ぜられる。午後1時頃、札所12番に警官が隠れているとの情報に、「暴徒等多人数ニテ捜索ニユク」。
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大宮郷近戸(ちかど)の住人柴岡熊吉(栄助の懐刀、大宮郷小隊長)が横瀬村小隊長千島周作と共に「大刀ヲ佩キ自由党幹事」として来店し演説。
此度世直ヲナシ、政治ヲ改革スルニツキ、斯ク多数ノ人民ヲ嘯集セシ訳ナレバ、当店ニテ兵食ノ焚出シ方ヲ万端宜シク頼ム。
扨テ高利貸営業者ノ如キ不正ノ行ヲナス者ノ家ニアラザレバ破却或ハ焼棄ナスナド決シテ致サズ。又々高利貸ノ家ヲ焼キタリトモ、其隣家ニ対シ聯カモ損害ヲ加エヌ故、各々安堵致サレタシ。且ツ不法ヲ云ヒ或ハ乱暴ヲナス者コレアラバ直ニ役所へ届ケ出ツベシ。夫々成敗ヲ致スベキ間左様心得ラレタシ。右ノ次第ナレバ当御店ニテハ安心シテ平日ノ如ク見世ヲ張リ商業ヲ充分ニナサレタシ」と「鄭重ノ詞」をもって矢尾商店の人々を安心させる。
柴岡らの去った後にも、別のの「役人ラシキ者」が同様の触れをもって来る。困民軍の統制は維持されている
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怨嗟の的となっている高利貸打毀しは峻烈を極める。
「午後七時頃暴徒等、当郷字宮地高利貸高野嘉代吉方ヲ本家新宅隠居長屋等合セテ五六棟ヲ焼ク。且ツ土蔵ノ漬物へ糞汁ヲソソグ」。
夜、「兇徒等、山川ノ相詞ヲナシテ市中ヲ奔走シ、或ハ兵ヲ煉ルト唱へテ運動ヲナス」。
午後8時頃、「幹事ラシキ者」2人が、帳場に現われ夕飯を所望したので、膳をしつらえると、柴岡熊吉が通りかかって見咎め、「両君ニハ我党ノ規約ヲ弁エザルノ所為」と諭し、わらじばきのまま座敷に上がり込んでいるのを見て、「甚ダ不都合ナリ」と戒め、「両人ハ狐鼠々々卜片隅へ寄り早々食シテ出デ行キタリ」。
午後9時過ぎ、炊出しも終わり一息ついたところへ、幹事が現われ、「本日ハ兵食モヨキ故、貴家ニテハ戸ヲ閉ヂ老人小児ハ休マセテクダサレ。戸外ハ我等ガ警固ヲナスニヨリ心配ニハ及バズ」と二度、三度通達があり、11時頃交代で就眠することになる。
しかし、深更に及んでも尚、鯨波が起こり、時に銃声も聞こえ、高利貸打毀しが続いている気配。
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午前3時頃、「兵ヲ計ルト称シテ本店ノ土蔵間即チ松本六歳氏門内へ暴徒雲霞ノ如ク轟々卜大勢込入ル」こととなり、また「市中ニテ暴徒ノ隊長等徒卒へ鉄砲ノ放チ方ヲ教導スルトテ必至卜大声ヲ発シ、其間ニハ鯨声ヲ屡々揚ゲ動揺一方ナラズ」という有様の中で、豪家へ軍用金調達を強談。
「即チ脅迫ニ応ジタル各家左ノ如シ」とする(風説のまま記すので正確でないかも知れぬと断る)。柿原吟三郎500円 井上伴七100円 大森嘉右衛門800円 若狭屋弥市500円 久保常太郎100円 岡孝八400円 松本六歳200円 矢尾利兵衛300円 福島七兵衛200円 稲葉貞助450円 逸見藤七30円 井上四郎次150円。矢尾商店に本部から受領証が届く。
受領証ヲ見テ暴徒ノ巨魁ハ当邦字熊木平民農田代栄助ナルヲ知り、人々ハ二度喫驚セリ。且ツ切歯掘腕ヲナス者アリ」。午前4時、矢尾商店は朝の炊出しの準備を急ぐ。
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新井寅吉の供述。
「小鹿野町ニテ夜ヲ明シ、ソレヨり大宮へ参リタリ。(大宮デハ)裁判所等ハ破壊セズ、皆ガラアキニテ、郡役所ヲ本陣トシテ栄助等ハ同所ニ居り、私ドモモ用事ノアルトキハ参リタレドモ多クハ町ヲ歩行シタリ」。
明確な指導方針を欠いたまま、集まった多くの農民は、祭の宵のように、夜どおしただ街を右往左往していたものと思われる
本営が皆野に移動した3日も、寅吉供述によれば、同じような状況が続いている。「私ハ皆野ニ居リタルガ、其日ハ人数ガ大勢ニテ只ガヤガヤ致シ居リ、両所ニテ二軒ガ打コワシ、午後三時頃皆野ノ裏ノ河原ニテ少シ撃チ合ヒシ、其処ノ人数モ皆野へ引ク・・・」。
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to be continued

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