2009年5月6日水曜日

京都 神泉苑の遺構 いしぶみ




①は、林屋辰三郎「京都」(岩波新書)所収の神泉苑復元図(図の左が北です。無断引用)。
②③は、二条城南側外堀にある神泉苑の東西端を示すいしぶみ。①のハッチング部分と二条城の外堀が交わる点を示します。
④~⑥は、地下鉄工事の際に出土した遺構。駅の改札口付近に展示されているもの。
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この神泉苑、藤原定家の頃には既に荒れ放題だったようです。
以下、堀田善衛「定家明月記私抄」(ちくま学芸文庫)から引用。
(読み易くする為、改行を施す)
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建仁2年(1202)、定家41歳、後鳥羽院23歳の時。
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「さてこの頃になると、二十三歳の後鳥羽院はまったく気が狂ったかと思われるほどに遊蕩、遊山、博奕(バクチのことである)、蹴鞠(ボール・ゲーム)、競馬に鶏合、賭弓、遊女あそび、それに処々方々に別荘をつくる土建狂い、造園、琵琶その他による音楽、隠れん坊に双六などに耽りはじめ、・・・
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(五月)四日。天陰(カゲ)ル。雨灑(ソソ)ギタルモ止ム。近日群盗競ヒ起ル。毎夜、人ヲ害スト云々。院ノ女房外居(ソトイ)シ、鳥羽路ニ於テ、盗ノタメニ奪ハル。或ハ云フ、卿三位ノ縁類卜云々。此(カク)ノ如キノ悪事、強(アナガ)チニ其ノ沙汰無シ。只遊覧ノ外、他無シ。
近日頻(シキ)リニ神泉苑ニ幸シ、其ノ中ニテ〇猟(テイレフ)ヲ致サルルノ間、猪ヲ生ケ取ルナリ。仍(スナハ)チ池苑ヲ掘リ、多クノ蛇ヲ食フ。年年荒池、偏(ヒト)へニ蛇ノ棲(スミカ)ナリ。今此ノ如シ。
神竜ノ心如何。尤(モツト)モ恐ルべキ者カ。俗ニ呼ビテ云フ、此ノ事ニ依リテ、炎旱卜云々。
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すなわち夜の京都は、検非違使庁どころか、群盗の有に帰していた。人殺しも毎晩のことである。流行歌に言う、「この頃都にはやるもの・・・長刀持たぬ尼ぞなき。」しかもなかには高位高官の内輪のもので面白半分にやっていた奴等もいたのかもしれず、そうだと知っても必ずしもその理非善悪糾明の沙汰に及ばないとなれば、定家氏の伝聞証拠だけを信用するわけには行かないにしても、これではもう治安も公安も何もあったものではない。
その上で、まだ若く精力にみちた上皇が毎日のように神泉苑へ出掛けて行って猪をつかまえたり、その猪がまた池苑を掘っくりかえして蛇を食う。
そのむかし空海以来、雨乞いの道場となっていた神泉も朝廷のなおざりな管理のために蛇の巣となり、神竜が怒り出して、そのために日照りばかりとなっているというのである。・・・」
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