3.能員活躍の足跡1(寿永3、4年)
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寿永3年(1184)5月1日
・頼朝、和田義盛・比企能員に対し、足利義兼(源姓足利氏)・小笠原長清と、相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人と共に、義仲嫡男義高の残党が甲斐・信濃に隠れ、謀反を企てているとして、10日に甲斐に発向するよう命じる(「吾妻鏡」同日条)。
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この年4月21日、木曽義仲の嫡子志水義高(12)、鎌倉を出奔するが、
26日、頼朝家臣堀親家の郎党に捕われ、武蔵入間河原で斬られる。義高は、義仲没後は「その意趣もつとも度(はか)りがたし」(「吾妻鏡」21日条)との理由。
これを知った大姫は、実父頼朝が許婚を殺害したことを嘆き、病の床に。回復することなく、建久8年(1197)、没。
また、御台所(政子)は、義高を討った堀親家の郎党の処刑を命じる。
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(参考)
大姫関係:
http://mokuou.blogspot.com/2009/02/blog-post_1978.html
清水義高関係:
http://mokuou.blogspot.com/2009/04/blog-post_4500.html
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同年8月8日
・源範頼を総大将とした平氏追討軍1千余、鎌倉を進発。
従う武将は、北条義時・武田有義・千葉常胤・三浦義澄・比企能員・和田義盛・天野遠景・佐々木盛綱・結城朝光・足利義兼ら。
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同27日、入洛。(この頃、義経は無断任官のこともあり、追討軍には加えられていない)
9月1日、九州に向けて京を出発。
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11月
・この月初、範頼の追討軍は長門に入る。しかし、兵站ルートは延び、平氏勢力圏に近ずくほど補給は困難となる。
山陽道は前年からの飢饉のため、追討軍は食糧不足の危機に陥る。
また、平行盛が備後児島に上陸し、追討軍は彦島に拠る知盛と備後の行盛に挟撃される形となる。
範頼は、佐々木盛綱・渋谷重国5千を後戻りさせるが、本隊は長門から動けず。
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翌寿永4年(1185)年1月1日
・範頼はようやく赤間関到着。しかし、渡海しようとするが、船・兵糧なくこれを諦め、豊後に渡ることを考え周防に戻る。
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同12日
・豊前宇佐八幡宮司一族の臼杵惟隆・緒方惟栄兄弟が、範頼の味方となり、範頼は、彼らに兵船の用意を命じる。
26日
兵船82艘が源氏側に提供され(周防の宇佐那木遠隆は食料を提供)、範頼以下39人の大将が豊後に渡る(「吾妻鏡」)。
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「惟隆・惟栄等、参州の命を含み、八十二艘の兵船を献ず。また周防の国の住人宇佐郡の木上七遠隆兵粮米を献ず。これに依って参州纜を解き、豊後の国に渡ると。同時に進み渡るの輩 ・・・比企の籐内朝宗 同籐四郎能員 ・・・」(「吾妻鏡」26日条)。
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2月1日
・葦屋浦の合戦。
範頼軍、平家軍(原田種直)を葦屋浦で迎撃、勝利し、豊後(平家軍の背後に)に上陸。近隣制圧へ。別府温泉北方の鶴見郷古殿に本拠を構築。豊後橘頭砦。
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一方、この月16日
・義経(27)が、平家追討院宣を得て、更に正式の頼朝の命により150騎で摂津の渡辺に到着。この時、義経と梶原景時との「逆櫓論争」。
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2月19日の屋島の合戦、3月24日の壇ノ浦の合戦(義経の勝利)に繋がってゆく。
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この間、九州の範頼は兵糧不足などで苦境に陥る。
3月9日
・範頼の書状、鎌倉に到着。
豊後に渡ったが兵糧が得られないこと、義経が九州に入る噂があるが、義経が四国を沙汰し、範頼が九州を沙汰すると記す。
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11日
・頼朝は、九州にいる範頼や比企能員らに激励の手紙を送る。
「参州の御返報を遣わさる。・・・また関東より差し遣わさる所の御家人等、皆悉く憐愍せらるべし。就中、千葉の介常胤老骨を顧みず、旅泊に堪忍するの條殊に神妙なり。傍輩に抜んで賞翫せらるべきものか。凡そ常胤が大功に於いては、生涯更に報謝を尽くすべからざるの由と。また北條の小四郎殿並びに・・・比企の籐内朝宗・同籐四郎能員、以上十二人の中に、慇懃の御書を遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。
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4月11日
・義朝の霊を弔う南御堂(勝長寿院)の立柱の日、義経から壇ノ浦合戦の源氏勝利の報が頼朝に届く。
翌日、戦後処理を評議。範頼は九州に留まり没官領などを調査・措置、義経には捕虜を連れての上洛を命じる。
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「平氏滅亡の後、西海に於いて沙汰有るべき條々、今日群議を経らると。参河の守は暫く九州に住し、没官領以下の事これを尋ね沙汰せしむべし。廷尉は生虜等を相具し、上洛すべきの由定めらると。即ち雑色時澤・重長等、飛脚として鎮西に赴くと。」(「吾妻鏡」同12日条)。
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6月7日
・源頼朝、鎌倉に護送された平宗盛を簾中より眺め、比企能員を介して言葉をかける。
宗盛はただ助命と出家の意図を述べるだけで、並居る武士達の嘲笑を浴びる。「源平盛衰記」「平家物語」では、自決を暗示するが宗盛はその素振すら見せずと云う。
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宗盛らを鎌倉に護送してきたのは義経であるが、義経は鎌倉入りを禁止される。
5月24日、義経は、腰越より書を大江広元に送り弁疏する(「腰越状」)。
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この年末
11月29日
・文治の勅許。
兵を率いて入洛した北条時政の朝廷との折衝(頼朝追討院宣に対する責任追及と引替に)により、義経行家追捕のため諸国に守護・地頭の設置権と兵糧徴収権を朝廷に認めさせる。
「日本国総地頭」「日本国総追捕使」の地位獲得。
既に支配下にある東海・東山・北陸道を除く畿内5ヶ国をはじめ西国4道に、謀叛人跡の没収地の荘郷地頭を指揮する国地頭、荘郷惣追捕使の指揮権を掌握する国惣追捕使設置を認めさせる。
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更に
12月6日
・頼朝、大江広元とらと協議して、廟堂粛清・朝廷政治改革案(「天下草創の時」)の院奏を作成。
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同17日
・朝廷、頼朝の要請に応じ、義経の謀反に同意した輩(大蔵卿兼備後権守高階泰経、右馬頭高階経仲、侍従藤原能成(義経の同母弟)、越前守高階隆経、少内記中原信康)を解官。頼朝は追討宣旨の責任を追求することで、義経追討を名目に大幅な権限を朝廷に認めさせる。
18日、義経と懇意の高階泰経・経仲、藤原能成が解官される。
29日、17日に解官した高階泰経を伊豆に、刑部卿藤原頼経を解官の上安房に配流。更に、参議讃岐守平親宗、蔵人頭右大弁藤原光雅、左馬権頭平業忠、左大史小槻隆職、兵庫頭藤原章綱、左衛門少尉平知康・藤原信盛・中原信貞8名、解官。小槻隆職・中原信康は後白河院の近臣。
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同28日
・親鎌倉派の九条兼実(37)、頼朝の要請により内覧の宣下を受ける。
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to be continued
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