2009年5月27日水曜日
鎌倉のいしぶみ 義経への刺客・土佐坊昌俊邸址 堀河夜討(義経襲撃)
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鎌倉のいしぶみ「土佐坊昌俊邸址」
碑には、
「堀河館に義経を夜襲し利あらずして死せし者 是土佐坊昌俊なり 東鑑文治元年十月の条に 此の追討の事人々に多く以て辞退の気あるの処 昌俊進んで領状申すの間 殊に御感を蒙る 巳に進発の期に及んで御前に参り 老母並に嬰児等下野の国に有り憐憫を加えしめ給ふべきの由之を申す云々 とあり 其の一度去って又還らざる悲壮の覚悟を以て門出なしけん此の壮士が邸は 即ち此の地に在りたるなり」
とあります。
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土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん):
ひととなりは諸説ありよく分かりませんが、出家しているようですが、武士として頼朝に仕える御家人です。義経の刺客を志願し果てます。
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寿永4年(1185)9月2日
・頼朝、勝長寿院供養の導師の布施などの調達のため梶原景季・義勝房成尋を使節として上洛させる。
景季には、義経亭に赴き、行家の在所を調べ誅戮するよう触れ、義経の「形勢」を窺うよう命じる。また、流人時忠・時実父子の速やかな配流を朝廷に言上させる。
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「梶原源太左衛門の尉景季・義勝房成尋等、使節として上洛するなり。・・・次いで御使と称し、伊豫の守義経の亭に行き向かい、備前の前司行家の在所を尋ね窺い、その身を誅戮すべきの由を相触れて、彼の形勢を見るべきの旨、景季に仰せ含めらると。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
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10月6日
・梶原景季、鎌倉に帰り、義経の状況を報告。頼朝、義経を誅すべき事を謀る。
景季は、義経亭に「御使」として面会を申し入れたが、「違例」(病気)として拒否され、一両日して再度赴き面会した。
憔悴の様子、行家追討の話を持ち出すと、行家は普通の人ではないので、家人を派遣しても降伏は難しい、早く病気を治して計略を巡らせたいので、これを伝えてくれとのことと報告。
頼朝は、義経が行家に同意して虚病を称しているのは明かで、これで謀反は露見したと云う。景季も仮病に同意する。
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「一両日を相隔てまた参らしむの時、脇足に懸かりながら相逢われる。その躰誠に以て憔悴、灸数箇所に有り。・・・てえれば、二品(頼朝)仰せて曰く、行家に同意するの間、虚病を構うの條、すでに以て露顕すと。景時これを承り、申して云く、初日参るの時面拝を遂げず。一両日を隔てるの後見参有り。これを以て事情を案ずるに、一日食さず一夜眠らずんば、その身必ず悴ゆ。灸は何箇所と雖も、一瞬の程にこれを加うべし。況や日数を歴るに於いてをや。然れば一両日中、然る如きの事を相構えらるるか。同心の用意これ有らんか。御疑胎に及ぶべからずと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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10月9日
・頼朝、義経追討を議し、義経暗殺のため土佐坊昌俊を刺客として京へ派遣が決まる。
多くの御家人が辞退するなか、昌俊のみが諒承し、頼朝は要望に応じて下野の中泉庄(栃木市)を与える。
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「伊豫の守義経を誅すべきの事、日来群議を凝らさる。而るに今土佐房昌俊を遣わさる。この追討の事、人々多く以て辞退の気有るの処、昌俊進んで領状を申すの間、殊に御感の仰せを蒙る。すでに進発の期に及び、御前に参り、老母並びに嬰児等下野の国に在り。憐愍を加えしめ御うべきの由これを申す。二品殊に諾し仰せらる。仍って下野の国中泉庄を賜うと。昌俊八十三騎の軍勢を相具す。三上の彌六家季(昌俊弟)、錦織の三郎・門眞の太郎・藍澤の二郎以下と。行程九箇日たるべきの由定めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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頼朝は、「行程九箇日たるべき」と厳命(最速であれば3日の行程)。
頼朝側に刺客派遣を察知されるのを前提とする、挑発目的にある(仕掛けられた罠)。
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10月17日
・堀川夜討。
土佐坊昌俊、水尾谷十郎以下60余率い義経の六条室町亭を襲撃。
義経は佐藤忠信らと闘い、行家も駆けつけ防戦、退散させる。
26日、義経、鞍馬山奥に逃亡の昌俊と郎党3人を捕縛、六条河原で斬首。
義経、遂に頼朝への反抗を決意。
昌俊派遣の目的は、義経を挙兵させることで、頼朝にとって暗殺の失敗・成功は問題ではない。
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「去る十一日、義経奏聞して云く、行家すでに頼朝に反きをはんぬ。制止を加うと雖も叶うべからず。この為如何てえり。仰せに云く、相構えて制止を加うべしてえり。
同十三日、また申して云く、行家が謀叛制止を加うと雖も、敢えて承引せず。仍って義経同意しをはんぬ。
・・・その後無音。去る夜重ねて申して云く、猶行家に同意しをはんぬ。子細は先度言上す。今に於いては、頼朝を追討すべきの由、宣旨を賜わんと欲す。もし勅許無くんば、身の暇を給い鎮西に向かうべしと。その気色を見るに、主上・法皇已下、臣下上官、皆悉く相率い下向すべきの趣なり。すでにこれ殊勝の大事なり。
・・・亥の刻、人走り来たり告げて云く、
・・・頼朝郎従の中、小玉党(武蔵国住人)三十余騎、中人の告げを以て義経の家に寄せ攻む(院の御所近辺なり)。殆ど勝ちに乗らんと欲するの間、行家この事を聞き馳せ向かい、件の小玉党を追い散らしをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。
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