2009年5月29日金曜日

秩父困民党蜂起までの官憲側の動き

明治17(1884)年11月1日(風布村では前日)の秩父困民党蜂起までの官憲側の動きを以下に纏めました。
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1.官憲側の登場人物
①埼玉県警察本署(県警本部、浦和)警部警部鎌田冲太(39、鹿児島県士族)
戊辰戦争では鳥羽伏見の戦から参加した歴戦の勇士。幕府軍を追撃し大阪に進撃。東征では吉田県令と同じ北陸道先鋒に加わり、越後鶴ヶ岡の激戦で敵弾を受けて後送。その後、薩摩藩から年禄8石を受けて療養。
明治2年3月、砲隊伍長として軍に復帰、藩主島津忠義に従って上京、徴兵隊に加わる。
4年12月、埼玉県勤務となり主に警察事務に従い、一時埼玉裁判所検事局の逮部課に勤務して犯人の逮捕取調に当る。
8年10月、警部・巡査制度発足と共に4等警部に任ぜられ、17年の秩父事件発生当時は警察本署(県警本部)警視部長兼国事担当、警部長(警察本部長)に次ぐ県警ナンバーツー。
事件発生前より、秩父地方不穏が地元警察から報告されると、自ら現地に乗り込み情報収集にあたる。
事件後の19年8月、秩父郡長に栄進。
明治42年、「秩父暴動実記」を執筆。体験をもとに、各種報告書・訊問調書などによって記述し、官側動き、暴徒側の内幕も伝える事件の一級史料となる。
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②寄居警察署長石井暢三警部(39、山口県士族)
③大宮郷警察署長斉藤勤吉警部(埼玉県出身)
④本野上分署長雨宮警部補
⑤熊谷警察署長山室警部(30、宮崎県士族)
⑥松山警察署長吉峰警部(35、鹿児島県士族)
⑦小川分署長深滝警部補(29、新潟県)
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2.密告
警察は、秩父での困民党の動きを察知しており、この年明治17年春以降、秩父郡の大官郷警察署長、本野上・小鹿野の各警察分署長は、警部長に対し、貧民間に不穏の兆候ありと報告し、警察本署(県警本部)では、国事担当鎌田警部が幾度も秩父に出張して内偵。
大官郷・本野上・小鹿野の各警察署(分署)の定員は49名(欠員10名)。
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鎌田警部の説明。
「十七年春以来、秩父郡内は不穏ノ兆候アルニヨリ、鎌田ハ特ニ県令初メ警部長ノ命ニ依り、不知按検(フチアンケン)トシテ十幾回秩父ニ往返セシヤ、殊ニ其七、八月頃ノ如キハ警部長ニ従ヒテ七十名ノ巡査ヲ率ヒ、秩父諸所ノ集会ヲ駆逐セシ事アリシ、就中微行シテ入秩セシ時ノ如キハ、秩父三署員ノ知リ得ザリシ事モアルベシ、而シテ暴徒中ニハ■(ヨシミ)ヲ送リ、信ヲ通ズルモノ数名アリ」(鎌田冲太「秩父暴動実記」)
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戸長の働き(密告、説諭)
(例)野巻村戸長の富田佐平次の行動。「暴発以前ヨリ彼等ノ挙動ヲ傍観シ、心窃(ヒソ)カニ憂慮アルヨリ、村人等ニ対シ彼等ニ接近スベカラザル主旨ヲ説明シツ、アルニ、彼等ノ多勢ガ簑山其他ニ密会セシヲ知ルヤ、之ヲ其筋ニ急報セシノミナラズ、大野原・黒谷ノ両村人一同ガ其役場ニ会合セシ時モ、其村吏卜共ニ、無稽ノ動作ナカルベキ主旨ヲ講演セシコトアリキ」(鎌田冲太「秩父暴動実記」)
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10月、困民党の高利貸交渉が活発になり、警察署は「臨時ノ視察」に多忙となる。
しかし、10月14日、秩父郡横瀬村の集団強盗2件、翌15日の男衾郡西ノ入村の同一手口の強盗事件は、困民党の資金獲得作戦と判断されていない。
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10月26日
秩父郡下日野沢村と付近に潜行中の本野上分署巡査宮川貞吉は、探偵復命書によって分署長に対し困民党蜂起の近い動きがあるとかなり正確に報告
「貧民モ一時ハ帰宅シ農業ヲ営ミヲルト雖モ、又聞クトコロニヨレバ、教唆者ノ如キハ処々ニ相会シ、談合中ナル趣、/右党員ノ頭分トカ申ス者ハ、本月廿四日飯田村字岩戸沢(岩殿沢)へ相会シ、而シテ本月廿七日ハ多ク石間村城峯へ相会スル趣キ、而シテ其末ハ薄村、両神山へ相会スレバ、最早、会議モ事ヲ決スル哉ノ趣キ聞込候事」。
但し、この時点では、まだ田代栄助ら首謀者の名は挙がっていない。
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10月27日
浦和の警察本署(県警本部)探偵掛の野沢弥太郎巡査宛てに、秩父郡下小鹿野村の小鹿神社神官泉田某より手紙が至急便で届く。
同巡査は秩父へ出張中なので、国事担当鎌田警部が開封すると、
「明廿八日ニハ人民ヲ集メ、貸金渡世ノ者へ示談ヲ為シ、之ヲ肯ンゼザレバ其主タル者ヲ害シ、次デ戸長役場ニ乱入シ、奥印簿ヲ焼棄シ、若シ警察官主魁者ヲ捕へタルトキハ、合薬ヲ以テ其署ヲ破り、留置人ヲ救ヒ出シ、之卜一同シ、国税ヲ除クノ外諸税及ビ学校ヲ廃スル等ノ事ヲ本県庁ニ強願スル事ニ議決シ、今其準備中ナリ」とある。
鎌田警部から報告を受けた江夏警部長は、「直ニ出張、至当ノ処分ヲナスベシ」と命じる。
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鎌田警部は田代常太郎巡査を伴い、中山道鉄道(高崎線)で浦和から熊谷へ向う。車中で偶然東京からの帰途にある伊藤秩父郡長に会ったので、寄居警察署長石井警部・本野上分署長雨宮警部補・大宮郷警察署長斉藤警部に対し「今夜小鹿野へ微行集合スベシ」の伝言を依頼。
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■(小鹿野)
その後、鎌田警部は、本庄警察署と八幡山分署に立寄り、夜半小鹿野町に入り、密告者の泉田を町の旅館に招じ、各署長同席のうえ、困民党の動きを聞く。
密告者は田代栄助と接触し、困民党への同盟を申入れ、田代から10月28日蜂起の日時・場所などを聞きだしたという。警察は、この時初めて、困民党主謀者が、大宮郷の田代栄助や男衾郡西ノ入村の新井周三郎であることを知る
情勢分析の会議は朝4時まで続くが、鎌田警部や各署長は、この情報の判断評価に迷い、直ちに関係署に指令して、陰謀首魁とみられるこの2名の動静を探らせると、いずれも「所在知レズ」とのこと。よって、困民党は密かに蜂起準備中ではないかと憂慮するが、翌28日朝にはその兆候は現れず。
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密告者泉田某は前年11月、野天賭博の現場を襲われ逮捕されるが、その後脱走し、禁固3ヶ月・罰金30円の刑を受けている。恐らくその時警官との腐れ縁ができたと思われる。
密告の内容は、
「鎌田警部致ストコロノ小鹿野神社祠官泉(某)ノ十月廿六日夜小鹿野町旅舎ニオイテ石井警部以下五名ノ警部、警部補ノ面前ニ在テ密告スルヲ雨宮警部ノ傍聴セル筆記ノ写書 
十月十七日 (某)、田代栄助宅へ往キ自由党へ加盟ヲ請ヒ、他ニ同盟者ノアルヲ告グ。栄助曰ク一時故アリテ解散セシメタリ。而シテ金策ノ方法ヲ立テ貧民党へ檄文ヲ発スルノ計画ナリト云フ 
十月二十一日 栄助、(某)ノ宅へ来り告ゲテ曰ク、貧民党ハ来ル二十六日小魁タル者集会シ、二十八日一般ニ嘯集スルノ目的ナリ。・・・」(鎌田冲太警部復命書)。
石間の山中に集まるのは一六ヵ村の総代で、貧民党の幹部から借金の四ヵ年据置・四〇ヵ年賦返済を高利貸に強請し、承認しなければ爆裂弾で放火し、戸長役場に乱入して奥書簿を焼きすて、警察を襲撃して浦和の県庁まで押出す計画である。」というもの。
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この密告者の小鹿野神官神官泉田某の子の泉田蔀は兵糧方として蜂起に参加している。
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3.警察署長の小鹿野会議
この日(28日)、各署長は自ら探索することになり、大宮郷警察署長斉藤警部は姻火製造場を、寄居警察署長石井警部は石間村と下吉田村を担当し、本野上分署長雨宮警部補は群馬県側との情報交換の為、鬼石巡査派出所に赴く。
この日、彼らが見たものは、麦播きを急ぐ農民で、少し気になるのはしきりに「今般自由党総理板垣退助世直シノ軍ヲ起ス」との噂であった。15日夜の西ノ入村での集団強盗事件について、その後の捜査で、一味が「軍用金ヲ募ルニヨリ徴収スル所ノ粗税金ヲ悉皆出スベシ」と言い、犯人5人の人相書の中に田代栄助に似た者がおり(実際には田代は加っていない)、一味らしい者が前夜新井周三郎宅に泊ったことを突きとめ、これは困民党と関連があるらしいことがわかっている。
この日、鎌田警部と石井・斉藤両警部は協議し、「今ヤ麦播き最中ナレバ、近日集合スベキ景況ナシ、此後ハ巨魁二名ノ所在ヲ探知シテ逮捕スルノ外好手段ナシ」との結論に達し、鎌田警部は「若シ事急ニ出ズルトキハ、一ハ熊谷・本庄両署ノ所轄署へ応援ヲ請ヒ、一ハ警部長ニ報知スル事」を各署長に指示し、浦和への帰途、途中の各署にこの旨を伝えることになる。
この時点で26日の困民党「粟野山会議の決定(11月1日蜂起)」は、警察側には漏れていない
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10月29日
鎌田警部は小鹿野町から八幡山町に向い、途中で鬼石町から戻る雨宮警部補と行きあい、「彼ノ地ノ景況ヲ聞キ」、申し合せ事項を伝え、八幡山分署に立ち寄り、この夜は同郷の浜田分署長と懇談して同所に宿泊。
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10月30日
鎌田警部は本庄・深谷の各署に立ち寄り、秩父の情勢を伝え、浦和の県庁に帰り、巡査数名を秩父に派遣。
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10月31日
地方官会議のため東京へ出張中の吉田県令を除く、笹田書記官・江夏警部長・鎌田警部ら県首脳は行田町に出張し、翌1日栃木県佐野町から埼玉県に入り、行田~鴻巣のコースで帰京する三条太政大臣一行警護の為、沿道に多数の警官を配置。
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4.風布村蜂起の第1報
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■(寄居)
10月29日
「小鹿野会議」から帰った寄居警察署長石井警部は、各方面に巡査を派遣して農民の動静探索に当らせる。
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10月30日夜
風布村をはじめ近村の困民党加盟者が蜂起に向って動き始め、火薬を買い集めているとの報告を受ける。
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10月31日早朝
石井署長は、急使を派遣し松山警察署と小川警察分署に応援を要請、更に情報確認の為に巡査を風布村に派遣。
風布村から井戸村への道路に「暴徒凡ソ二百名、兵器ヲ携へ屯集」との報告があり、石井署長は、困民党の本格的蜂起と判断し、午後2時5分、浦和の警察本署(県警本部)に電報でこれを報告。電報は、まず電文を熊谷警察署に持参し、熊谷から打電しなければならず、この急報を受けた熊谷警察署長山室警部は、これを浦和の警察本署(県警本部)に電報し、三条警護のため行田町に出張中の警部長には報告の特使を派遣し、自ら巡査2名を率い寄居に向う。
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「十月三十一日午後二時五分寄居警察署ヨリ本県警察本署へ電報アリ、英文意ニ曰ク秩父郡風布村金尾村ノ困民等飛道具ヲ携へ小鹿野地方へ暴発スルノ景況ナリ。因テ速ニ警部巡査派出アレトアリ」(「「秩父暴動始末」に収められた秩父事件の第1報)。
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寄居警察署長石井警部は、風布村を所轄する本野上分署にこれを伝える為、自ら同署に向うが、分署長雨宮警部補は、大宮郷警察署に出向いていて不在。
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■(大宮郷)
本野上分署長雨宮警部補
も、29日夜、風布村の不穏の動きを察知し、巡査を派遣して探索させると、30日午後11時、風布村とその近村は、11月1日に下吉田村の椋神社に集合する為の動きを始めているとの報告を受ける。
31日午前5時、雨宮警部補は、指揮を受ける為に本野上分署を出発し大宮郷警察署に向う。雨宮警部補は、大宮郷警察署長斉藤警部と風布村の暴徒鎮圧策を協議し、大宮郷警察署と本野上分署の警官隊は井戸村の通路を遮断し、寄居警察署の警官隊は金尾口を進撃して暴徒を撃破するとの計画をたてる。そして雨宮警部補が、寄居警察署に対して、これを伝えることになる。
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■(寄居)
一方、本野上分署に赴いた寄居署長石井警部は、風布に向かう自署の巡査7~8名に行きあい、「風布村ノ賊大勢ナルニ僅々少数ノ人員ヲ以テ当ルハ得策ニ非ズ、・・・五、六十名ノ巡査ノ来会スルヲ待テ進撃スルニ若カズ」と押し止め、一旦寄居警察署に戻る。
更に寄居に戻る途中、松山警察署長吉峰警部小川警察署長深滝警部補率いる巡査17名にも会い、これに対しても「衆寡敵セズ」と説明し、共に寄居に引き返す。
その直後、本野上分署長雨宮警部補が来て、大宮郷警察署長と打合せた風布村の暴徒鎮圧計画を伝え、明1日払暁進撃を決める。
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寄居に戻った石井署長は、午後6時、江夏警部長への報告の為、風布村偵察の際、銃撃を受けた巡査に報告書を持たせて行田に向わせ、本庄・八幡山両署に巡査の応援を求める使いを出す。
午後7時、本野上分署から「暴徒本野上分署ヲ襲撃スルノ形勢アリ」の報告があり、応援のため小川分署長深滝警部補は巡査5名を率い本野上村に向う。
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午後6時の江夏警部長への報告。
「秩父郡村民等各兵器ヲ携へ嘯合スル実況ヲ知ラント欲シ巡査ヲ派遣シ視察セシムルニ風布村山中ニアリテ各自銃砲或ハ刀剣ヲ携へ白布ノ鉢巻ヲナシ同ジク襷ヲ掛ケ、几ソ八九十名屯集シ該巡査ニ向ヒ発砲セリ。為メニ退キ松山小川ノ両署ニ巡査ヲ要求セシニ警部某等巡査十名ヲ率ヒスデニ派出スルニ会シ是ヨリ大宮郷、本野上ノ両署卜協議シ所措セントス。」
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5.大宮郷警察署出動
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■(皆野)
大宮郷警察署長斉藤勤吉警部は、31日午前11時、本野上分署長雨宮警部補の来訪により「風布村不隠」を知ると、「集合ノ人民ニ対シ警察ノ精神ヲ傾注シ、静謐ヲ害スルコトナカレト説諭シ」解散させるべく、午後1時、警察署に巡査3名を残し、大宮郷警察署詰坪山需警部補と巡査10名を率い大宮郷を出発、皆野に向う。
皆野で巡査2名を斥候に出して情勢を窺うと、井戸村より風布村に至る路上に、白鉢巻・白襷の農民多数がいることが判明。
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本野上分署長雨宮警部補が、午後6時までに自署の巡査を率いて皆野村に来ることになっているが、それが遅れていたので、斉藤署長はそれを待たずに井戸村に向う。
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約半里(2km)進んで、下田野村の荒川河畔オンダシの河原に差し掛かると、白鉢巻・白襷の約20名(風布村を先発した大野福次郎指揮隊、7名が鳥銃、他は刀槍で武装)と遭遇。警官隊は包囲するように近付くが、農民隊はこれが警官隊であるとは知らず。誰何され、「大宮郷ノ警官ナリ」と答えると、農民隊の幾人かは逃亡、残った大野福次郎ら12名は、駆り出しに応じた、「警官ノ保護ヲ請フ」と弁明。
警官隊は農民隊を武装解除し、皆野村戸長役場に連行、捕縄を施され、巡査3名と臨時雇いの人夫15人に看守される。
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「皆野村派出ノ斎藤警部坪山警部補ハ巡査七八名ヲ率ヒ該村ヲ発シ井戸村二重ル途中薄暮ニ及ヒ暴徒十七八名各銃器其他刀剣竹槍等ヲ携へ出ツルニ会シ訊問数時ニシテ終ニ其携帯セル兇券ヲ脱セシム。因テ之ヲ収メ暴徒ヲ皆野村へ拘引訊問スルニ至ルトナリ・・・」(寄居警察署から県警本部へ電報)。
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この時、本野上分署長雨宮警部補が、巡査5名を率いて到着。両署長は情勢を検討し、風布村の武装農民は全部出撃していると判断し、両隊合同で困民党の集合場所とみられる下吉田村に向うが、途中で新井周三郎隊による金崎村永保社の被害を聞き、巡査1名を下吉田方面の斥候に出し、主力は金崎村に引返す。
永保社は「暴行名状ス可ラズ」までに破壊され、隣の山田戸長の家も「見ルニ堪へザル」ほど荒されている。
斉藤警部は、情勢の緊迫を感じ、一旦皆野村に引揚げ、下田野村で逮捕した大野福次郎ら12名を、熊谷監獄支署へ護送させる。
(福次郎は12月9日の予審終結後にようやく供述を始める)
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午後10時、県警鎌田警部が、三条太政大臣警護の出張の行田より急遽寄居警察署到着。
深夜、県警本部長江夏警部長が、行田で報告を聞き直ちに寄居に向う。
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(11月1日、吉峰・斉藤両警部は、永保社襲撃の新井周三郎隊を追尾し、阿熊で手痛い目にあうことになる)
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地図上のポイントする地点は困民党蜂起旗揚げの椋神社のある下吉田村。

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