天正10年(1582)6月2日
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■フロイス「日本史」
「信長との戦いがいとも迅速に終結し、同所にいた数名の若い武士もその際殺されてしまい、生存者が一人としていない一方、御殿はその一切を含めて猛火に包まれた。
すでに都では、しだいに事件が明らかとなり、駈けつけた数名の殿は内部に入ることを望んだが、兵士たちが街路を占拠していたので、それが叶わず、嗣子(信忠)の邸宅(複数)に向かって引き返して行った。
彼がこの報告に接した時には、まだ寝床の中にいたが、急遽起き上り、宿舎にしていたその寺院(妙覚寺)は安全でなかったので、駈けつけた武士たちとともに、近くに住んでいた内裏(正親町天皇)の息子(皇子誠仁親王)の邸(二条御所)に避難した。
その邸は、天下において、安土についで比べるものがないはど美しく豪華であり、信長が三、四年前に建築し、内裏の世子を住まわせるために彼に与えたものであった。」
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「(信長の)嗣子(信忠)は同所に身を寄せたが、事件があまりにも急であったので、彼も彼に従った者も腰の大小の刀以外には何物も携えておらず、同所は武器など使用することがない内裏の世子の邸であったから、武器などあろうはずがなく、婦女以外には誰もいなかったので、このような来客は、皇子にとっては相当な重荷であったに違いない。
(信長の)嗣子とともに都の副王(所司代)である村井(貞勝)殿がいたが、その進言に従って、内裏の息子は馬にまたがったまま、外側の街路にいた明智の許へ使者を派遣し、自分はいかになすべきか、切腹すべきかどうかを糺した。
明智は、殿下に対しては何もしようとは思っておらず、ただちに同所から出られるが良いと思う。ただし、信長の息、城介殿が逃亡することがあってはならぬから、馬や篤龍で出ることがないように、と答えた。
内裏の息子はこの報告に接すると、その女たちとともに彼の父の邸に入るため上京に向かった。
(二条御所の)内部にいたのは、選抜された重立った武将たちであったので、実によく奮闘し、一時間以上にわたって戦ったが、外部の敵は多く、よく武装されていた上に、大量の鉄砲を具備していたので、内部からの抵抗は困難をきわめた。
その間、嗣子(信忠)は非常に勇敢に戦い、銃弾や矢を受けて多く傷ついた。かくて明智の軍勢はついに内部に侵入し、火を放ったので、多数の者が生きながら焼き殺された。
その中に混じり、信長の世継ぎの息子は、他の武士たちとともに不幸な運命のもとに生涯を終えた。
そしてわずか二時間の間に、彼は現世の財宝や快楽と富を残したまま、未来永劫に地獄に葬られるに至った。
明智の兵士たちは、その数が多かったので、信長の家臣、武士ならびに嗣子の高貴な殿たちの首を刎ねて、それらを提出すべく、街路や家々の捜索を開始した。そして明智の前には、すでにそれらの首が山積みされ、死骸は街路に遺棄された。」
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・襲撃後、光秀軍は町家に乱入して落人を捜索、洛中は大騒ぎになる。
「都の住民たちは、皆この事件が終結するのを待ち望んでおり、明智が、家の中に隠れている者を思いのままに殺すことができるので、その残忍な性格に鑑み、市街を掠奪し、ついで放火を命ずるのではないかと考えていた。・・・
だが、明智は、都のすべての街路に布告し、人々に対し、市街を焼くようなことはせぬから、何も心配することはない。むしろ、自分の業が大成功を収めたので、ともに歓喜してくれるようにと呼びかけた。
そしてもしも兵士の中に、市民に対して暴行を加えたり不正を働く者があれば、ただちに殺害するようにと命じたので、以上の恐怖心からようやく元気を挽回するを得た。」
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・午前8時か9時には、光秀は京都を出て坂本に向かうとフロイスの報告にある。
吉田兼見は「未刻」(午後2時頃)に、大津方面に向かう光秀と粟田口で会ったという(「兼見卿記」)。兼見の方が正確と推測できる。
「明智は、信長とその嗣子、およびかの奇襲で殪れた他の人々を殺害し終えると、その軍勢を率い、ただちに午前八時か九時に出立し、都から四レーグアの地にある彼の城に入るべく坂本の方向へ立ち去った。」
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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ところで、先月29日に下の様な新聞記事があった。
この京都屋敷というのが、二条御所のこと。
信長が二条家邸宅の庭園を気に入り、「二条御新造」として建設。のちに、誠仁親王に譲ったもの。
そして、信忠が討死したところ。
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