治承4(1180)年8月17日
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・【頼朝(34)、挙兵(山木合戦)】
三島大社の祭礼日。蛭ヶ小島に流刑の源頼朝、伊豆韮山で挙兵。
北条時政・宗時ら85騎、北条館を北上、肥田原で牛鍬大路を東行、堤信遠の館を奇襲(頼朝は、北条時政の屋敷に)。
加藤景廉が、夜襲で伊豆の目代山木兼隆を急襲、倒す(伊豆は平時忠の知行国、平家家人の山木兼隆が目代)。
安達盛長(45)参加。
頼朝の警護:佐々木兄弟(盛綱)・加藤景兼・堀親家。
出陣組:北条時政・佐々木兄弟(定綱・経高・高綱)・岡崎義実・土肥実平。
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□「吾妻鏡」(適宜改行を施す)
「未の刻、佐々木の太郎定綱・同次郎経高・同三郎盛綱・同四郎高綱、兄弟四人参着す。定綱・経高は疲馬に駕す、盛綱・高綱は歩行なり。
武衛その躰を召覧し、御感涙頻りに顔面に浮かべ給う。汝等の遅参に依って、今暁の合戦を遂げず、遺恨万端の由仰せらる。洪水の間意ならず遅留するの旨、定綱等これを謝し申すと。
・・・然る間明日を期すべきに非ず。各々早く山木に向かい雌雄を決すべし。今度の合戦を以て生涯の吉凶を量るべきの由仰せらる。また合戦の際、先ず放火すべし。故にその煙を覧らんと欲すと。士卒すでに競い起こる。
北條殿申されて云く、今日は三島の神事なり。群参の輩下向の間、定めて衢に満たんか。仍って牛鍬大路を廻らば、往返の者の為咎めらるべきの間、蛭島通を行くべきか。
てえれば、武衛報じ仰せられて曰く、思う所然りなり。但し事の草創として、閑路を用い難し。将又蛭島通に於いては、騎馬の儀叶うべからず。ただ大道たるべしてえり。また住吉小大夫昌長(腹巻を着す)を軍士に副えらる。・・・
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盛綱・景廉は、宿直に候すべきの由承り、御座の砌に留む。
然る後茨木を北に行き肥田原に到る。北條殿駕を扣え定綱に対して云く、兼隆が後見堤権の守信遠、山木の北方に有り。勝れる勇士なり。兼隆と同時に誅戮せずんば、事の煩い有るべきか。各々兄弟は信遠を襲うべし。案内者を付けしむべしと。定綱等領状を申すと。
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子の刻、牛鍬を東に行き、定綱兄弟信遠が宅の前田の辺に留まりをはんぬ。
定綱・高綱は、案内者(北條殿雑色、字源籐太)を相具し、信遠が宅の後に廻る。
経高は前庭に進み、先ず矢を発つ。これ源家平氏を征する最前の一箭なり。
時に明月午に及び、殆ど白昼に異ならず。
信遠が郎従等、経高の競い到るを見てこれを射る。
信遠また太刀を取り、坤方に向かいこれに立ち逢う。
経高弓を棄て太刀を取り、艮に向かい相戦うの間、両方の武勇掲焉なり。
経高矢に中たる。
その刻定綱・高綱後面より来たり加わり、信遠を討ち取りをはんぬ。
北條殿以下、兼隆が館の前天満坂の辺に進み矢石を発つ。
而るに兼隆が郎従多く以て三島社の神事を拝さんが為参詣す。その後黄瀬川の宿に至り留まり逍遙す。然れども残留する所の壮士等、死を争い挑戦す。
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この間定綱兄弟信遠を討つの後、これに馳せ加う。
爰に武衛軍兵を発するの後、縁に出御し、合戦の事を想わしめ給う。また放火の煙を見せしめんが為、御厩舎人江太新平次を以て、樹の上に昇らしむと雖も、良久しく烟を見ること能わざるの間、宿直の為留め置かるる所の加藤次景廉・佐々木の三郎盛綱・堀の籐次親家等を召し、仰せられて云く、速やかに山木に赴き、合戦を遂ぐべしと。手づから長刀を取り景廉に賜う。兼隆の首を討ち持参すべきの旨、仰せ含めらると。
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仍って各々蛭島通の堤に奔り向かう。三輩皆騎馬に及ばず。
盛綱・景廉厳命に任せ、彼の館に入り、兼隆が首を獲る。郎従等同じく誅戮を免れず。火を室屋に放ち、悉く以て焼亡す。
暁天に帰参し、士卒等庭上に群居す。武衛縁に於いて兼隆主従の頸を覧玉うと。」
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「丁酉。快晴。三島社の神事。藤九郎(安達)盛長が奉幣の御使として社参し、間もなく帰参。神事が行われる以前のことであった。
未の刻、佐々木太郎定綱、同次郎経高、同三郎盛綱、同四郎高綱の兄弟四人が参着。定綱・経高は疲れた馬に乗り、盛綱と高綱は徒歩。
武衛(頼朝)はその様子を見て、感動の涙を浮かべ、「汝らが遅れた為に今朝の合戦ができなかった。この遺恨は大きい」と仰った。洪水の為、心ならずも遅参したと定綱らは謝罪した。
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戌の刻、命令により、盛長に仕える童が釜殿で兼隆の雑色を捕えた。この男は、最近北条館の下女を嫁として、夜毎に通ってきている者。今夜は、勇士らが殿中に集まり、様子と違っているので、気付いてしまうと考え、これを捕えさせた。
そこで、「明日を待ってはいけない。早く山木に向かい雌雄を決せよ。この戦いによって生涯の吉凶を決めるのだ。」と頼朝が言い、合戦の時にはまず火を放つように命じる。特にその煙を見たい為という。武士たちはすでに競って奮い立っている。
時政が、「今日は三島杜の神事があり、多くの人々が来るので、きっと道は人で溢れるだろう。牛鍬大路を経由すると行き来する人に答められるので、蛭嶋通りを行くのがよいだろう」と言う。
頼朝は、「思う所はその通りが、大事を始めるのに裏道を使うことはできない。また蛭嶋通りでは騎馬では行けないので、大道を用いるように」と答える。また、住吉小大夫昌長(腹巻を身に着けている)を軍勢に付き添わせた。これは戦場で祈願させるためである。
盛綱と(加藤)景廉は留守を守るように命じられ、頼朝の近くに残る。
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その後、(軍勢は)蕀木を北に行き肥田原に到着。
時政は馬を止めて定綱に言う。「兼隆の後見の堤権守信遠が山木の北の方におり、優れた勇士である。兼隆と同時に誅しておかなければ後々の煩いとなろう。佐々木兄弟は信遠を襲撃するように。案内の者を付けよう」。定綱らはこれを了解。
子の刻、牛鍬大路を東に行き、定綱兄弟は信遠の邸宅の前田の近くに集まる。
定綱と高綱は、案内に付けられた時政の雑色、源藤太を連れて信遠の邸宅の後ろにまわる。
経高は、前庭へと進み矢を放つ。これが、平氏を討伐する源家の最初の一矢であった。
その時、月は明るく真上に光り、昼間と変わらない程であった。
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信遠の郎従たちは、経高らか競って攻めてくるのを見て矢を放ち、信遠も太刀をとって西南の方角へ向かってこれを迎え撃つ。
経高は弓を捨てて太刀を取り、北東の方角に向かって戦う。
信遠と経高のどちらの武勇も際だっていた。
経高に矢が当たったが、その時、定綱と高綱が邸宅背後から参戦し、信遠を討ち取る。
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時政らは、兼隆の館の前の天満坂の辺りまで進み、矢を放って合戦した。
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兼隆の郎従の多くは三島社の神事を見しようと参詣し、そのまま黄瀬川宿に留まって遊び歩いており不在。兼隆館に残る僅かな男たちは、死を恐れず時政らに戦いを挑む。
この間、定綱兄弟は信遠を討ってから時政の軍勢に加わる。
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頼朝は、軍兵を送り出した後、館の縁側に出て合戦のことをお思っていた。
火を放った煙を確認させる為に、御厩の舎人の江太新平次を木の上に登らせたが、しばらく煙は見えなかったので、警固の加藤次景廉、佐々木三郎盛綱、堀藤次親家らを呼び、「すぐに山木に行き、合戦に加わるように。」と言い、長刀を景廉に与え、兼隆の首を討って持ち帰るよう命じる。
3人は、馬にも乗らず蛭嶋通りの堤を走って行く。
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盛綱と景廉は命令通り館に討ち入り、兼隆の首をとる。兼隆の郎従らもまた死を逃れることはできなかった。屋敷に火を放ちすべて燃えてしまった頃には朝になっていた。
帰ってきた武士たちは館の庭に集まった。頼朝は縁で兼隆主従の首を見たという。」
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○佐々木定綱(1142~1205):
佐々木秀義の長男。母は源為義の女。通称太郎。
平治の乱で父、兄弟らと共に義朝に属して敗れ、下野の宇都宮氏に身を寄せる。
頼朝の挙兵に応じ、以来多くの軍功をあげ頼朝に信頼される。
失っていた本領近江国佐々木荘の地頭職に補され、ついで近江国守護となる。
しかし、建久2年(1191)4月、佐々木荘内延暦寺千僧供養領の年貢を対捍したことで憤った衆徒らとの間で殺傷事件が起こり、薩摩に配流。
建久4年3月12日に赦され、鎌倉に帰着(「吾妻鏡」建久4年10月28日条)。頼朝は喜んで、近江守護職ほか旧領を安堵し、更に隠岐一円地頭職・長門・石見守護職に補す(「同」同年12月20日条)。
その後、在京して京都大番役・検非違使を勤め、従五位上に任ぜられ、元久2年(1205)4月9日病没(64)。
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○佐々木高綱(?~1214建保2)。
佐々木秀義4男。母は源為義の娘。
父秀義と共に渋谷重国のもとに身を寄せ、頼朝のもとに出入りする。
頼朝の挙兵に父・兄弟らと共に参陣し、頼朝を守って側近くで奮戦、軍功を重ね信頼を得る。
元暦元年(1184)正月、義仲追討には義経に従って宇治路より入洛。「平家物語」に頼朝より拝領した名馬生唼(イケイズキ)に乗り、梶原景李と宇治川で先陣争いをするとの逸話を残す。
やがて左衛門尉に任じられ、備前・長門の守護となる。また、焼失した東大寺再建に尽力する重源上人に協力し、周防国より材木を調達するなど奉行として便宜を計り、その功を頼朝に賞される(「吾妻鏡」文治5年6月4日条)。
しかし、恩賞の不満からか、建久6年(1195)家督を嫡男重綱に譲り、高野山に遁世し出家(「同」建仁3年10月26日条)。建保2年(1214)11月没。
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「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
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