2010年5月5日水曜日

明治17(1884)年11月4日(4) 困民党総理田代栄助の戦線離脱 何ゆえに?

明治17(1884)年11月4日(4)
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困民党指導部崩壊
午後3時、田代栄助、「運命ヲ俟タン」として柴岡熊吉より500円を受取り、半分を訪ねてきた3男八作に渡し、井上伝蔵・三山小隊長犬木寿作ら一行7名で荒川を越え逃亡。
4時過ぎ、長留村芝原部落で4人に120円を与えて分れ、この部落の懇意な医師宅で休息後、伝蔵ら2名と別れる。
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「夫ヨリ自分ハ柴岡熊吉、井上善作ノ二人ニ万事ヲ托シ十一月四日午後三時前、井上伝蔵、嶋田清三郎、贄川村磯田左馬吉、犬木寿作其他名前不知者二人合セ七人ニテ皆野村ヲ発シ蒔田村ヲ経テ寺尾村山中ニ至り様子ヲ探ルニ、皆野村ノ方ニ当り砲声頻リニ聞へ、大官郷ノ方ヲ窺フニ憲兵及ビ警察官吏大勢繰込ミ居ル故、深山ニ逃ルルニ若カズト倶々同日午後四時過ギ同所ヲ発シ長留村字芝原ニ至り各離散再会ヲ期セント自分持合金ノ内姓名不知二人へ五円ヅツ嶋田清三郎、犬木寿作ノ両人へハ六拾円ヅツ与へ別レタリ・・・」。
この供述によれば、贄川村磯田左馬吉(栄助の甥)と会計長井上伝蔵は、最後まで栄助の身辺に残ったことになる。栄助、左馬吉、伝蔵がどう別れ別れになったかについては、栄助は供述を避けている。
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栄助脱出後の混乱。
「角屋へ行キ、又前ノ酒屋へ参リテ三銭ガホド酒ヲ飲ミ、帰リテ見ルト栄助モ倅モ居ラズ、其時小柏常次郎ニ総理ハ何処へ行シカト尋ネタル処、何処へ行キタルカ居ラズトノ事、其時大淵ノ方デ巡査ガ切り出シ怪我ヲシタト云者アリ、ヤガテ三人戸板ニ乗セテ担ギ来ル、総理ハ居ラヌトノ騒ギニテ、大淵へ出タル人数ハ呼戻ス、野上へハ兵隊ガ繰込ミタルト云フ話シガアル、余程ノ混雑ニテ」(「新井貞吉訊問調書」)
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「四日火縄購求ノ為メ大宮ニ到り再ヒ皆野ニ帰リシ時、既ニ栄介等ノ所在ヲ失シ殆ント瓦解ノ域ニ至ル」(「門平惣平裁判言渡書」)。」
栄助は側近惣平の帰陣を待てないほど慌ただしく離脱した様子が窺え、それほどの栄助の動揺、戦意喪失の程度ぶりもまた窺える。
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「万事ヲ托」すと言われてた柴岡熊吉は間もなく逃走し、井上善作は落合寅市隊に参加。
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○その後の栄助:
4~8日、日野の山中潜伏。
9~11日武甲山に潜伏。
12日、次男保太郎(24)と横瀬村五番観音の岩窟。
13日保太郎が食糧を運び山中潜伏。
14日黒谷村の宮谷方で宿泊中、宮谷某の密告により熟睡中に捕縛(15日午前3時30分)。
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□「十四日夜一老人来り、本部長ニ面会ヲ乞フ者アリト本部護衛巡査ノ申告ニ応ジ、鎌田ハ之卜別間ニ面会セシニ、老人ハ即チ黒谷村宮谷倉吉卜名乗リ、声ヲ低フシテ曰ク、過刻懇意ナル田代栄助父子両人来り一泊ヲ乞フ、即チ其意ニ応ジ休息セシメ置キタリト、直ニ倉吉ヲ案内者トシ、田代刑事以下巡査十余名ヲ派シ、栄助及其倅保太郎ノ両名ヲ捕押シ来レリ(鎌田冲太「秩父暴動実記」)
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栄助の次男保太郎の供述。
「十四日ハ三沢ノ峯山こ匿レ、縁者横田太郎ヨリ飯ヲ貰ヒ自分カ運搬シ実父ノ食用ニ供シタレトモ、温気ノアル食物ヲ服セサルニ付如何ニモ寒気ニ難堪ヨリ、黒谷村姓名ハ聢卜知ラサル倉トカ称スル大工ノ宅ニ潜伏シ居タル処、同日午前十二時頃天網免レ難ク終ニ捕縛イタサレ、大宮郷ニ押送致サレ候」
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○その後の井上伝蔵
その後、姿をくらまし欠席裁判で死刑。大井との密約で水戸での再起を期して水戸に向うが果たせず、下吉田村字関の知人の土蔵で2年間潜伏。
越後・能登での同志との再会の約束のため、そこに向うがまた果たせず、明治20年秋北海道に渡る。
苫小牧の「土工請負某」のところに2~3ヶ月潜伏後、軽川の侠客某を頼り潜伏、後、代書業を始めこれが繁盛する。
法制改正により代書業者の身元調査が行われるため廃業。この間、結婚し5人の子供をもうける。
大正7年6月23日、現・北見市で没(65)。直前21日、過去を妻子に告白。秩父の家族を待って葬儀。
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□「朝日新聞」。
「秘密の三十五年、秩父事件の首魁井上伝蔵、死に臨で妻子に旧事を物語る」
「明治十七年蜂起せる秩父事件の首魁井上伝蔵は、当時全く行方不明とされつゝありしが、今より七年前、高橋姓を名乗りて北海道北見国常呂郡野付牛村に来り居住し、去月二十三日六十五歳にて死亡せり。其死するにあたり、一時間前妻子を枕元に呼び寄せ、初めて自己の経歴と身元を明したる為め、妻子の驚き一方ならず、遺言に基き国元埼玉県に電報したるに、実弟井上頼作及其甥に当る井上宅治等訪ね来り、葬儀を執り行ひたり。三十五年の長き間行方不明とされ居りし者が、突然現われたるは稀有とすべく、又伝蔵は当時官憲の捜査を遅れ、先づ室蘭に来り、夫より北海道各地を放浪せるものなりと。」
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■栄助逃亡を巡って:
○持ち逃げを疑う幹部たち
「四日朝皆野宿へ至りタルニ、栄助折平其他室立ガ何レヘカ逃ケタリト云フ事ヲ聞込タル故、栄介等ハ金ヲ握ツテ逃ケタル事ニテ不届ナル者ニ付見付ケ出シテナグッテ仕舞フト申シ、自分等大勢卜共ニ栄助等ノ所在ヲ探スモ更ニ行衛分カラス」(石間村漆木新井繁太郎の供述)。
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「皆野宿ニ至り、新井逓吉ニ出会栄助ノ所在ヲ間フニ、逓吉ハ昨夜当所江栄助卜共ニ来りタレトモ熊五郎カ何レヘカ連レ行キ更ニ所在知レスト云ヒリ 夫ヨリ熊五郎ヲ尋ツテ其所在ヲ間フニ、熊五郎モ知ラント云ツテ判然タル事ヲ申サズシテ、所在ヲ知り居ル者ヲ連レ来ルト申シ何レヘカ踪跡ヲ晦マシタリ 因テ井上伝蔵ヲ尋タルニ之レ又所在知レス 此トキ折平カ出テ来タリシ故栄助伝蔵ノ所在ヲ尋ヌルニ、折平ノ答ニ自分ハ更ニ所在ハ知ラス 君ハ共ニ居リシ故知り居ルナラント申シタリ 此トキ自分ハ前夜以来栄助ノ動作ヲ述へ、必定彼レハ陸軍カ向ヒタルヲ聞キ且ツハ多分ノ金ヲ持チシ故逃走シタルナラント申シタリ」(小柏常次郎第2回訊問調書)
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○逃亡時刻は「午後三時前」(栄助供述)か?
・重傷の周三郎を見てから逃亡という証言
「味方ニ裏切レカアリ周三郎外弐名ヲ切リ斃サレタルト報知アルヤ否周三郎ヲ戸板ニ乗セ連レ来 栄助是ヲ視ルヤ忽チ色ヲ変シテ、鳴呼残念卜云フ言葉ヲ発シテ皆野村門田屋ノ裏ヨリ直ニ馳出シタリ」(柴岡熊吉第4回訊問調書)
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栄助より後に逃亡した熊吉の逃亡時刻は、以下熊吉の供述では「ずれ」はあるものの11時~12時と考えられ、「栄助第4回訊問調書」(午後3時頃逃亡)や「熊吉第4回訊問調書」(運び込まれた重傷の周三郎を見てすぐ逃亡)と異なっている。
「所詮勝利は得難キモノト存ルヨリ、同盟者ノ透ヲ窺同日午前十一時覚卜覚、皆野邨ヨリ逃走致シタルニ相違ナシ」
「正午十二時頃皆の村ヲ逃ケ出シ、秩父郡高篠山ニ隠レ夜ヲ明カシ」
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・本野上村の伝令使島田清三郎(栄助と共に角屋から柴原まで同行)の裁判言渡書には、
「彼我ノ動静ヲ捜察シ居ル折柄、大渕村ニ於テ裏切アリトノ注進ヲ為シ来ルヨリ之レヲ本営ニ報シ、栄助等ハ事ノ成ラサルヲ察シ、伝三犬木寿作卜共ニ逃走スルニ際シ被告モ之レニ随従シ寺尾村山中ニ入り・・・」
と、「注進」を「報シ」てから逃亡とあり、栄助は周三郎が運ばれてきたこととは無関係に逃亡しているようにとれる
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周三郎が角屋に担ぎ込まれた時、栄助はそこに居なかったとする供述もある(加藤織平、小柏常次郎、村竹茂市、新井貞吉などの調書)。
加藤織平の調書では、
「問 周三郎ノ切ラレタルコトハ
答 山ヨリ直ク下リテ聞キタリ 依テ自分ハ周三郎ヲ皆野村ナル惣理へ送りタリ
問 其時惣理栄助ハ居りタリヤ
答 居ラサルニ付柴岡熊書ニ托シタリ」
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・周三郎の負傷が10時頃、角屋到着が11時前、栄助の離脱は11時前後ではないかと推察できる。
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○栄助の早い離脱の理由は?
諸説:
①大宮郷に結成された自警団との人民同士の流血の惨事を避けるため。。
②実戦によって生じるであろう犠牲者を最小限にとどめるため。
③前日(3日)朝、困民党が皆野へ動きだしたことを戦術的誤算として、総理の任これまでと覚悟した。
④当日(4日)午前、三男八作の陣中訪問により精神的虚脱状態が一層深まったため。
など・・・。
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栄助は年齢50歳、加えて胸痛の持病をもっており、3日にもこれが発症している。
この日、官憲・自警団襲来の注進(4日午前の段階では殆どが虚報)が相次ぎ、前日来の自軍の統制破綻の状況下で、栄助の焦燥は深まり、
加えて、
この日の三男八作の陣中訪問と周三郎の負傷により戦意喪失した、
というのがこれらを綜合したところの理由といえる。
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■この年の栄助の軌跡
2月
自由党に入党する意思で下日野沢村重木の村上泰治(17)を訪問するが、拒絶される。田代は深く傷つく。
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9月
困民党指導部に参加を要請され、これを決意。
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10月26日
粟野山会議で、決行の1ヶ月延期を主張。否定され、11月1日朝8時下吉田村椋神 社集合・11月2日午前2時大宮郷繰出しが決定
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11月2日夜
大宮郷で、近くに住む実姉を訪ね「永訣ヲ告ゲ」る。
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11月3日朝
甲乙両隊の独断専行に不満を抱くが、井上伝蔵・宮川津盛ら側近と護衛数10名を率い皆野村に向い、正午頃、乙隊の本営「角屋」に入る。
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11月3日午後
持病の胸痛を発し、常次郎・熊吉ら数名と大野原に戻り民家で静養。
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11月4日朝
皆野の本陣に戻る。憲兵・警官隊による包囲・封鎖が徐々に進み悲観的情勢を知る。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
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