天正10年(1582)6月2日
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・未刻(午後2時頃)、吉田兼見は粟田口で大津方面に向う光秀に会う。
光秀は信長本拠地の近江制圧を優先する。大坂方面の押えに勝龍寺城に溝尾勝兵衛を置く以外は全軍を近江に移動。
瀬田城の山岡兄弟(瀬田城主山岡景隆、膳所城主山岡景佐)を勧誘するが、午後4時、景隆は「信長公の御厚恩浅からず」(「信長公記」)と拒否し、瀬田橋・瀬田城を焼いて甲賀山中に脱出。
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瀬田橋は幅4間、長さ180間という巨大なもので、山岡景隆が破壊できたのは、その一部のみ。
光秀は橋補修を命じ坂本城に帰還。瀬田橋復旧までの1日半、光秀は船を使って先遣部隊を近江各地に派遣し、織田家諸将に誘降の書状を発信。
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「都から五レーグアのところに、信長がしばらく前に作らせたはかりの、日本随一と言われる瀬田の橋と称する美しい橋があり、・・・橋際に監視だけを使命とする指揮官と兵士がいる砦があったが、彼(指揮官)は、信長の訃報に接すると、明智の軍勢があまり迅速に、安土に向かって通過できぬように、異常な注意深さをもってただちに橋梁を切断せしめたからである。そのために、次の土曜日まで通行できなかったが、明智の優秀な技能と配慮により、ただちに修理復旧された。瀬の深さと、同所を流れる水足がきわめて早いことから、それは不可能事と見られていたのである。」(フロイス「日本史」)。
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・前田利長(21)、夫婦で上洛途中、近江勢田で変報を聞く。
夫人(信長の娘・永姫)を尾張荒子に避難させ、信長の婿同士の蒲生賢秀(後の氏郷)らと共に信長の夫人達を日野城(中野城とも。滋賀県日野町)に匿う。利長らは明智軍の進行を止めるため瀬田の唐橋を落とし、近江の織田側軍勢を集める。
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明智の使者が日野城を訪れているが、蒲生氏はその応対を明らかにせず、利長は、蒲生家が明智に一味するのではないかと危険を感じ、日野城を脱出し、伊勢松ケ島城(松阪市)織田信雄の許に駆け込む。
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2日、信雄は本拠伊勢松ケ島城にあり、信忠軍団として中国出陣の準備中。
信長と兄信忠が亡くなり、次男信雄が家督継承順位の筆頭となる(信雄を核にして織田の残存勢力を結集させなければならないが、・・・)。家康一行を案内した長谷川秀一は、伊勢を通過して尾張に渡る。
信雄は近江に兵を進めるが、戦力が不足しており、日野城の蒲生賢秀の去就も不安定のため、近江へ深入りはせず、鈴鹿峠の麓の土山で停止し、明智方を牽制する態勢をとる。
伊賀では、光秀の煽動を受けた一揆が蜂起し、伊勢でも北畠一族の北畠具親が五箇篠山城(三重県多気町)に籠って挙兵、信雄はその対応に追われる。
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信長の次男信雄:
永禄12年、伊勢の名門北畠氏は、織田家との和睦条件として信雄を養子とすることを受け入れる。
その後、織田家の支配体制が安定し、天正4年、北畠氏は相次いで粛清される。
信雄は、摂津で作戦中の信忠に合流するよう命じられた際、独断で未征服の隣国伊賀を攻撃し、大敗。
兵約8千で伊賀に出兵。狭隘な地形で長く伸びた隊列をゲリラ攻撃で寸断され、山中に迷い込み、部隊は包囲殲滅される。重臣柘植三郎左衛門は討死し、信雄は伊勢に逃げ帰る。
信長は、信雄の油断と同母兄の信忠に対する甘えに激怒。
いずれ家督を継ぐ信忠に対し、信雄が家臣としての立場をわきまえなければ、争いの種ともなりかねない。
信長は譴責状を送り、そのような心がげでは親子の縁を切ると厳しく言い渡し、兄信忠に忠節を尽くすように叱る。
天正9年、甲賀から滝川一益・丹羽長秀、信楽から堀秀政率いる近江衆、大和から筒井順慶、伊勢面から信雄と叔父の信包が、一斉に伊賀に突入し平定。伊賀4郡のうち山田郡は信包に加増されるが、残りの3郡は信雄に与えられ、信雄は本領の伊勢南部と合わせて約30万石となる。
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・午後10時半、播州三木城(兵庫県三木市)の前野長康(秀吉家臣)に細川藤孝より密書が届く。
長康は秀吉に、
「藤孝が光秀より同心の誘いがあったが、これに合力しない旨の心底を告げて来たので、まず丹後は味方であろう」
と速報(吉田蒼生雄全訳「武功夜話」)。
後、忠興娘が長康嫡子に嫁ぐ。藤孝は迅速な行動をとっている。
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この日付の光秀の美濃野口城(大垣市野口町)西尾光教宛の勧降工作書状。
「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候。其の表の儀、御馳走候て、大垣の城相済まされるべき候。委細、山田喜兵衛尉申すべき候。恐々謹言」(「武家軍紀」所収文書)。
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信長父子の悪虐:新王都安土を原点とする新秩序形成の兆し(伝統と社会秩序の破壊)。
①正親町天皇の譲位強要・皇位簒奪計画、
②京暦(宣明暦)への口出し、
③平姓将軍への任官、
④職太政大臣近衛前久への暴言、
⑤国師号を持つ快川紹喜の焼殺、などを挙げる論者あり(小和田哲男)。
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・「信長公阿弥陀寺由緒之記録」による阿弥陀寺と信長の遺骨。
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阿弥陀寺清玉(芝薬師蓮台野の阿弥陀寺住職)は光秀の本能寺襲撃を聞き、僧侶20人を連れて駆けつける。
表門は明智軍が厳重に囲み寺内には入れず、裏門より辛うじて入る。既に堂宇は焼かれ、信長も自刃した後である。
そばの竹林で信長の家臣10余人が火を焚いており、信長の遺言により信長の遺骸を火葬にしたとのことであり、彼らは遺骨を隠し、その後自決する覚悟だという。
そこで、清玉は、家臣に頼んで火葬された遺骨を法衣に包み、本能寺の僧侶が逃げるのに紛れ込んで寺から脱出したという。
この後、昼の八ツ時(午後2時頃)、清玉は七条河原で兵を休息させている光秀を陣中に見舞い、本能寺や二条御所で戦死した者の中には、阿弥陀寺の檀越の者が多くいると言い、遺骨収容を嘆願。光秀の許しを得て、信忠の遺骨や、討死者の死骸を阿弥陀寺に持ち帰って供養することが出来たという。
「言経卿記」7月11日条では、「阿弥陀寺へ参了、今度打死衆前右府御墓巳下拝之」とあり、その後の日記に、阿弥陀寺の信長の墓の記事もある。
9月8日からは、信長の百ヶ日追善供養が同寺で行われている。
阿弥陀寺や臨済宗妙心寺では信長の院号を「天徳院殿」と称するが、10月15日の大徳寺総見院で秀吉主導で行われた本葬の時に、「総見院殿」と改められたらしい。
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この由緒書は、記憶を頼りに享保16年(1731)に作られたという。
記された当時の阿弥陀寺の位置は2ヶ所あるが、その近いほうでも本能寺まで約3kmあり、事件を知ってから、戦いが続いている最中に駆けつけることは不可能と思われる。
更に、信長家臣が集まって信長の死骸を焼くことができる場所も時間的余裕もなかったと思われる。
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加藤廣「信長の棺」は、この由緒書を下敷きにしている。
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阿弥陀寺の写真、現在の位置などはコチラ
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・この日付の「言経卿記」、「言語道断ていたらく也、京洛中の騒動是非に及ばず」と感想を述べる。
3日には「洛中の騒動斜めならず」、
4日にも同じく「洛中の騒動斜めならず」、「禁中へ俳諧しおわんぬ」と記し、12日まで日記は中断。
13日に再開され、15、17日と続くが、4日までは干支が記されているのに反し、この3日間はなく、18日には干支が記される。
この13、15、17日の3日間は後の追記で、18日に日記を再開したと推測できる(3日分を18日に新たな紙に書き継いだと推測される)。
世情の混乱による狼狽に起因するのか、吉田兼見のように、都合の悪い記事を抹消する意図があったのか。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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瀬田
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