天正10年(1582)6月2日
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・朝、家康一行、信長に合うため堺を出る。
昼頃、河内の飯盛山付近で変報を知らせるため堺に向かう京の豪商茶屋四郎次郎と遭い、伊賀経由で帰国すべく、宇治田原に向かう。
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家康にとって状況は悲観的。
近江ルートは明智勢に封鎖され、間道各所には落ち武者狩りが出没。
大坂に引き返して信孝に庇護を求めれば、一旦の安全を確保できるが、明智勢が攻撃してくれば、持ち堪えられない。
家康には徳川家の主な幹部(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政・高力清長・石川数正・石川康通・大久保忠隣・大久保忠佐など)が随行し、本国には嫡男長丸(後の秀忠、4歳)を残している。帰国が遅れれば、徳川家内は大混乱に陥ること必至。
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案内役の長谷川秀一は、日頃の人脈を活かし、地元の土豪に保護を要請。
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「二日朝、徳川殿上洛、火急ニ上洛之儀は、上様安土より、廿九日ニ御京上之由アリテ、それにつき、ふたと上洛由候也」(「宇野主水日記」)。
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・大坂の信孝は・・・。
この日は四国方面軍(最高指揮官神戸(織田)信孝)の大坂出陣日。
「一、三七様(信孝)、五郎左衛門(丹羽長秀)殿、四国へ六月二日に渡海あるべしとて、住吉浦にて馬印も舟に立申候ところに」(「細川忠興軍功記」)。
副将津田信澄と丹羽長秀は、石山に籠城。5日、信澄は謀殺される。
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四国方面軍には丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄が副将として配属される。
長秀は近江佐和山10万石、頼隆は和泉岸和田5万石、信澄は近江大溝5万石で、信孝と合わせても約25万石、兵力6千程度。
信孝は、領内では15歳~60歳の男子を根こそぎ徴募し、各地から浪人衆を雇い、寄せ集め雑軍ではあるが兵力1万5千を確保。
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織田信孝:
信長の三男(次男信雄よりも20日ほど早く生まれるが、信雄の生母生駒氏が信長の事実上の正妻であることから、信孝の序列は繰り下げられる)。
その後、信雄は伊勢の名門北畠氏を継いで伊勢南部約20万石を領するが、信孝は関氏の支族にすぎない神戸氏を継ぎ、領地も河曲・鈴鹿の2郡約5万石にとどまる。
天正9年の京都での馬揃えに際しても、嫡男信忠が80騎を引き連れて織田一門の先頭を進み、二番手に信雄が30騎を率いて行進、三番手は叔父の織田信包(ノブカネ、伊勢安濃津城主)の10騎、信孝は四番手で10騎であった。
信孝は、天正6年の播磨神吉城攻めでは先頭に立って突撃を敢行し、木曾義昌調略にも関与するなど努力を重ね、天正10年新編成の四国方面軍司令官に登用される。
信孝には讃岐13万石が与えられる予定で、さらに阿波の名族三好康長の養子とされ、いずれ三好領の阿波18万石も継承し、名実ともに信孝が四国の旗頭に就くことが約束されていた。
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津田信澄:
永禄元年(1558)、信長との家督争いの末にに謀殺された弟信勝(「信行」ともいう)の子。信長は嬰児の信澄を柴田勝家に養育させる。
信澄は、琵琶湖を挟んで安土城の対面に位置する大溝城5万石の城主に登用され、天正9年の馬揃えでは信孝に次ぐ5番手とされ、同じく10騎を引き連れた。
信長が信澄を自分の息子並みに厚遇し信澄もその期待に応え、信長側近として活躍する。
「多聞院日記」は、信澄を「一段逸物なり」と評価している。
妻は光秀の娘。
信澄の本来業務は、本願寺移転後に残された石山の城郭施設を丹羽長秀と共同で管理すること。信長はここに巨城を建設して本拠を移す計画を持ち、この2人をその普請奉行に任命する腹積もあったと思われる
(丹羽長秀はかつての安土城の普請奉行を務め、信澄は巨石「蛇石」を運び込んだことで知られる)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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