2010年5月9日日曜日

樋口一葉(22歳)、岩崎家の土地買収を皮肉る。「月まではいかにやいかに」

樋口一葉、22歳の明治27年、「しのぶぐさ」(一葉日記と同等に扱われている文章)に、岩崎弥太郎を創始とする岩崎財閥家の東京市内の土地買収を皮肉る個所がある。
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「ゆしまの坂道は此ほどまで町やにて、いとにぎやかなりしが、家をこぼち道をひろげて岩崎ぬしのやしきに成しより、石垣たかくつみて木立ひまなく、やみのよなどいとさびしくなりぬ
月まではいかにやいかによの中の
ひかりはおのが物になしても       」(感想・聞書「しのぶぐさ」)
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(現代語訳)
「湯島の坂通りは最近まで商人たちの家が建ち並び大変賑やかでしたが、家を壊し道を拡げ岩崎氏の邸宅になってからは、石垣を高く積み植込みの樹々が茂り、夜などはすっかり寂しい通りになってしまった。
世の中のことは何でも自由にできる岩崎財閥でも、
月の光まではどうにもならないものだ。      」
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一葉は、4歳~9歳まで東大赤門前の「桜木の宿」に居住するが、その後は、上野、御徒町に居住している。
また、14歳の時に、安藤坂にある中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門してからは、湯島の切通坂は彼女の通学路となり、この坂辺りと一層慣れ親しむことになったと思われる。
その一葉が、坂の辺りの民家がたち退き、岩崎家が土地を買収したことを皮肉ったというわけである。
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よく知られたハナシではあるが・・・。
土佐藩の回漕業務を一任されていた岩崎弥太郎は、廃藩置県後、九十九商会を買収する。
明治6年、三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開。
明治10年には、西南戦争の軍事輸送を担当し一層の飛躍を遂げる。
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明治11年、創始者岩崎弥太郎は、深川区の清澄町、本郷区の六義園、下谷茅町の越後高田藩榊原家が所有していた土地をを購入する。
(下谷の土地は高田藩から舞鶴藩知事牧野氏に渡り、岩崎家はこの牧野氏からこの土地を購入)。
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一葉が皮肉ったこの頃、三菱会社は、日清戦争を控えて更に莫大な富を蓄積する。
また、この頃には、湯島天神下の切通坂(春日通り)は、東京市の市区改正工事によって道幅が大幅に広げられ、岩崎家の所有面積は下谷区~本郷区にまたがり、切通坂から無縁坂にかけて1万5千坪になっている(現在の旧岩崎邸庭園の3倍)。
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この頃は、岩崎家三代目社長岩崎久弥(28)の時代で、久弥は六義園内の邸宅に居住していたが、明治29年には、新婚家庭のために茅町の本邸にジョサイア・コンドル設計の洋館が完成させ転居する。
これが、現在に残る重要文化財岩崎邸である。
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一方、三菱会社は、一葉が皮肉ったこの年明治27年、陸軍から買収していた丸の内地区にジョサイヤ・コンドル設計の三菱一号館を竣工させている。
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まあ、やりたい放題というところか。
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その頃の一葉と言えば、
前年、糊口的文学と訣別すべく恒産うちたてるために貧民街龍泉で商売を始めるが、この年、あえなく廃業し、丸山福山町(終焉の地)に転居している。
一葉と母・妹3人の生活費、月10円内外が得難い状況なのである。
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月10円というのは一体どれくらいのレベルなんだろうか。
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時代はかなり下る、日清日露戦争を経た明治44年(1911)ではあるが、東京市が特殊小学校増設の参考のため細民調査を行っている。
その調査における「細民」規定では、
「区費を負担せぬ者で、人夫、車夫、日傭等を業とし、月収二十円以下若しくは家賃三円以下の家に居住する者」
と規定している。
一葉家族の経済状況、推して知るべし、である。
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尚、石川啄木は、この調査の少し前の明治42年、朝日新聞社に月給25円の校正係として入社している。
こちらも、東京市が規定した「細民」とさほど変わりがないということか。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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