2010年5月22日土曜日

本能寺の変(12) 天正10年(1582)6月2日 見捨てられる安土城 筒井順慶は光秀に与する 細川父子は備中から引き返す 光秀軍は近江に向う

天正10年(1582)6月2日
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・午前10時頃、京都での変報が安土城下(京都より約50km)に伝わり、徐々に京都から下男たちが逃げ戻り、光秀の謀反が確認されて大変な騒ぎとなる。
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「身の介錯(「世話」の意)に取紛れ、泣き悲しむ者もなし。日比(ヒゴロ)の蓄へ、重宝の道具にも相構わず、家々を打捨て、妻子ばかりを引列れゝゝ、美濃・尾張の人々は本国を心ざし、思ひゝゝにのかれたり」(「信長公記」)。
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「信長公記」は、安土城留守役として、本丸番衆7人、二の丸番衆14人、計21人を挙げているが、うち13人は留守役以外の事績が残っておらず、二線級又はそれ以下の人物。残り8人中4人は行政官僚で、武将は4人のみ。
その内、城持ちの大身は日野城主蒲生賢秀(カタヒデ)と膳所城主山岡景佐の2人だが、山岡景佐は変報を聞くや瀬田城に駆け付け、兄景隆に合流しており、この時点での安土城の最高責任者は蒲生賢秀である。
「老人雑話」で「頑愚にして天性臆病の人なり」と評される賢秀は、変報に接しその無能ぶりをさらけ出す。
賢秀がすぐに手勢を招集し断固たる姿勢を見せていれば、城下の混乱をある程度まで封じ込められたかもしれないが、何も行動を起こさず、将兵は続々と城を捨てて逃亡。
夜になると、明智方に内通した山崎秀家が自分の屋敷に火を放ち、城下は、「騒立つ事正躰(ショウタイ)なし」(「信長公記」)という状態に陥る。
その後、賢秀は、信長の妻子を日野城に移送するため、日野城から部隊を派遣させる。安土城は見捨てられた
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・朝、信長への挨拶のため奈良街道を北上する筒井順慶の許に光秀の使者が到着。
順慶は光秀に与することを即決し、配下の井戸良弘(順慶の義兄、槇島城2万石の城主)を上洛させる。
順慶自身は、大坂の四国方面軍を牽制し、近江に進撃した明智勢の背後の安全を確保するため、郡山城に引き返す。
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・午前10時頃、多聞院英俊(興福寺多聞院の僧侶)、「変」報を知る。
「信長於京都生害云々、同城介殿も生害云々、惟任并七兵衛申合令生害云々、今暁之事今日四之過(午前10時過ぎ)ニ聞へ了」(「多聞院日記」)。
事変が、光秀とその女婿七兵衛(織田信澄)との共同謀議との不確実情報が伝わる。続いて、信長死去を盛者必衰と記し、今後世情が動揺するであろうと予測。
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翌3日、
「京都の儀、たしかには聞こえず」と確実な情報不足を記すが、この日のうちに新情報が伝わり、「京ヨリ注進の面、信長ハ本能寺ニテ、城介ハ二条殿ニテ生害」と記す。
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・昼頃、備中に向かっている細川藤孝・忠興父子、但馬竹田で変報に接し引返す。
細川家家臣米田求政の家来早田道鬼斎(早足で1時間に11km歩く)が、相国寺門前の米田の屋敷で察知した光秀謀反の知らせをもたらす。(「細川家記」)
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◆細川藤孝(信長の家臣となった経緯及び光秀との関係)
室町幕府の奉公衆三淵晴員の次男(12代将軍足利義晴の落胤との説が有力)。
6歳の時、家格が上の細川家へ養子に入る。
永禄8年、松永久秀と三好三人衆が室町御所を襲撃し、将軍義輝を殺害。久秀らは、義輝の弟の鹿苑院周暠と一乗院覚慶も狙うが、藤孝の働きによって覚慶だけは脱出。
藤孝は、覚慶(足利義昭と改める)の御供をして、将軍家再興に助力してくれる大名を求めて諸国を渡り歩き、越前朝倉家に寄寓した際に光秀と知り合う。
その後、光秀は朝倉家を辞し義昭の家臣となり、藤孝と苦楽を共にするようになる。
永禄11年7月、義昭主従は信長の岐阜に迎えら、9月に上洛、10月には征夷大将軍に就任。
しかし、元亀3年頃、将軍職を傀儡に留め置こうとする信長と義昭との間の亀裂が表面化する。この時、藤孝は、義昭との距離を開けながら、信長との連絡を密にし、天正元年2月には、形勢が明らかになるまで中立的立場で静観するため、口実を設け居城勝龍寺城に逼塞。
そして3月末、藤孝は織田方に寝返る。
信玄没の報せが伝わった後、藤孝は、義昭攻撃のために上洛した信長を出迎えて臣従を誓う。信長は、幕府の重職である藤孝が味方した事は、将軍家と対立する信長を正当化する材料と喜び、藤孝に秘蔵の脇差を与え、京都西南の西岡の地を加増する。
幕府滅亡後、藤孝は光秀と共に摂津・河内を転戦。
両家の交際は親密で、藤孝は嫡子忠興の妻に光秀の娘玉(後のガラシャ)を迎える。
文化人としての名声はあるが、藤孝の軍事能力は高くなく、光秀が頭角を現すと、藤孝はその与力武将として扱われるようになる。
天正6年、藤孝は光秀の支援を受けて丹後に侵攻し、翌年ようやく平定、丹後支配を任されるが、指揮系統では光秀の与力という形にとどまる。
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・午後1時頃、明智勢は近江へ出発。
近江に向う理由。
①織田家の権威の象徴である安土城を落とすため。
②城主不在の城が多い。長浜城の秀吉は中国方面に出征、佐和山城の丹羽長秀や大溝城の津田信澄は摂津に出向いている。
③柴田勝家に対する備え(迎撃態勢構築)。光秀が想定する最大の敵は北陸方面軍を率いる筆頭家老柴田勝家。
④近江の経済力(80万石、兵力2万人)の掌握。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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