2010年11月8日月曜日

明治6年(1873)9月26日~30日 三条・岩倉・黒田・伊藤の説得にもかかわらず大久保は参議就任を固辞  司法大輔福岡孝弟ら司法省幹部、進退を賭けて三条太政大臣に上申  [一葉1歳]

明治6年(1873)9月26日
・三条実美・岩倉具視、大久保利通に参議就任を懇請。
大久保は使節団の失敗の責任を理由に固辞(久光からの心理的重圧も)。
但し、不在中の太政官職制改正は新参参議のクーデタと憤慨。
また、三条は、岩倉に閣議に出てこない木戸説得を懇請。
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9月26日付け大久保の三条、岩倉宛て書簡。
「小臣の心緒かねて御了察もあらせられ侯あいだ、何卒御垂憐、断然御止め下され侯」
(「心緒」を察して就任交渉を中止して欲しいと訴える)。
大久保が「御了察」を求める「心緒」は、島津久光との関係と推測できる。
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29日付け三条の岩倉宛て書簡。
三条は、
「大久保のところ偏に奉命を相祈り申し侯、反覆相考え候ても、同人奉命これなくては千万困難と存じ候、
同人も今日の際一身を国難に投じ候決心に侯わば、内情を忍び、軽重大小を弁じ、縦令旧県云々(久光からの心理的圧迫)の事は如何相成り候とも、廟堂に相立ち申さずては、全国の維持如何と苦慮仕り候、
同人の進退大関係ある事と存知作じ候えば、只管同人の拝命を祈念仕り侯」
と、切羽つまった心境を吐露。
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9月26日
・木村源蔵、谷口起孝が木戸を訪問。
27日、井上馨が、前夜に奥羽旅行から戻ったと挨拶に訪れ、そこに児玉淳一郎も来合わせる。
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9月27日
・木戸、説得に来た伊藤博文に大久保の参議就任が先決と主張。
同日、伊藤は岩倉に2度手紙を送り、大久保の参議就任の必要性説く。
伊藤は大久保の参議起用により、木戸・西郷の3人組みによる政権掌握を狙う。
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木戸は、説得にあたる伊藤博文に、
「大久保拝命の儀第一着」(岩倉宛伊藤博文書翰、9月27日付)、といって動かず
(「昨日御帰事後、早速木戸へ罷越し、なおまた熟議仕り候処、同人においても大久保拝命の儀第一着と相心得おり候趣」)。
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これをうけて伊藤も、岩倉宛て書簡で、
「大久保も参議拝命仕らざる時は、即今重大切迫の事件数々これ有り候なかに、何人と併力与謀して夫々御処分相成るべき哉、ひっきょう両公(三条、岩倉)及び両氏(木戸、大久保)合一、意衷一轍に出で候様と申す事」であり、
「両公及び両氏の合力ならでは何事も前途方向は予め定め難」いであろうが、そのためには「是非大久保拝命これなくては更に其の詮なく」と力説。
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同日付の二通目の岩倉宛書簡でも、
大久保説得は「今一応くらいにては成就覚束ない」ので「百応も御説諭」くださいと岩倉の奮励努力を促す。
朝鮮一条等もこれ有り、大久保ならでは迚も目的ござ無く候」、「大難目前に迫り居候故、旁もって大久保ならでは終に成就仕り難く」と同調する意見を具申
(伊藤の手紙に初めて「朝鮮・・・」が現れる。伊藤にとって三条・岩倉を督励する絶好の口実ができた)。
三条は、「大久保の処、偏に奉命を相祈り申候、反覆相考え候ても同人奉命これ無くては、千万困難と存じ候」(岩倉宛書翰、9月29日付)と大久保を頼むしかない。
大久保の入閣こそが「陰雲冥濛の形勢」(岩倉宛伊藤博文書簡、9月29日付)を克服する頼みの綱とされるが、大久保は容易に首を縦にふらない
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この日、大久保は、三条・岩倉に書簡を送り、「小臣の心緒(シンショ)かねて御了察もあらせられ候あいだ、何卒御垂憐、断然御止め下され候」と、就任交渉中止を訴える。
大久保が「御了察」を求めた「心緒」は、島津久光との関係であると推察できる。
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29日付の三条の岩倉宛て書簡。
「大久保のところ偏(ヒトエ)に奉命を相祈り申し候、反覆相考え候ても、同人奉命これなくては千万困難と存じ候、
同人も今日の際一身を国難に投じ侯決心に候わば、内情を忍び、軽重大小を弁じ、
縦令(タトエ)旧県云々の事は如何相成り候とも、廟堂に相立ち申さずては、全国の維持如何と苦慮仕り候、
同人の進退大関係ある事と存じ候えば、只管(タダスラ)同人の拝命を祈念仕り候」
と、切羽つまった心情を吐露。
「縦令(タトエ)旧県云々の事は・・・」とあるように、大久保が固辞している主な理由は、久光からの心理的圧力と推察できる。
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久光は、西郷ら旧家臣が政府高官に成り上がり、廃藩を実行したのに憤慨し、久光と旧士族団の大挙上京騒ぎとなった。
大久保は「憂とせざること能わず」と困惑。
久光は、政府の近代化政策を弾劾し、人事刷新を迫って、天皇以下を右往左往させる。こうした状況で参議を引き受けるのは、火中の栗を拾う愚行と、大久保は考えた。
ただでさえ使節団の失敗で意気消沈の大久保にとって、この上、旧主の怒りに直面するのは堪え難いことであった。
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大久保の固い壁を崩すべく活動したのは伊藤博文。
伊藤は、ばらばら三条・岩倉・木戸・大久保の間を奔走し、相互の意志疎通と説得にあたる。また、西郷・大久保両方にうけのよい開拓次官黒田清隆を説得し、黒田を動かして大久保拝命への突破口を開くこともこころみる。
伊藤のオルガナイザーとしての能力は十分に発揮され、工部大輔の伊藤が明治政権の中枢にのし上る素地がこのとき作られる
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9月27日
・西郷、三条を訪問、朝鮮使節派遣最終決定の遅れ責める。
28日、三条、岩倉に手紙。岩倉は初めて西郷派遣問題に直面する。
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三条の28日付岩倉宛て書簡。
「朝鮮事件、西郷頗る切迫、昨日御談(ハナシ)申し上げ候通りにつき甚だ痛心」と、伝える。
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9月28
・司法大輔福岡孝弟・三等出仕島本仲道・同樺山資紀、連署して進退を賭けた上申を太政大臣三条に提出。
29日、福岡は、三条に対し陪審規則を作るため京都府知事・参事の捕縛が遅れるのなら、陪審設置の件は返上するとの上申。
10月2日、太政大臣三条、槇村捕縛は奏聞中なので追って沙汰すると司法大輔福岡に回答。
3日、正院、陪審返上を却下。参坐と名付ける。
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(経緯)
9月22日、太政官正院は、京都府の知事・参事を糾問する臨時裁判所では陪審を設けることとし、規則などが定まるまでは、開廷を見合わせる、と司法省に指令。
既に、司法省からの召喚状により、京都府知事長谷信篤、参事槇村正直は、公務出張のように、アメリカ四番館(太平洋郵船)の外輪汽船で、神戸から横浜へ向かったという。
召喚状の出ているもう一人京都府大属(庶務課長・典事(八等官)から降格)の関谷生三は、7月13日に京都裁判所において、小野組転籍に関して「転籍拒否」についての証拠隠滅したと見做され、「取り調べの都合もある」として裁判所留めにされたままである
(関谷は、提出された転籍願を紛失したのを、願いが出ていないと報告したため、結果的に京都府が転籍を邪魔したという誤解を招く結果となった、と主張)。
その後、関谷は、罪人として唐丸籠に入れられ、中山道を護送、東京到着後は、小伝馬町の監獄署に預けられることになる。
そこで司法省は、長谷信篤・槇村正直についても、東京到着後は、直ちに捕縛することを、太政官正院に請うが、正院は法廷成立までは拘引を見合わせるよう指令。
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9月28
・ボアソナアド、名村泰蔵と共にマルセイユ発。
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9月30
・岩倉、西郷を訪問。切迫の実情を知る。
ここにきて、朝鮮派遣問題処理のためにも大久保参議就任が必要となってくる。
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9月30
・この日付け大久保利通の岩倉具視宛て書簡。
三条・岩倉の執拗な懇請、伊藤の精力的な説得工作、黒田の熱心な説得も、大久保の固い辞退の意志を動かすことができない。
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「明日木戸氏え条公御同道御出向成され候筋御決定の旨拝承、此の上なき御都合と存じ奉り候。就ては同氏見込是非御聞取相成り侯て、過日来再三申上候通り、夫を根軸として速に諸事御運相成り候様希望する処に侯。申上げ候も恐入り奉り候えども、あく迄も同氏え厚く御頼談、是非赤心吐露仕り侯迄は至誠御貫徹相成り候様、御配慮専要と存じ奉候。」
「子臣の存慮は再応閣下方へも申し上げ置き候通りにて甚だ当惑」と、参議を受ける気持ちはないと伝え、「兎角木戸先生を根本にして御一定これあり侯外、見込これ無き旨」という。
木戸を核に政府がまとまることが肝要というのが大久保の戦略。
「木戸先生」と、木戸への冷ややかな感情を見せる。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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