明治6年(1873)10月
この月
・銀座煉瓦街の一部が完成(前年の大火で壊滅していた)。
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・ランボー、ブリュッセルで「地獄での一季節」を印刷し、見本を友人に寄贈。印刷代金不払いのため未出版となる。
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・エンゲルス「バクーニン主義者の活動」出版。
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10月1日
・司法大検事・警保頭島本仲道、司法大輔福岡孝弟に対し尾去沢銅山事件に関して、井上馨捕縛を申入れ。
福岡孝弟は、小野組転籍事件に関し「陪審の設置伺」を取消し、長州閥の司法介入を牽制しておき、一挙に汚職摘発する決意を固める。
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10月2日
・岩倉、各参議を個別に招いて意見を求める。
この時、伊藤博文は大隈に新任参議(後藤・大木・江藤)を解任して大久保を就任させたく、同意であれば三条・岩倉にその旨伝えるよう依頼。大隈は賛同。
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伊藤の木戸宛報告書簡:
この日、伊藤は岩倉邸を訪れており、退出する大隈参議に対し、「是非新参を廃し、大久保を出し候方然るべく」と思う、「同人も同意」であればその旨を三条・岩倉に「屹度(キット)論迫」してほしいと依頼。
大隈も、それ以外には「妙策」がないとの意見に「雷同」した。
三条・岩倉が、「随分姑息論」なので、「私も充分の見込みは御座なく」見通しは立たないが、「乗り懸り候船なれば、先ず溺れ候迄は乗り抜く工夫をするしかない、と報告。
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ここに見える伊藤の戦略の狙いは、・・・
江藤を含む新任参議の追い落としであり、大久保「拝命」はその布石、「朝鮮一条等」はほんの付け足しにすぎない。
伊藤の「工夫」の一つは、朝鮮使節問題の利用である。
西郷の「切迫」論に「痛心」して動揺する三条・岩倉を更に揺さぶり、また、西郷の身上を気遣い、かつ廟堂の関心を朝鮮から樺太に転換させたい黒田をも動かすことができる。
危機感を煽られる三条・岩倉に「姑息論」を捨てさせ、大久保を起用し、新任参議を追い出すことで、井上(尾去沢銅山事件)・槇村(小野組転籍事件)を救済できると考えた。
伊藤の政治工作により、朝鮮使節問題は西郷の意図とは異なった方向に流され始める。
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10月2日
・太政大臣三条実美、司法大輔福岡孝弟の9月29日付け上申に対し、京都府参事(槇村正直)捕縛については、奏問中で追って御沙汰あるべしとの指令を発す。
3日、太政官正院法制課は、9月30日付けの司法省による(長州藩の司法介入を牽制するための)「陪審設置何の取消し上申」を却下すべきとする。
司法省が、西欧で行われている一般人民から選出する陪審につき、その効用を云々するのは、正当の説とは言えない。
但し、「陪審」と称することが不相当なら、「参座」と改めるべきである、とする。
9日、「参座規則」公布。
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10月3日
・津田左右吉、誕生。
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10月4日
・西郷の「切迫」論と伊藤の「工夫」が、朝鮮使節問題を急浮上させ、三条は、閣議で論議すべき問題点を列挙し岩倉に示す。
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「使節は国辱を雪ぎ、国権を張り、彼(朝鮮)をして旧交を継ぎ、隣誼を修めしむるに在るか、将(ハ)た又彼をして遂に我が附庸国たらしむるに在るか。
別に又他の外交上に関し、深謀遠慮する所あるか、或いは我が内治上に関し、一時の政略に出づるか。
使節は戦争を期するの意か、又は戦争を期せざるの意か、或いはまた戦争を期せざるも、已むを得ざるときは、戦争を開くの意か。朝鮮と戦争を開くの利害如何。・・・戦争を開く上の目的は、邦土の必取を期するか。又は彼を制するに止まるか」
審議にあたっては、「西郷参議より前段件々共の目的を具陳すべき様」にしたいとする。
「大久保申し立て云々、実に処分するに良策これなく困却仕り候、併し吾も至誠を以て説き候わば貫徹致きざる筈もこれなく候」と、三条は岩倉に書き送る。
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10月7日
・片岡健吉、海軍中佐となる。
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10月8日
・大久保利通、岩参議就任承諾。
①三条・岩倉に途中で変節しない旨の約定書を要求
(10日、大久保に手渡し。大久保の請書「ただ命にただ従い」尽力する旨約束。)。
②外務卿副島の参議就任と工部大輔伊藤の閣議列席、
を条件とする。
長男・次男に遺書を書く(閣議決定を覆す、盟友西郷との対決、久光との確執)。
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この日朝から、三条と岩倉は、大久保を岩倉邸に呼び説得、ついに口説き落とす。
岩倉は大久保に手紙を送り、「先づ以て企望を達し侯次第にて初めて安心せしめ侯」と安堵の心境を表白。
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この日付け大久保利通の岩倉具視宛て書簡
「御書面相願候義、はなはだ差し過ぎたる事にて、思食(オボシメシ)いかがと恐縮仕候えども、小臣も畢竟前途御大事と存じ込み候より、偏に入念の趣意を憚りを顧みず申上げ候事に御座候。」
大久保は、予め使節派遣不可の大臣の書付を要求(現在この書面は残されてはいない)。
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翌9日、
三条が、「大久保へ渡し候書取、別紙相認差出候、尚御点削(添削)相願申候、宜御取計給度」と岩倉に書き送る(三条が書いた大久保参議就任にあたっての約束事が、岩倉経由で大久保に渡される)。
翌10日、
大久保は、「御書面、拝読仕り侯、今般小臣進退につき御趣旨相伺候処、確定の御目的詳細示し聞され、判然了得仕り候。此上は御旨趣を遵奉し、惟命惟従謭劣(センレツ)を顧みず、砕身仕るべく候」と参議就任を承諾。
同時に大久保は、西郷と主張を同じくする副島外務卿もまた参議に任ずるよう求め、大久保は10月12日、副島はその翌日に、正式に参議に任じられる。
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大久保に告知された「確定の御目的」は・・・:
「使節の儀既に御内決あり、決して変動すべからず、然りといえども時期は延引致したし」と、西郷に出発延期をもとめること。
理由は、「君(天皇)に代るの使節殺されて……〔開戦するとすれば〕如何せん海軍未だ備わらず、所詮戦う難し……宜しく急に其の人を撰んで米欧に派出し、堅牢の小軍艦数艘を求め、急に海軍を備え、然して後発途すべし」と、開戦に備えて海軍充実の時間稼ぎのため。
大久保には西郷に延期を納得させる役割が期待された。
また、大久保が、請書に「御旨趣を遵奉」し「ただ命にただ従い」と明記したことは、大久保は、三条・岩倉の命令に従うのみであり、自分の意志で行動するのではないと宣言したことになる。
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大久保の二つ目の条件(外務卿副島種臣の参議任命と工部大輔伊藤博文の閣議列席)。
大久保の参議任命は12日発令、しかし、その日に副島は任命されない。
大久保は、ただちに「御約束の相違いたし侯を小生に於ては了解いたしかね侯」と、岩倉に抗議し、副島の参議任命は翌13日となる。
11日付の西郷から三条に宛てた書簡に「副島氏の一条何も異存御座なく侯」とあり、西郷は副島任命について三条から打診されている。
西郷は、のちに西郷派といわれる副島起用に関しては、積極的に動いていない。
この時期、大久保も副島も、西郷派・反西郷派のいずれとも決まっていなかったということ。
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大久保の覚悟(日付、宛先不明の手紙、家族宛てと考えられる):
「皇国危急存亡に関係するの秋」、逃げるのは「本懐」ではない、「断然当職拝命、此の難に斃れて以て無量の天恩に報答」すべきと「一決」した。
しかしそれは「目前の事故をもって一朝にして軽挙するの意にあらず、十年乃至二十年を期して大に為す事あらんとす」、「小子にあらざれば外に其の任なく、残念ながら決心いたし候事に候」、「小子が憂国の微志を貫徹して、各奮発勉強、心を正し知見を開き、有用の人物となりて国の為に尽力して、小子が余罪を補」うように。
一旦決定した閣議決定を覆し、西郷らと対立することになる重大な決意をした覚悟が窺える。
この時期では、大久保は西郷との対立をそれほど深刻には考えていなく、むしろ島津久光からの敵意(西郷でさえ暗殺の危険の中にいた)であった、という説もあり。
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「★一葉インデックス」 をご参照下さい。
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