2010年11月23日火曜日

東京 安藤坂 牛天神 中島歌子歌碑 一葉が通った萩の舎跡 荷風が生まれ育った土地

東京、樋口一葉と永井荷風の旧跡を、飯田橋~安藤坂~牛天神~萩の舎跡~伝通院~永井荷風生育地跡~富坂~礫川公園~後楽園のルートで歩きました。
牛天神は、今年のウメの頃にも来ています(コチラ)
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安藤坂(坂下)


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安藤飛騨守の上屋敷があったことから名付けられたと云う。
(この看板は、実は坂上側にあります)
この看板ある辺りの、道路を隔てた反対側に永井荷風の生まれ育った土地があり、荷風は、のちの作品の舞台として、安藤坂や牛天神を使っています(下記)。
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牛天神

頼朝が当地にあった岩に腰をかけて休息した時、夢の中に牛に乗った菅原道真が現れ吉報を告げられた。やがて、それが実現し、頼朝はこの岩を奉り、牛天神を創立したという。
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中島歌子歌碑
(中島歌子については下記)
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萩の舎跡
中島歌子が主宰する歌塾
樋口一葉は14歳でここに入門し才能を発揮する。
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「★東京インデックス」 「★樋口一葉インデックス」 「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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明治16年(1883)12月23日
一葉(11歳)は、青海学校小学高等科第4級を主席で修了するが、「女子にながく学問をさせんは、行々の為よろしからず」との母の意見で、青海学校を退学。以降、学校教育は受けず。
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「十二といふとし学校をやめけるがそは母君の意見にて女子にながく学問をさせなんは行々の為よろしからず針仕事にても学ばせ家事の見ならひなどさせなんとて成き。」(明治26年8月「日記」)。
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「しかるべからず猶今しばし」との父親の意見もあったり、妹くに子によれば、青海学校の教師が、さらに学ばせるようにと勧めに来た事もあったが、母親の考えが尊重され、「死ぬ斗(バカリ)悲しかりしかど学校は止になりにけり」となる。
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その後
明治19年(1886)8月20日
一葉(14歳)は、父則義の治療医の遠田澄庵(麹町飯田町)の紹介で、小石川区水道町14番地(通称安藤坂)の中嶋歌子の歌塾「萩の舎」にテスト生として入門、20日から当座稽古に通う。
最初は毎週金曜日の初心者の稽古に出ていたが、10月からは土曜日の一般稽古に加わる。
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一葉が西黒門町の家から「萩の舎」まで通うには、湯島の切通坂を本郷台へ上り、本郷3丁目を経て春日町へ下り、さらに急な富坂を上る。
富坂の西側一帯、旧水戸藩邸の跡は陸軍砲兵工廠(今の東京ドーム)。
女の子の脚で30分~40分の距離。
一葉は、「父君も又我が為にとて和歌の集などを買ひあたへたまひけるが終に万障を捨てゝ更に学につかしめんとし給ひき」(「塵之中」明26年8月10日)との父の理解と期待に応えようと気負う。
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一葉は、入門以来、没するまでの10年間、萩の舎との関係に濃淡様々ではあるが、完全に切れることはなかった。明治23年5月~9月は萩の舎の内弟子となって住み込んだことがある。
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中嶋歌子:
弘化元年(1844)12月14日、武蔵国入間郡森戸村で絹織物商中嶋又右衛門、幾子の長女として誕生。
母の実家は、江戸店持ちの豪商で、父又右衛門はその江戸店を預かって郷里との間を往来していたが、のち江戸に定住し、小石川安藤坂の池田屋を買収して旅館も経営する。
池田屋が水戸藩の郷宿でったことから、歌子は文久元年(1861)18歳で、水戸藩の尊皇攘夷の急進派林忠左衛門と結婚。
3年後の元治元年(1864)、天狗党の乱で夫が没し、歌子も一時投獄される。
21歳で未亡人となった歌子は、江戸の実家に戻り、加藤千浪(萩園)の門に入り江戸派の和歌と国学を修業。書は千蔭流という。
明治10年、千浪の没を契機に、自ら歌塾「萩の舎」を開く。
「萩の舎」の名は、その庭に萩を多く植えて愛しんでいたことから名付けられた。

歌子は、宮中御歌掛で御歌所初代所長となる高橋正風の援助を受け、皇族、貴族、上流階級の女性たちを門下に集める。
一葉の入門時は、歌子45歳の全盛時代で、門下には、梨本宮妃伊都子、鍋島侯爵夫人栄子、前田侯爵夫人朗子、綾小路子爵姉妹、中牟田子爵令嬢などが名を連ね、総勢千人余の門人がいた。
毎週土曜日の稽古日や月1回の例会には、黒塗りに金の家紋の入った名家の人力車が、門前に並んだという。
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永井荷風と安藤坂、牛天神
「安藤坂は平かに地ならしされた。富坂の火避地(ヒヨケチ)には借家が建てられて当時の名残の樹木二、三本を残すに過ぎない。水戸藩邸の最後の面影を止めた砲兵工廠の大きな赤い裏門は何処へやら取除けられ、古びた練塀(ネリベイ)は赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであったあの水門はもう影も形もない。・・・
「夕碁よりも薄暗い入梅の午後牛天神の森蔭に紫陽花の咲出る頃、または旅烏の囁き騒ぐ秋の夕方沢蔵稲荷の大榎の止む間もなく落葉する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天の階(キザハシ)に休めさせる。その度に堂内に安置された昔のままなる賓頭盧尊者(ビンズルソンジャ)の像を撫ぜ、幼い頃この小石川の故里(フルサト)で私が見馴れ聞馴れたいろいろな人たちは今頃どうしてしまったろうと、そぞろ当時の事を思い返さずにはいられない。・・・」(「伝通院」明治43年7月)
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「つゆのあとさき」のラスト
主人公の君江は、友人の京子のかつての旦那で落ちぶれた川島と出会う。
川島は、自殺することになるが、その直前に君江に語りかける。
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「成程小石川の方がよく見えるな。」
と川島も堀外の眺望に心づいて同じやうに向を眺め、
「あすこの、明いところが神楽阪だな。さうすると、あすこが安藤阪で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。おれもあの時分には随分したい放題な真似をしたもんだな。併し人間一生涯の中に一度でも面白いと思ふ事があればそれで生れたかひがあるんだ。時節が来たら諦めをつけなくつちやいけない。」
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