2010年11月1日月曜日

明治6年(1873)9月16日~25日 木戸孝允、左半身不随となり伊藤博文が代理人を務める。 木戸は京都府幹部を攻撃する司法省(江藤)に激怒

*明治6年(1873)9月16日
・木戸孝允、軽い脳梗塞のため左半身が不自由となる。
伊藤博文が木戸の代理人の役割を果たす
この日、木戸は、早朝から福沢諭吉を訪ね、その後、岩倉具視を訪ねる。
夜、訪れた山本覚馬と、京都府知事・参事の裁判・「陪審」のことなどについて話す。
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「今夕より脳中平生ならず、頭痛甚だ烈し。山本に至る。途中人力車石に触れ、脳中に響くを覚ゆ。三日前より俄に安眠あたわず」(「木戸日記」同日条)。
木戸は人力車の事故が原因としているが、2年後にも同様の状態に陥ることもあり、軽い脳梗塞の発作と考えられる。
しかし、麻痺は左半身に止まり、言語能力も無事であった。

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9月18日
・京都府権典事木村源蔵、木戸孝允を訪問。
20日、木村と山本覚馬が木戸を訪問。
夜、江藤参議が木戸を訪問。恨み言を並べる。
この日、伊藤へ書簡、裁判所廃止をいう。
21日、木村と山本が木戸を訪問。
夜、京都府七等出仕谷口起孝が来訪。京都裁判所の横暴を訴える。
夜、伊藤へ書簡。
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20日付け、木戸孝允の伊藤博文宛て書簡
「臨時裁判所は、京都裁判所へ加担して偏り、ただひたすら威権をもって、京都府を圧倒しようとたくらみ、正院もまた裁判所へ偏っているといえる。
いっそ裁判所のようなものは、廃したほうが天下のため、人民のためになると申すべし。
旧幕時代の暴政においても、長谷信篤や槇村正直のように身分ある官員を、このように取り扱ったことはない」
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21日付け木戸の伊藤博文宛て書簡。
「裁判所は、はじめから暴断にして、理非曲直を裁判する主意は、いささかもないといえる。
臨時裁判所をひらくときには、真に裁判の体裁を立て、かんじんの陪審員には、京都府と京都裁判所いずれにも関係のない者をえらぶように、なるべく早く、大隈重信を御論破いただきたい。
なお司法より、槇村正直を捕縛する伺いを、正院へ差し出すという。
明日にでも暴論をおこし、裁判において暴威をふるうやもしれず、国にとって不幸、人民にとっても、この上なく不幸なことと、嘆息つかまつる」

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9月19日
・岩倉具視、フランス駐在公使鮫島尚信に礼と帰国後の政情を伝える手紙。
岩倉の現状における関心事は、
①大蔵省の井上・渋沢辞任と鉄道頭井上辞任。
②久光上京の混乱。
③「処々の一揆も片付き、麦米とも豊作、先ず以って平穏」。
④台湾は「即今着手に至るまじく」、朝鮮も「是れ以って即時の事にては之れなくや」と急務と見ず。ロシア問題は重要視。
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「廟堂上の事御案じの通り紛紜も之れあり」と、政府を巡る混乱2件をあげる。
①「井上渋沢及び工部井上等辞職、是には云々の義も之れあり甚だ心配」、
②「従二位久光殿義についても定めて御懸念と存じ侯ところ、随行門地家旧藩士二百五十人ばかりのところ、二百人は久光説得にて帰県相成り、先ず以て人心平穏、しかし同卿(*久光)進退の義については頗る入込候次第之れあり」とする。
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民政関係については、
③「内地のところ、当時は処々の一揆も片付き、麦米とも豊作、先ず以て平穏」と楽観し、「新令百出煩に堪えずの苦情之れあり候趣、何卒日本相応開化の等を得たきもの」と、性急な改革に若干の批判をこめて簡単に触れる。
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対外問題については、
④「台湾始末紛紜御評議も候えども、多分即今着手には至るまじく」(正院での評議はあったが当分着手しないであろう)、
⑤「朝鮮征伐御互いかねて承知の通り真に御評議之れあり候えども、是れ以て即時の事にては之れなくや」、
⑥「樺太魯国住民追々暴動の件之れあり、右は捨置き難き次第にて専ら御評議中に御座候、是れは屹度談判も相始まり必ず始末遊ばさる事と推察」。
正院の外交論議は、「専ら」この問題に集中し近くロシアとの談判も始まるはずと重大視している。
⑦「支那事件、副島尽力の義略々(ホボ)承り候・・・未だ委細承知いたさず」(副島国権外交が成果をあげたようだが詳細は知らない、と簡単に扱う)。
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この時点で岩倉が重要視しているのは、大蔵省紛議、島津久光騒動、外交問題の樺太問題くらい
(朝鮮問題=西郷派遣問題は重要視していない)。

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9月20日
・1873年世界恐慌、ニューヨーク波及。ニューヨーク株式取引所閉鎖。
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9月21日
・大久保利通、関西旅行(休暇)より帰京。
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9月22日
・木村源蔵が木戸孝允を訪問。その後、伊藤博文、木戸を訪問。政府への復帰要請。
23日にも木村源蔵が訪問。
24日、大久保利通が、3日前に帰京したといって挨拶に訪れる。続いて、児玉淳一郎、西岡逾明、木村源蔵、が訪れ、臨時裁判所のことを話題にする。
その後、伊藤博文も訪れ、大久保の参議就任について話し合う。
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9月24日付け「木戸日記」
「博文より近況を巨細了承せり、岩倉もまたしばしば博文を訪れしという」とある。
この日、伊藤は、木戸を訪ねる前に、岩倉邸に寄り、3日前に関西旅行から帰った大久保と会う。
伊藤がオルガナイザーとなり、三条、木戸、岩倉、大久保の間を調整

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9月22日
・伊藤博文、木戸孝允へ報告。
岩倉の話では黒田が大久保説得を引受けたとのこと。また、黒田は、むしろ西郷による大久保説得がより効果的だろうとのこと。また、大久保が参議になれば西郷も喜び、佐賀・土佐の参議からの引き離しも可能と判断する。
西郷抱き込みが、岩倉・黒田・木戸・伊藤4者共通の了解事項となっている。
同日、木戸、伊藤へ書簡。大久保の参議就任は留守政府へ対抗する意味で賛成と述べる。
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9月25日付け伊藤の木戸への報告書簡。
「昨夕は御病臥を顧みず長談に及び恐入り奉り候。今朝岩公又々帰路枉駕これあり侯に付、昨夕申し上げ候件々老台において更に御意見これ無き趣相話し候処、殊の外喜悦の容形に御座候。・・・昨夕の御主意に御座候得ば(岩倉は)別段御異議もこれ無き事に付、全体の施設方法に至り候ては、篤と大久保との熟議を幾重にも渇望仕り候。」
と、木戸の意を受けて岩倉右大臣と調整を行なったことを報告。

伊藤は、岩倉から黒田が大久保説得の役割を引き受けたと知らされる。
岩倉の説明では、
「黒田の論」によれば、「大久保より今一層西郷と熟議に及び候えば、或いは其の詮これなくとも申し難くと申し侯由、且つまた老台(木戸)、大久保など列職なれば、西郷も大いに慰するところ之れあるべく、内心不平の生ずるところ、参議中右手に商業を扱い、左手で政柄を執る等は、いわゆる風俗を破り礼義を擾(ミダ)すと云うの一端にもこれあるべきかのロ気に御座候趣」であるという。

つまり、岩倉が黒田から聞いた話では、大久保が今一層西郷とじっくり話し合えば効果がないわけではなかろう。
また木戸と大久保とが「列職」(揃って参議に出仕)すれば、西郷も大いに心喜ぶはずである。西郷の「内心不平」は、右手で商売、左手で政治をするような参議がいるのがけしからんという「口気」だからである、という。

大久保を正院に送り込めば、西郷を他の参議連から引き離すことができると、岩倉・黒田間で話し合われ、それが伊藤に知らされ、さらに木戸にも伝えられている。

この書簡を信用すれば、従来の明治6年政変観(征韓論の西郷と非征韓論の大久保との対立と西郷の追放)が根底から揺らぐことになる。
この伊藤書簡によれば、大久保起用の狙いは、西郷との対抗ではなく、むしろ西郷を味方に抱き込む効果を期待したものである

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同日の、木戸の伊藤宛ての返書。
前日の伊藤の訪問について、「縷々御説話、近況の大略をも了得仕り、かえって病苦も失忘いたし申し候」と、代理人としての伊藤の行動に満足している事を伝えている。
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「★一葉インデックス」 をご参照下さい
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