2010年11月28日日曜日

弘治2年(1556)5月~8月 稲生の戦い 織田信勝(信行)・林秀貞・林美作守(通勝)・柴田権六(勝家)謀反 [信長23歳]

弘治2年(1556)5月
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この月
・松平元信(15、家康)、岡崎へ一時帰省し、亡父広忠の法要を営む。
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・久我通興家臣の山国庄入部に際し、松永長頼が警護のため随行。
この月、長頼は、宇津氏討伐のため丹波入り。  
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5月2日
・この日付、三好長慶の裁許状。
幕府の裁許状と異なっているが、「状件の如し」の書止文言のように直状形式で、長慶自ら最高権力者として発給している文書。
将軍を追放し、武力で幕府機構を破壊し、幕府権力を前提としない新権力体系の頂点に立つ長慶の自負がよく現れている。
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「禁裏御料所主殿寮(トノモンリョウ)領一(市)原野・二瀬・野中三ケ村の事、往古以来異儀なきの処、定使瑞範の手より買得すと号し近年黒瀬与介入道押領の条、種々調略を廻らし彼の瑞範入道を搦め捕へ置かる。
御訴訟により黒瀬を召出し、糺明の上を以て瑞範の儀考(拷)問せしむるの刻(キザミ)、彼売券を認め謀判を加へ沽却せしむるの旨白状紛れなし。
但し入れ置く借物は何時たりと雖も本銭返弁次第在所返し渡すの趣、所持の一札これを出し訖んぬ。
所詮、瑞範に於いてはこれを討たれ、黒瀬に至っては帰状の是非に及ばず所々永領の造意其の咎遁れ難きの間、科銭を出さしめ競望を退けらるゝの上は、三ケ村の事元の如く全く仰せ付けらるべき事肝要候なり。
仍て状件の如し 
弘治弐 五月二日 (三好)長慶(花押) 壬生官務殿」(「壬生家文書」)
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弘治年間(1555~58)頃の三好長慶の勢力範囲:
山城・摂津・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐7ヶ国と播磨東2郡・伊予の東2郡。
長慶自身は山城・摂津・丹波3ヶ国の要の位置にる芥川城を本拠とする。
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武将の配置
山城:細川氏綱(淀城)。摂津:三好長慶(芥川城)。西摂津・東播磨:松永久秀(滝山城)。丹波:松永長頼(八木城)。和泉:(不明)。淡路:安宅冬康(洲本炬口タケノクチ城)。阿波・伊予東2郡:三好義賢(勝瑞城)。讃岐:十河一存(十川城)。
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この頃、同等の版図を持つのは、南関東の北条氏と、天文21年(1552)4月に足利義輝から因幡・伯耆・備前・美作・備中・備後・出雲・隠岐8ヶ国守護職を補任された尼子晴久くらい。
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5月26日
・信長、信行を擁立して「逆心に及ぶ」との風説が高まった「信長公の一のおとな」林兄弟(林佐渡守秀貞・林美作守)の居城那古野城を訪問。
林美作守は信長に自害を強要しようと企てるが、秀貞が反対し信長は事なきを得る。
一両日後、林兄弟は改めて敵対を表明。
これに応じて林を寄親とする荒子城・米野城・大脇城が信長に敵対。(「信長公記」首巻)
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この間、守山城の安房守秀俊(信長弟)が若衆を重用したことで家老角田新五と不和になり、角田により暗殺される。
角田は、罪を問われることもなく、信長の家老林秀貞の保護を受ける。
信長は浪人している叔父の孫十郎信次を赦免し守山城主とする(後、信次は伊勢長島で戦死)。
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これより先、信次家臣が守山城に立籠り、信長は飯尾近江守らに包囲させ、信行方からは柴田勝家らが木が崎口を固める。
この中で、佐久間信盛が城衆を説得、信長弟の安房守秀俊を城主に迎えることで開城が成立。
佐久間はこの功により守山領内で100石を与えられる。(「信長公記」首巻)
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6月
・長尾景虎(27)、出家を決意し、高野山に向かう。
この機に乗じて箕冠城(中頸城郡板倉町山部)城主大熊朝秀が武田晴信に内通し謀反。
長尾政景の説得と、大熊の謀反を聞いた景虎は一転出家を断念、春日山城に戻り、大熊を駒帰(西頸城郡青海町)に破る。(駒帰の戦い)
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・三好長慶、堺の顕本寺で亡父元長の盛大な25回忌を行なう。
帰途、兵庫へ船を回し滝山城(神戸市葺合区布引滝の南側)に松永久秀を訪れる。
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6月5日
・吉川軍(毛利)傘下となった福屋隆兼、先鋒隊として益田領へ進軍。
益田藤兼、宇津河要害(宇津川城)で対戦。
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6月5日
・ヴォーセル休戦条約
アンリ2世とカール5世、5年間休戦協定。交渉はマルシュで始まりヴォーセルで取りまとめ。
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6月24日
・松平元信、三河大仙寺に寺領を寄進(家康の文書の初見)。
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6月24日
・アントワープの城門「生け垣の説教」(野外説教)に5千人が集まる。7月には2万人に膨れ上がる。
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7月
・この頃、倭寇が盛んに明国沿岸を侵略。
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7月10日
・松永久秀、居城摂津滝山城へ三好長慶を招待。
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7月31日
・イグナティウス・デ・ロヨラ(65)、没(1491~1556)。イエズス会会員1千人。
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8月
・武田方の真田幸隆、村上氏の残党が立て籠もる埴科郡雨飾城を苦戦のうえ攻略。
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・ネーデルランドのカルヴァン派、運動が高揚し、聖像破壊を叫ぶ者が各地の教会を襲い略奪行為を繰り返す。
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夏頃
・夏、木下藤吉郎、信長の草鞋取りとなる
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夏頃
・夏、信長、濃姫を離縁。
濃姫は、母方の明智城に身を寄せるが、9月、義龍に攻められ城主光安自害し、濃姫も没す
(但し、諸説あり)。
8月初旬、
・斎藤義龍の兵3千、明智城主の明智光安を攻撃。
8月26日、光安討死。濃姫死亡。
明智光秀(29)、明智城を追われて諸国遍歴する。
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8月21日
・三条西公条ら、大覚寺にて和漢千句。
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8月22日
織田信勝(信行)・林秀貞・林美作守(通勝)・柴田権六(勝家)、謀反
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尾張末盛城の織田信勝(信行、信長次弟)、斎藤義龍に扇動され謀反。
那古野城を預かる信長宿老林秀貞・弟美作守・柴田権六が、これに呼応。
美作守(通勝)500、信長直轄地の篠木3郷(春日井戸市)を押領。
22日、信長勢佐久間盛重(大學)500余、名塚(西区)に砦を築く。
23日、信勝の名代柴田勝家1千が末盛城より、林美作守(通勝=秀貞の弟)700が那古野城より、出陣。名塚砦に迫る。
24日、稲生の戦い
信長700、名塚砦救援。
両軍は、清須の東5Kmの稲生原で衝突。
柴田隊は東から、林隊は南から、信長軍に向かう。
信長はわざと70mほど退き、まず柴田隊に突進。
白兵戦の中で、佐々孫介(成政の兄)たちが討死。
「爰(ココ)にて、上総介殿大音声を上げ、御怒りなされ候を見申し、さすがに御内の者共に候間、御威光に恐れ立とゞまり、終に逸れ候キ」(「信長公記」)。
柴田の兵は総崩れになる。
次に、信長は林隊に向かい、信長自身が槍を取って主将林美作を討ち、勝敗は決す。
前田犬千代(16)奮戦。信長、大勝。信行側戦死450。
信長、その日のうちに清洲に帰陣。
信行勢は末盛・那古野に籠城、信長は両城の城下を焼き払う。
25日、信長、母土田御前(信勝と同居)の助命嘆願によって信勝・林(秀貞)・柴田の謀反許す。
翌弘治3(1557)年11月2日、信勝誅殺。
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林秀貞:
信長の筆頭家老、西春(西春日井郡西春町)近辺に領地を持ち、荒子(中川区)の前田氏など大勢の与力を従える実力者。信光没後、信長から那古野城を預けられる。
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佐久間盛重:
信秀没後、信行に随従。この頃は信長配下として重用される。後、桶狭間で戦死。
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8月23日
・長尾景虎、武田氏に寝返り叛いた重臣大熊朝秀を討伐。朝秀、甲斐に逃亡、晴信家臣となる。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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