2010年11月27日土曜日

東京 伝通院(でんずういん) 永井荷風育成地 富坂 東京都戦没者霊苑 礫川公園 春日局の像

安藤坂~伝通院~富坂~後楽園のルートで、樋口一葉と永井荷風に関係する旧跡を巡る小散歩の後半です。
前半はコチラ。
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伝通院
家康の生母お大の方の菩提寺
清河八郎が関東で有志を集めた新撰組旗揚げの地でもあります。
「滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院・・・」(永井荷風「伝通院」)
荷風は、「でんつういん」と呼ばないで、「でんずういん」とルビをふってます。

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残念ながら山門は修復工事中
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清河八郎の名も勿論あります。
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安藤坂から上ってくる伝通院前の道
荷風は、伝通院は「小石川という高台の絶頂」にあるといってます。
但し、安藤坂は市電を走らせるために、荷風の言う様に「地ならし」されたそうです。
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伝通院から永井荷風の生育地跡に行く途中に、川口アパートメント
川口松太郎さんが建てた昭和40年代当時の高級マンション
有名スターなどがお住まいだったようです。
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その少し先に永井荷風生育地跡の説明板
下の写真の左側の坂を上がったところ辺りとのことです。

荷風の生家は父久一郎が、没落階級(旧幕の御家人や旗本)の空屋敷が売物になっていたのを3軒ほどまとめて買い取り、広い邸宅を新築したもの。
邸内には古井戸が二つあり、一つは埋められ、残る一つとその傍の柳の老木は、幼い日の荷風の恐怖の対象であったという。

下段に、この土地に関する荷風の文章を掲載してあります。
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富坂を下りたところに東京都戦没者霊苑
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礫川公園と春日局の像
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「★東京インデックス」  「★寺社巡りインデックス」 をご参照下さい。
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■荷風の文章(改行を施す)
(「狐」、「伝通院」より)
「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売物となっていたのをば、その頃私の父は三軒ほどを一まとめに買い占め古びた庭園や木立をそのままに広い邸宅を新築した。
私の生れた時にはその新しい家の床柱にもつやぶきんの色のややさびて来た頃で、昔のままなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の蔭はいよいよ暗くなっていた。
その最も暗い木立の奥深いところに昔の屋敷跡の名残だという古井戸が二ツもあった。
その中の一ツは出入りの安吉という植木屋が毎年手入する松の枯葉、杉の折枝、桜の落葉、あらゆる庭の塵芥を投げ込み、私が生れぬ前から五、六年もかかって漸くに埋め得たという事で。・・・

・・・井戸の後は一帯に、祟りを恐れる神殿の周囲を見るよう、冬でも夏でも真黒に静に立っている杉の茂りが一層その辺を気味わるくしていた。
杉木立の後は忍返しをつけた黒板塀で、外なる一方は人道のない金剛寺坂上の往来、一方はその中取払いになってくれればと父が絶えず憎んでいる貧民窟になっていた。
もともと分れ分れの中屋敷を一つに買占めた事とて、今では同じ構内(カマエウチ)にはなっているが、古井戸のある一隅は住宅の築かれた地所からは一段坂地で低くなり家人からは全く忘れられた崖下の空地である。
母はなぜ用もないあんな地面を買ったのかと、よく父に話をしておられた事がある。
すると父は崖下へ貸長屋でも建てられて、汚い瓦屋根だの、日に干す洗濯物なぞ見せつけられては困る。買占めて空庭にして置けば閑静でよいといっておられた。・・・

・・・年の暮れが近づいて、崖下の貧民窟で提灯の骨けずりをしていた御維新前の御駕籠同心が首をくくった。
遠からぬ安藤坂上の質屋へ五人組の強盗が押入って十六になる娘を殺して行った。
伝通院境内の末寺へ放火をした者があった。
水戸様時分に繁昌した富坂上の辰巳屋という料理屋がいよいよ身代限りをした。
こんな事をば出入の按摩の久斎だの、魚屋の吉だの、鳶の清五郎だのが、台所へ来て、交る交る話をして行ったが、しかし私には殆ど何らの感想をも与えなかった。・・・」(「狐」明治41年11月稿)
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「十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。
その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って飯田町に家を借り、それから丁度日清戦争の始まる頃には更に一番町へ引移った。
今の大久保に地面を買われたのはずっと後の事である。・・・


「寺院と称する大きな美術の製作は偉大な力を以てその所在の土地に動しがたい或る特色を生ぜしめる。巴里にノオトル・ダアムがある。浅草に観音堂がある。
それと同じように、私の生れた小石川をば(少くとも私の心だけには)あくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの伝通院である。
滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である
伝通院の古刺は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。
小石川の高台はその源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗わせ、水道端から登る幾筋の急な坂によって次第次第に伝通院の方へと高くなっている。
東の方は本郷と相対して富坂をひかえ、北は氷川の森を望んで極楽水へと下って行き、西は丘陵の延長が鐘の音で名高い目白台から、『忠臣蔵』で知らぬものはない高田の馬場へと続いている。
この地勢と同じように、私の幼い時の幸福なる記憶もこの伝通院の古刺を中心として、常にその周囲を離れぬのである。・・・

安藤坂は平かに地ならしされた。
富坂の火避地(ヒヨケチ)には借家が建てられて当時の名残の樹木二、三本を残すに過ぎない。水戸藩邸の最後の面影を止めた砲兵工廠の大きな赤い裏門は何処へやら取除けられ、古びた練塀(ネリベイ)は赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであったあの水門はもう影も形もない。・・・

「夕碁よりも薄暗い入梅の午後牛天神の森蔭に紫陽花の咲出る頃、または旅烏の囁き騒ぐ秋の夕方沢蔵稲荷の大榎の止む間もなく落葉する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天の階(キザハシ)に休めさせる。その度に堂内に安置された昔のままなる賓頭盧尊者(ビンズルソンジャ)の像を撫ぜ、幼い頃この小石川の故里(フルサト)で私が見馴れ聞馴れたいろいろな人たちは今頃どうしてしまったろうと、そぞろ当時の事を思い返さずにはいられない。・・・」(「伝通院」明治43年7月)
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「砲兵工廠」は、今の東京ドーム

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