以前に、
昭和15年9月27日の日独伊三国軍事同盟締結に関しての、永井荷風「断腸亭日乗」をご紹介し、
続いて、翌月10月の数条をご紹介しました。
今回は、11月の数条をご紹介します。当時の世相の一端が見えます。
(読みやすくするために改行を施します)
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昭和15年(1940)11月1日
十一月初一 舊十月初二 晴。
正午ちかく久保藤子といふ女たづね來る。去月中かきがら町なる怪しき周旋屋野口といふものゝ一室にて知り合になりしなり。
その語るところを聞くに年は三十にて三つにる娘あり。
三年ほど前良人に死別れ、深川三好町に材木屋を営める叔父の厄介になり、丸の内鐡道省文書課の雇となり毎月四拾圓の給料を貰ひ居るなり。
されど生活費もおひおひ高くなり娘の将來も心配になりたれば二三月前より同じ省内の女事務員にて心やすきものゝ秘密をきゝ、且つまた其の勧告によりで日蔭の商賣をなすやうになりぬ。
・・・藤子半日わが家に在り台所の掃除をなし夜具寐巻の破れをつくろひくれたり。
・・・(外食をして)・・・藤子この次の日曜日ごろに前以て電話をお掛けしてまた遊びに参りますとて歸り行きぬ。
彼女の處世談は親獨新政治の世のかくれたる一面を窺ふに足るべきものなるぺし。・・・
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11月4日
十一月初四。晴れて風なし。早朝深夜ともに火鉢の用なし。昨今の暖気は天も亦窮民を哀れむがためならむ歟。
午後丸の内より土州橋に至り日本橋を過りて浅草に徃く。オペラ館芸人踊子等と森永に飰す。
世の噂をきくに二月廿六日叛乱の賊徒及浜口首相暗殺犯人悉出獄放免せられしと云ふ。
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11月5日
十一月初五。晴。
・・・此夜町の噂をきくに市中銀行預金引出しは最大額一口壹萬圓をかぎりとなし、且その用途を申告するなりと云ふ。預入の場合は三萬圓以上は同じく其収納の理由を明にするなりと云ふ。
国家破産の時期いよいよ切迫し来れるが如し。
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11月7日
十一月初七。・・・。
人の語るところをきくに、芝居の狂言なども少しは軟きものを演じても差支なし。時間も夜十時を少し位過ぎてもよし。
自粛々々といひて餘り窮屈にせずともよしと軍部より内々のお許ありしと云ふ。
されど一説にはこの御許しは年末にかけて窮民の暴動を起さんことを恐れしが薦めにて、來春に至らば政府の専横いよいよ甚しくなるぺし。
内閣はまたまた變るぺし。園外へ追放せらるべき名士数十名に及ぶべしと云ふ。
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11月8日
十一月初八。空くもりて風俄に冬めきたり。今日立冬の節なればなるぺし。
・・・日暮れて後共に土州橋日本橋を過りて池之端の揚出しに至りて夕飯を喫す。また相携へて淺草公園に至る。
歸途街上に再び酔漢の多きを見る。田原町地下鐡入口にて挌闘するものあり。車中にて大聲に口論するものあり。虎之門にてカフェー歸りとおぼしき者の酔ひて爭へるあり。
禁令すこしくゆるむと見るや忽かくの如き光景をなす。呆れ果てたる國民なりと謂ふぺし。
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11月10日
・十一月十日 日曜日 晴。
炭火を節せんがため正午まで蓐中に在りて讀書す。
哺下かきがら町アパート秀明閣に野口老婆を訪ふ。私娼二人居合せ赤飯をくらへり。、やがて打連れていづこにか出で去りぬ。老婆茶を入替へ赤飯をすゝむ。
・・・。九時過出でゝ電車に乗る。・・・。
このごろ専ら人の云傳ふる巷説をきくに、
新政治家の中にて末信中野橋本其他の一味は過激なる共産主義者なり。
軍人中この一味に加はるもの亦尠からず。
而して近衛公は過激なる革命運動を防止せむと苦心しゝあり。
近衛の運動費は久原小林などより寄附せしもの合して三千萬圓餘に上れり。
新体制の一味徒黨の中には以上の二波ありて両者の葛藤遠からず社會の表面に顕れ出づぺしとの事なり。
又近衛公には妾あり。新橋の藝者にて俳優羽左衛門が狸妓とは大の仲よしなりと云ふ。
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11月12日
十一月十二日。昨夜ふりつゞきし雨午後に至りて晴れたり。
・・・再び銀座食堂に至り晩食を喫す。
恰花電車数輌銀座通を過るに合ふ。
街上の群集歓呼狂するが如し。房山子と共に淺草に至り歌手踊子等と森永喫茶店に入りで笑語す。踊子の中にはいまだ一度も花電車を見たることなしと言ふものもあり。これによりて回顧するに花電車は昭和十一年の秋が最後にて其後は無かりしが如し。
地下鐡の階段また車内に泥酔者の嘔吐せしもの其儘仕末をなさずに打捨られたり。
啻(タダ)にこの事だけにでも現代の日本はまことに住み心地よからぬ處なりと謂ふぺし。
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11月14日
十一月十四日。くもりて暗し。正午(ひる)ちかく寒雨降り初めしころ炭屋の主人来り
炭品切れになる虞れあり。(中略)
戦争の禍害いよいよ身辺に迫り来れり。
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11月16日
十一月十六日。陰。町會のもの來たりて炭配給券を渡しくれたれば早速出入りの炭屋に行く。
程なく炭一俵持來たりしが以前の如く親切に炭は切りなどせず俵のまゝ門口に置き認印を請ひて去れり。
今年は炭團煉炭も思ふやうには売られぬ由なり。
灯ともしごろ土州橋の病院に行く。{ホルモン注視や三度目}
水天宮門前に花電車數輛置きならべあり。見物人雑沓す。一輛三千圓かゝりしなど語り合へり。
余病院薬局の女の語るところをきくに病院内にて花電車を見たることなしと云ふもの三分の二以上にて、之を知るものは四十あまりのものばかりなりとの事より推測して、現在東京に居住するものゝ大半は昭和十年以後地方より移り来りしものなることを知れり。
浅草公園の藝人に東京生れのもの少きも今は怪しむに足らざるなり。
時代の趣味の低落せしも故なきに非ず。浪花節の國粋藝術といはるゝも尤至極なり。
今回の新政治も田舎漢のつくり出せしものと思へばさして驚くにも及ばず。仏蘭西革命また明治維新の変などゝは全く性質と品数とを異にするものなり。
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11月20日
十一月二十日。くもりて庭小暗し。八つ手と枇杷の花の白きが目立ちて見ゆ。灯ともしごろ雨降り出せしが姑くにして歇む。
食事せんとて銀座に行く。亀屋の前にて西銀座の或商店の主人に逢ふ。
其人曰く銀座西側だけにて徴兵に出るもの今年は百七拾人あり。程なく南京あたりへ送らるゝ由。
丁年者の体格今年は著しく悪しくなりたりとて検査の軍人ども眉をひそめ居たりと。
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11月21日
・十一月廿一日。南風はげしく落葉雨のごとし。
午後佐藤観中央公論社員來話。来春より定期刊行物の紙形小さくなる由。追て書籍も同じく小さき形になると云ふ。晩食後土州橋より淺草を過ぎりてかへる。
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11月23日
十一月廿三日。天気よし。
暮方米屋の男米を持来りて言ふ。麻布区内にて米穀配給所といふ事にて纔に閉店失業の悲運を免れし店五軒なり。其他数十軒の米屋は皆店を閉ぢ雇人は満洲に行きて百姓になるべき訓練を受け居れりと。
又米穀は警察署の印判を押して貰はざるかぎり店へ運搬する事を得ず、日曜祭日などつゞく時は警官役人ともに休みとなり店に米なき時あり。不便一方ならずといふ。
此度の改革にて最悲運に陥りしものは米屋と炭屋なるべく、昔より一番手堅い商売と言はれしものが一番早く潰され、料理屋芝居の如き水商売が一番まうかる有様何とも不可思議の至なりと。右米屋の述懐なり。
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11月25日
・十一月廿五日。陰後に晴。
午後谷中氏来話。珈琲及アスパラガスを饋らる。薄暮土州橋に至りかきがら町野口を訪うて歸る。此日暖気小春の如し{華氏八十五度}
▼〔欄外朱書〕西園寺老公薨去
町の噂
熱海温泉宿より歸り來来りし人のはなしに、二二六民間側犯人の中、過日大赦出獄せしものゝ一人某、熱海のスターホテルに二週間あまり宿泊し居りたるが、毎夜土地の藝者十餘名を招ぎ大盡遊びをなせども、警察署にては見て見ぬ振をなし居たり。
宿賃は食事附一日七圓のところそれでは安過るとて間代だけ七圓食膳は別に払ふと言ひてきかぬ故宿屋にては其言ふまゝに為し置きし處、帰り際には女中一人に百円づゝの祝儀を出し、勘定も滞りなく払ひし由。
毎日諸方の名士及同類の者に電報を打つ。其金高も夥しき由。また手紙をかくに書簡箋を用ず。四銭の端書に大字にて五六字かくのみなれば一の用件をかくに端書五六枚を費し得意満々の体なりしといふ。
此の如き濫費の金はいづこより持來りしものか。其源は良民の税より出でたるものと思へば世の中は闇なりと、この話の主は嘆息して又次の如き奇談をなしぬ。
熱海旅館の組合にては、内務省邊より秘密の通達ありしを奇貨となし、外国人には能ふかぎり物を高く賣りて外貨獲得の効果を収めんとしつゝあり。
鮪のさしみ一皿十六円。林檎一個一圓づゝ取りし旅館ありしと云ふ。
現代日本人の愛國排外の行動はこの一小事を以て全班を推知するに難しとせず。
八紘一宇などいふ言葉はどこを押せば出るものならむ。お臍が茶をわかすはなしなり。
*11月27日
十一月念七。
昏暮門を出でむとする時改造といふ雑誌の記者來り、西園寺公及雨声会の事につき余の所感を聞きたしと言ふ。文筆商賣は数年前より廃業したれば今は口にすべき事もまた筆にすべきこともなしとて情(スゲ)なく断りて歸したり。
いつもの如く銀座に行かむとて箪笥町の陋巷を歩みながら不図思ふに、老公の雨声会には斎藤海軍大将も二度程出席したりき。
此人は二月内乱の時叛軍の為に惨穀せられし事は世の周知する所。老公も亦襲撃せらるべき人員の中に加へられ居たりしこと裁判記録にて今は明なり。
而して叛乱罪にて投獄せられし兇徒は当月に至り一人を余さず皆放免せられたるに非らずや。
二月及五月の叛乱は今日に至りて之を見れば叛乱にあらずして義戦なりしなり。彼等は兇徒にあらずして義士なりしなり。
然るに怪しむべきは目下の軍人政府が老公の薨去を以て厄介拂ひとなざず却て哀悼の意を表し國葬の大礼を行はむとす。人民を愚にすることもまた甚しと謂ふべし。
余は雨声会招飲より以前に両度老公を見たることあり。
最初老公の初めて文部大臣に任ぜられ官立の諸學校を巡視せし時、恰も余は一ツ橋なる附属中学校に在り。公は随員と共に余が机の近くに立ちたり{余は其頃級中にて尤身長低き生徒なりし故机は一番前の方に在りしなり}色白にて髯なく役人らしく見えざる風采は余のみならず全校の生徒を驚かしたり{この事明治二十六七年なるべし}
次は余が亡父に従ひ上海に徃きし時なり。公は欧洲漫遊の途上上海に上陸し日本領事館に休憩せられたりき。余が亡父は老公の文部大臣たりし時其秘書官にて後会計課長となりしが、老公及伊藤春畒公の勧告にて明治三十年官海を去り實業界に入りしなり。亡父は官職とは関係なく両公とは詩文の交もありしなり。
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11月31日
十一月卅一日。・・・、食後またオペラ館に行く。この夜土曜日にて淺草の興行町人出おびたゞしく飲食店殊に繁昌の様子なり。・・・
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以下は、「黙翁年表」昭和15年11月の項目のみの抜粋
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昭和15年11月
・海軍軍令部と連合艦隊の図上演習、蘭印作戦から対英米戦を検討。海軍は英米不可分論で統一される
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・東條陸相・武藤軍務局長、陸軍省戦備課長岡田菊三郎に日米戦力比の資料作成を指示。
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・サイパン商業報国会、設立。
翌月、パラオに南洋諸島大政翼賛会、発足。
国防献金・赤誠皇軍慰問金募金活動も活発化。
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・「大日本歌人協会」臨時総会、激論ののち発展的解消を認める。
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・黒部第3発電所完成。工期4年4ヶ月。300余人事故死。
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・築地小劇場、国民新劇場に改名。
依然としてそこを根城とする新劇小劇団の活動は続けられる。
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11月1日
・ダンスホール閉鎖
・切符制、全国で実施。砂糖は1人1ヶ月半斤、マッチは1日5本。
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11月2日
・大日本帝国国民服令公布。男子用国民服法制化。即日施行。
紀元2600年祝典にあわせるため。男子国民服は祭典・儀式にも着用可。
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11月3日
・厚生省、戦時下の人的資源増強のため10人以上の子を持つ家庭1万余を優良子宝部隊として表彰。
・全国水平社と中央融和事業協会の大和報国運動、発会式
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11月5日
・政府、「日満支経済建設要綱」を発表。
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11月5日
・米大統領選挙、民主党ルーズベルト大統領3選。副大統領ワーラス。
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11月8日
・政府、「勤労新体制確立要綱」決定。
・紡績連合会、紡績会社を10社に統合
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11月10日
・皇紀2600年式典。宮城前広場、~14日迄、4万9017人が参列。提灯行列・音楽行進、昼酒も許され赤飯用もち米も特配。
15日、大政翼賛会のポスター「祝い終った、さあ働こう」が貼り巡らされ「臣道実践」が呼び掛けられる。
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11月13日
・第4回御前会議、「日華基本条約案」(汪兆銘政権承認)・「支那事変処理要綱」(重慶打倒)決定。
・拓務省に拓北局・拓南局設置。外務省南洋局設置。
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11月14日
・雑穀配給統制規則公布
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11月15日
・山本五十六・吉田善吉・嶋田繁三郎、大将昇格。
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11月19日
・昭和研究会、解散。
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11月21日
・商業報国会、結成。
・政府、タイ・仏印国境紛争調停を決定。
日本の調停申入れにタイは応じるが、仏は難色を示し、陸海軍は日タイ同盟締結を主張。
26日、・大本営政府連絡会議、タイ・仏印国境紛争調停に関し、タイと政治軍事協定・経済協力協定交渉開始、仏印に対し日本の経済的・軍事的要求を提示し圧力を加えると決定。
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11月22日
・日本海運報国団、結成。
日本海員組合と海員協会、海運報国団の結成とそれへの積極的参加を前提にして解散。
・農機具配給統制規則公布
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11月23日
・大日本産業報国会、結成。
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11月24日
・西園寺公望(92)、没。
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11月27日
・駐米大使に野村吉三郎が任命。
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11月28日
・重慶工作打切り決定。
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11月29日
・来日中の米カトリック神父ドラウト、井川忠雄に会見を申し込む。初の日米私的交渉。
・第2回出版配給機構新体制準備委員会。
鈴木庫三「いまラジオと新聞があれば、書籍や雑誌など不要の時代だ」と発言。
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「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
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