2012年12月3日月曜日

元亀3年(1572)1月~閏1月 佐久間信盛、栗太野洲惣代130余に一向一揆に加勢しない誓書出させる(「元亀の起請文」)。 [信長39歳]

東京 北の丸公園 2012-11-29
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元亀3年(1572)
この年
・信長39歳、光秀45歳、秀吉37歳、家康31歳
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・後北条領の鉢形支城主北条氏邦、「若し百姓等兎角申し、他所へ罷り移る者之れあらば、見合いに搦め取り披露を遂ぐべき者也」と給人斎藤八右衛門に命じる。
これは氏邦が6貫170文の増分を同人に宛行った時、増分に反対する百姓の逃散の動きを事前に制止する目的で発したもの。

戦国期の農民闘争は、1荘園1郷ぐるみの惣百姓型の年貢減免闘争と、個別的な逃失・欠落型の闘争との複合として展開されるが、後者の場合、農業労働力・軍事夫役の確保の問題から領国別支配基盤を脅かすもので、大名は逃亡百姓・下人の人返しから一歩を進めて、百姓の土地緊縛にカを注ぐようになる。

前年1571(元亀2)年、信玄の侵入を目前にして大規模な軍事動員を直接の契機として、「当郷ニ有之者一人も隠置、此帳ニ不付者、後日聞出次第、小代官名主可切頸事」「若此帳ニ不載者申出者大忠也、何にても永代望之儀可被仰付候」との本城主布告が武蔵富部郷に発せられる。
密告奨励、百姓の「帳つけ」を強行。
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・マニラ・アカプルコ間のガレオン貿易開始。
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・ドイツ、ケルンテン・シュタイアーマルク地方で農民反乱(1572~1573)。マティヤ・グベツが指導。
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・イングランド、ドレイクのパナマ攻撃。
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・イングランド、エリザベス女王従兄弟4代ノーフォーク公トマス・ハワード、エリザベス女王廃位陰謀で処刑。亡命中の元スコットランド女王メアリー・ステュワートとの結婚目論む。
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・イングランド、ウイリアム・セシル、大蔵大臣となる。
翌73年にはフランシス・ウォルシンガムが外交担当国務大臣となる。

ウイリアム・セシル:
1520年9月13日リンカーンで誕生。
父のリチャードはヘンリ8世の皇太子時代から衣装係、即位式にも列席。
21歳ギリシャ語教師の妹で酒屋の娘メアリー・チェックと結婚。
4年後先立たれ父の勧めるまミルドレッド・クックと再婚(クック家はエドワード6世の教育係を務めた名門)。
メアリー1世治世でナイトに叙勲、枢密院顧問に抜擢、賄賂にも恫喝にも屈しない男としてスペインからも一目を置かれる。
大蔵大臣として資金面・実際的行動からウォルシンガムのスパイ活動を支援。
1570年法王ピウス5世の破門宣告以降のカトリック側の女王暗殺計画の摘発にウォルシンガムと共に功績をあげる。
1590年耳が不自由になるが第一線で活躍。8年後8月4日痛風で没。
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・デンマーク、ティコ・ブラーエ(1546~1601、デンマーク・ヘルシングルポル城主長男、望遠鏡発明前の天文学者、肉眼による最大の天体観測者)、この年カシオペア座の超新星「ティコの星」を発見。
1578年国王はティコのためにペーン島にウラニボル天文台を設立。ティコは半径3mの四分儀(子午線儀の原型)などを考案設置。
1588年地動説と天動説の折衷案を主張。
1596年ドイツへ亡命。ケプラーと出会って1年半後に没。
ティコの20年間の火星観測記録がケプラーによる整理研究で「惑星公転の3法則」発見の基礎資料となる。
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1月13日
・上杉謙信、関東で越年。上杉謙信と武田信玄、利根川を挟み対陣。
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1月14日
・本願寺顕如、武田信玄・勝頼父子に坊官下間頼充派遣。
信長の背後脅かすのと越前一向一揆支援依頼。

武田信玄は早くから本願寺と密約結ぶ。
①領内の一向宗長延寺実了を介して、越中井汲瑞泉寺・勝興寺顕栄・加賀金沢坊杉浦らと連絡し上杉謙信の南下策動を封じこめ。
②信州門徒衆の大坂本願寺援護のため築城、兵糧などの物資輸送などに関税免除など保護。
⇒ 一向一揆と戦うもの同士として信長・謙信は同盟してゆく。
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1月15日
・武田信玄と結んだ北条氏政、かつて越相同盟を仲介した由良成繁に釈明。
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1月18日
・細川藤孝・上野秀政、義昭の面前で口論(「細川家記」)。
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1月19日
・今川氏真、北条家より追放、徳川家に身を寄せる。家臣に進退勝手を言い渡す。
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1月21日
・信長、飯川信堅・曽我助乗へ、摂津中島城・高屋城攻撃のための柴田勝家出陣を通達、この軍事行動は「天下」のためで幕府衆も出陣するのは当然である、これらを義昭に報告するよう指示(「実相院及東寺宝菩提院文書」)。
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1月23日
・六角承禎・義治父子、近江金ヶ森・三宅両城より一向一揆扇動し信長に抗戦させる。
近江水原在番佐久間信盛、栗太野洲惣代130余に一向一揆に加勢しない誓書出させる(「元亀の起請文」)。

信盛は、栗田郡高野荘(郷)の「坊主中、地士・長等中」に宛て、「佐々木承禎父子、一向之僧侶をかたらい、三宅・金森之城ニ立籠侯、就夫南郡一向之坊主・地子・長之輩、一味内通致間敷」とし、起請文の提出を求める。
この場合「一向之坊主・地子・長」とあるように、門徒の坊主と地士(地侍・殿原)と長(おとな)を意味している。

信長・信盛は、元亀・天正の争乱の当初、南近江の六角氏と連合した一向一揆の蜂起に際し、城を包囲すると同時に周辺の郷村に対してそれへの内通をしない旨の誓約の起請文を徴している。
この地域は対岸の近江堅田と並ぶ、強力な門徒団の存在する地域で、三宅・金森を中心とする野洲川下流域の駒井荘や富田の荘郷単位の起請文が残されている。
駒井荘では、駒井沢村・集村・新堂村・大萱村・穴村などの単位村落の「惣代」ら各2名以上が署名、富田の場合も富田宗林・井口徳林らの地侍や「惣百姓惣代」が署判。
この場合、神文に「我心ニ願ひ奉る御本尊並霊社」とあり、阿弥陀如来と鎮守の勝部社が併記され、署判者が門徒であることが知られる。

ここには事実上、門徒組織と村落組織(惣郷・惣村)の同一化が進行し、門徒惣代と郷村の惣代の一致した真宗教団の発展した姿を見出すことができる。
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1月23日
・信長嫡男奇妙丸(16)勘九郎信忠、次男茶筅(15)北畠三介信雄、三男三七(15)神戸三七郎信孝(勝家、烏帽子親をつとめる)、元服。
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1月23日
・秀吉(36)が岐阜へ赴く留守中、浅井軍、横山城を攻撃。
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1月28日
・誠仁親王御所で女舞。正親町天皇、これを見物して女に春霞の名を与える。
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1月28日
・武田信玄(52)、信長の臣武井夕庵に書状を送り、信長と交誼を図るよう述べる。
甲相同盟を伝え、前年の遠江・三河侵攻を弁明、侫人(家康)の讒言を信じないように、また謙信が「甲相越三国の和睦」を懇望しているようだが取り合わないように申し入れ。
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閏1月3日
・上杉謙信(43)、武田氏属城上野石倉城を攻略。城郭を破却して厩橋城に凱旋。次いで信玄・北条氏政と利根川を挟んで対峙。
4月に帰国。信玄・謙信対決の最後。
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閏1月5日
・奈良、亥刻過ぎに乾西の方角より「三方笠」程の「光物」が東辰巳の方角へ飛び去り、大風と霰が降る(「多聞院日記」2)。
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1月20日
・大和国奈良に大地震。死者多数。「火神動」という風聞が立つ。
22日、猿沢池の水が赤く濁る。夕刻、「アカリ障子」程の「光リ物」が南から北へ飛行。大和国奈良中の人々が目撃。(「多聞院日記」2)
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