2012年12月4日火曜日

元亀3年(1572)2月~4月 信長、摂津一向宗の拠点尼崎に七ヶ条の禁制下す(楽市令) [信長39歳]

東京 江戸城(皇居)東御苑
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元亀3年(1572)
2月
・イングランド港に海乞食の出入禁止。
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2月2日
・越前で、金津の米商人として坂屋(坂野)が知られ(「尋憲記」同日条)、近世にも活躍。
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2月10日
・将軍義昭、淀に築城するため山城国内に人夫役を課す。
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2月15日
・大和辰市で前年の戦没者慰霊の大念仏が挙行。
敵味方が参詣、「以之外之群集」。(「多聞院日記」2)
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3月
・真田幸隆(60)、計略で上野白井城を攻略。
武田信玄はそれを賞し、箕輪城に在城して高坂弾正の指示を受けるよう命じる。
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・本願寺顕如、信長に茶道具などを献上。
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・信長、尼崎(摂津一向宗の拠点)に7ヶ条の禁制下す(楽市令)
冒頭「尼崎内市場、巽、久遠寺法花院の建立につき」。一向宗に対立する法華宗の寺内を創設。
①市場・寺内に武装して出入り禁止、
②軍用金・兵糧米の賦課禁止、
③強制的な質(借金)取り禁止、
④徳政適用免除、
⑤敵方(尼崎塚口御坊の一向一揆衆)も出入り自由、
⑥棟別(家勢)・綸旨賦課の免除、
⑦寺内の竹木伐採禁止。
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3月3日
・信長、永田景弘へ3月7日に江北小谷口へ出陣命令。
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3月5日
・信長5万、岐阜進発。赤坂着陣。
6日、横山城着。7日、小谷城と余呉川河口の山本山間に野陣。余呉~木之本一帯の集落放火略奪。
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3月8日
・朝倉義景、織田信長の江北出陣の動きに対し、出陣の準備をする。
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3月9日
・信長、横山城に兵を戻す。
10日、信長2万、京都へ向かう。安土常楽寺に陣を張る。
畿内諸大名が義昭・顕如に扇動され叛きはじめる。小谷城包囲は柴田・佐久間・木下・蜂屋に任せる。
11日、近江和邇に布陣し六角氏残党を掃討、木戸・田中城に追い込む。明智光秀・中川重政・丹羽長秀を置く。
12日、信長、上洛。二条妙覚寺宿陣。2ヶ月余滞在。
19日、南近江の門徒・郷士に一向宗徒との通交を禁止、誓紙を提出させる。
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中旬
・義昭、信長の京都「御座所」として上京武者小路の空地(徳大寺公維邸地)に屋敷を構えるよう指示、義昭命で「畿内の面々」による普請着手を決定、尾張・美濃・近江3国の信長御供衆は普請役を免除(「信長公記」巻5)。
21日、信長、徳大寺公維の屋敷を収め、居館建造を意図。義昭命で大覚寺尊信・久我通堅・高倉永相・北野社・吉田兼見ら諸家にも普請夫役を賦課。
22日、安威藤治・三上輝房・狩野光茂ら幕府衆、吉田兼見へ信長屋敷普請に際し、「御使」として簀板用に社頭の木の徴収を伝達。吉田兼見、神木の免除を申請するも宥免されず。(「兼見卿記」1)
24日、信長の京都屋敷普請の「御鍬始」。「御普請奉行」は村井貞勝・島田秀満・「御大工棟梁」池上五郎右衛門(「信長公記」巻5)。

「上京むしやの小路にあき地の坊跡」を「御座所」にするため築地を築かせた(『兼見卿記』3月21日条)が、その後、築地以上の普請が行われた形跡が見られない
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3月21日
・信長、山城狭山郷を押領した御牧摂津守へ、石清水八幡宮領であり田中長清に重ねて信長朱印を与え不法停止を命令。〔「田中家文書」〕
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3月24日
・義昭主導による信長の京都屋敷普請「御鍬始」。普請奉行は村井貞勝・島田秀満・大工棟梁池上五郎右衛門(「信長公記」5)。
築地が築かれ、敷地のあちこちに作られた舞台では、美しく着飾った稚児や若者たちが、笛・太鼓・鼓で囃したてる。大勢の町人が集まって見物する。花の盛りの季節でもあった。
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3月24日
・信長、初めて細川昭元・石成友通を謁見。
この頃、信長、本願寺顕如より「万里江山の一軸」・「白天目」を贈呈される(「信長公記」5)。
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4月
・信長、山城賀茂の銭主・惣中へ、去々年(元亀元年)信長朱印を発給し賀茂神社境内を徳政除外地としたが未だに「一揆」残党が徳政適用を強要している、許し難い、譴責使を派遣して収納すること、詳細は木下秀吉が伝達(「賀茂別雷神社文書」)。また、山城梅津長福寺へ全5ヶ条の「条々」下す(「長福寺文書」)。
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・武田信玄、富士郡吉原の矢部氏に富士川の渡船役を命じ、代償として所有の名田・屋敷と問屋の営業権を保証。
また、この月20日、御宿(みしゅく)友綱に宛てて、葛山氏本領の千福・御宿(裾野市)など593貫文を宛行う。
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4月1日
・琉球王尚元(45)、病歿。
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4月1日
・1572年2月、英を追われたオラニエ公艦隊・海乞食(ゼー・ゴイセン、海の乞食団、指揮官ルーメイ・ウィレム・ファン・デル・マルク伯爵)1隊24隻、ホラント州デン・リブレ島(ムーズ河口、プリーレ、プリエール)を占拠。
更にゼーラント州フリシンゲンやホラント州北側エンクハイゼンを占領、1ヶ月以内に各地に亡命している仲間達が援軍を率い合流。
フリシンゲン、エンクハイゼンを拠点にしてゼーラントおよびホラント州諸都市を次々に占拠。
占領諸都市はカトリック教徒が多数でカルヴァン派は少数派であるが、海乞食の強制やスペインへの反感により反乱側につく。

乞食党;
アルバ公の圧制を逃れてドイツ、フランス、イギリス等に亡命して反スペイン運動を行う主にカルヴァン派下級貴族。ドイツ亡命のオラニエ公とカトリック教会への攻撃を行う者、フランスのユグノー軍に参加する者など。
ドイツ・フランス・イギリス海岸を拠点としてスペイン船や沿岸カトリック教会を襲う。スペイン船拿捕状を与えられるなどオラニエ公と密接に連携。

(経緯)
スペインより派遣のアルバ公、ネーデルラントのスペイン人に益する交易条件をイングランド・エリザベス女王より獲得。
エリザベス女王はアルバ公の要求でイングランド避難中のオラニエ公艦隊に退去命令。
艦隊はオランダに向かい、奇襲によりデル・ブリルを占領。
アルバ公はユトレヒトの守備隊10個中隊をデル・ブリルに派遣。シー・ベガーズが撃破。
カルヴァン派急進分子、各都市で蜂起。フラッシング港(フリシンゲン、フリッシンゲン)はじめアムステルダムを除くホラント及びゼーラントの殆どの町を解放。
オラニエ公ウィレム1世、ドイツより帰国。
ウィレム・ファン・デル・マルク、デン・ブリルで捕らえたカトリック僧侶を悉く虐殺。
1573年オラニエ公ウィレム1世、デル・マルクを免職・追放。1574年デル・マルク、狂犬に噛まれて没。
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4月4日
・明智光秀・滝川一益・佐久間信盛・柴田勝家、河内住人の片岡弥太郎へ、4月14日織田軍河内出征決定し「出勢」・「合城」を厳命(「根岸文書」)。
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4月5日
・信長、吉川元春へ、浦上宗景・宇喜多直家の争いに関して、義昭の意を受けて「和与」に属すことを通達。詳細は柳沢元政・安国寺恵瓊・聖護院道澄に伝達させる(「吉川家文書」1)。
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4月8日
・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・秀吉、山城伏見惣中へ織田軍出撃に際し船の供出を厳命(「三雲文書」)。
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4月11日
・フランス、ブロワ、母后カトリーヌ娘・国王の妹マルグリット・ド・バロア(後、マルゴ王妃)、ナヴァール王(19、新教徒総帥アンリ・ド・ナヴァール(後のアンリ4世)、ジャンヌ・ダンブレ息子)との結婚調印。新旧教徒和解のため。
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4月12日
・大和「ナラ中衆」、東大寺南大門で「集会」、織田軍奈良布陣に際して織田軍に「同心」しない決定(「多聞院日記」2)。
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中旬
・浅井長政、近江高島郡伊黒城攻略。
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4月14日
・本願寺顕如、北近江十ヶ所門徒に激励文送る。
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4月16日
・上杉謙信、北条景広へ、関東・南甲斐の情勢、「越甲一和」に関し信長・朝倉義景間に武田信玄が調略している模様など通知(「妙満寺文書」)。
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4月16日
・信長3万5千、河内交野に進軍。
三好義継は若江城、松永久秀は大和信貴山城、子久通は奈良多聞城に籠る。朝倉出陣期待するも朝倉出ず。
信長、柴田勝家・佐久間信盛に三好・松永討伐を命じる。

三好義継、松永久秀・久通父子と共に畠山昭高(信長の妹婿)に対して叛旗、畠山配下安見新七郎の居城交野城(交野市)を包囲、城周辺に付城を築いて山口六郎四郎・奥田三河を大将とする兵300を置く。
信長勢の佐久間信盛・柴田勝家・蜂屋頼隆・斎藤新五・稲葉一鉄・氏家左京亮直通・安藤守就・不破光治・丸毛長照・多賀新左衛門・五畿内公方衆の大軍が直ちに駆けつけこの付城を包囲。
しかし、風雨に紛れて脱出。(信長公記」5)

佐久間信盛・柴田勝家・明智光秀・細川藤孝・三淵藤英・上野秀政・池田勝正・伊丹親興・和田惟長ら2万余、河州表へ出陣。
松永久秀軍を河内郡騎西城に攻囲。(「兼見卿記」1)
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4月25日
・信長、京都紫野大徳寺へ諸塔頭領・門前賀茂境内を安堵(「大徳寺文書」)。
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4月27日
・フランス、シャルル9世、オラニエ公ルートヴィッヒ・フォン・ナッサウ(オラニエ公ウィレム弟)宛、ネーデルランド解放のため全軍勢を用いる旨手紙
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4月29日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)、4度目の結婚。3回以上結婚できないという東方正教会の教えに背く。
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4月29日
・松永軍と筒井順慶軍、大和国大安寺の門周辺で交戦。
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