2012年12月5日水曜日

長和5年(1016)1月 三条天皇譲位 皇太子敦成親王(9歳、道長の孫、後一条天皇)即位

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-11-27
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長和5年(1016)
この年
・延暦寺において、律師懐寿(かいじゆ)の弟子が前僧都尋光(じんこう)の弟子を殺害。
また高雄神護寺の法華会では、2人の者が戦って小刀で刺しちがえて果てた。
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1月2日
・この頃、平安京の鴨川の河原に人々が住み始めたことを伝える史料。
この日、「河原人」が死んだ牛の腹から牛黄を取り出し、それを貴族たちが感心したという記録が残っている(『左経記』)。
ただ、こだけでは、「河原の人」がどのような境遇にあったのかなどの詳細はよく分からない。
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1月13日
・『小右記』この条に、三条天皇譲位等勘文(かもん)を、左大臣道長が諸卿を率いて東宮(敦成親王)に参り、皇太后彰子に啓覧。
道長は外祖父として敦成親王を早く皇位につけたく、彰子にはその行動を逐一伝えている。
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1月25日
・内裏では固関・警固の儀
29日に三条天皇が退位して、道長の外孫後一条天皇に皇位を譲ることになったため、固関使を派遣し、衛府に宮中の警備を固めさせるこの儀式が必要になった
(三条天皇の譲位にともなう形式的なもの)。
日取りは、29日が譲位の日とすれば、固関は27日からおこなうのが通例であるが、27日は日が悪いからというので25日に繰り上げた。

無能の大臣
固関・警固の式を取り仕切るのは右大臣藤原顕光(関白大政大臣兼通の長男、道長のいとこ、道長よりも22年の年長、長徳2年(996)に道長が左大臣に進むと同時に右大臣に昇り、以来、朝廷第二の臣としてその地位を占めてきた)が自ら申し出る。
彼はまた無能な男としても定評があった。

道長は顕光に、あなたは先年、一条天皇が病気で譲位したときにも固関・警固の式を執行したのだから、今度はご出馬にも及ぶまいといってそれとなく辞退を仄めかしたが、顕光は是非共自分がやります、と押し切った。
そして、彼は自分が執り行なったせっかくの儀式で、数々の失態を演じて、人々の物笑いの種になった。

この時の顕光の失態は『小右記』に詳しく書かれいる。
しかも、
「いちいち失態を書き並べていると筆がすり切れてしまうから、ごく概略を記しただけだ」
との但し書きまで付いている。
左少弁源経頼の日記の『左経記』にも、
「違例のことが非常に多く、きょうの作法はのちの典拠としてはいけない」
と書いてある。

道長はすっかりにがり切って、
「あれほどやめるようにいってやったのに気がつかないで、むりやり買って出て失態を演じ、人々に笑われるとは、まったく手のつけられない馬鹿者だ(至愚之又至愚也)」
と顕光を罵倒したという。

道長が摂政になってからは、大臣の筆頭である一上の業務は当然右大臣顕光が行なうべきところ、大納言以上の者はだれでもこれを行ってよいという、顕光をまったく無視した宣旨が下された。

『小右記』3月16日条に、
「摂政命じて云はく、一上に申すの事、今に至りては右大臣に申すべし。而るに老耆(ろうき)の上、毎時便ならず。更に内大臣に申すは、然るべからざるの内、右大臣と異ならず。仍(よ)りて大納言己上に申すべきの由、近日宣旨を下すべし。両丞相及び大納言参入の日、只当日の上卿に申すべし、てへり。」
と、右大臣顕光・内大臣公季を不適当とし、大納言以上の公卿(大納言道綱・実費、権大納言斉信・頼通・公任を加えた7人)のうち参入した上首の者に一上に申すべき文書の決裁を求めることにしている。
『御堂関白記』には「先例、其の人を差す。而るに次の人、年老にして恒(つね)に不参、仍りて人を定めざるなり」(3月26日)とその意図を記している。

道長は、一上を手放すにあたって特定の人に固定して権力が集中するのを嫌がったと考えられているが、道長は摂政となり権力の掌握は十全であるから、やはり顕光と公季の老齢と無能さを考え、実資や斉信など有能な公卿に一上の事を行なわせ、太政官政務が潤滑に運営されることを考えたと思われる。
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1月29日
・三条天皇は娍子との間の皇子敦明(あつあきら)親王を皇太子にすることを条件に譲位し、皇太子敦成親王(9歳)が後一条天皇として即位
道長にとっては待望の外孫の即位である。
道長は外祖父として摂政となり、20年間保持してきた左大臣の官を辞することになった。
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1月30日
・摂政道長に随身(護衛のため与えられる従者)と内舎人(うどねり)2人を賜る勅書は、まず蔵人頭資平から母后皇太后にその旨を申し上げ、その後母后皇太后からこの件を担当する上卿中納言兼皇太后宮大夫源俊賢(としかた)に下された(『御堂関白記』『小右記』)。
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