2014年1月20日月曜日

天喜5年(1057)11月~天喜5/康平元年(1058) 黄海の合戦で源頼義大敗。嫡男義家の活躍。 「時に風雪甚だ励しくして、道路艱難し、官軍食なくして、人馬共に疲れたり・・・官軍大に敗れて、死する者数百人なりき」(『陸奥話記』)

カンザクラ 江戸城(皇居)東御苑 2014-01-16
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天喜5年(1057)
11月
・黄海の合戦
この月、源頼義は追討官符を得て、再び坂東武士を動員して衣川関に向う。
しかし、風雪のなか寒さと飢えに疲労しきった征討軍は、黄海(きのみ)を行軍中に貞任の軍勢に襲われ、多くの戦死者を出して国府に逃げ帰る。

貞任軍4千は、頼義の官軍1,800を河崎柵(磐井郡川崎村)近くの黄海(東磐井郡藤沢町)で迎撃。
ここを防衛する貞任側の金為行は気仙郡司金為時と同族で、この一族内部でも安倍氏側につくか官側につくかの選択があった。
冬場での戦争であり、輜重面においても官軍側の拙速さが目立ち、頼義は大敗。

「時に風雪甚だ励しくして、道路艱難し、官軍食なくして、人馬共に疲れたり・・・官軍大に敗れて、死する者数百人なりき」(『陸奥話記』)。
『陸奥話記』には劣勢のなかにも頼義との主従関係の美談が語られており、これが後世における伝説創造の場ともなった。

頼義は僅かな郎等と共に安倍軍に包囲される。
頼義に従う武士は嫡男義家と郎等5騎の僅か6騎。包囲する敵は200騎、雨あられのごとく矢を射かける。
だが、驍勇絶倫にして、神のごとき義家の射芸の前に、さしもの安倍軍も撃退され、一行は辛くも死地を脱した・・・。
『陸奥話記』の印象的な場面。
義家の活躍はのちのちまで人口に膾炙し、源平争乱の口火を切った以仁王挙兵の際、宇治川で平氏軍を相手に百発百中の射芸を披露した源兼綱を、九条兼実は「あたかも八幡太郎(義家)のごとし」と称賛している。

最後まで頼義と行動をともにした郎等5騎
藤原景通(かげみち)と同則明(のりあきら)は、ともに伝説の将軍藤原利仁の末裔で、河内源氏にとって重代相伝ともいうべき郎等。また、景通の孫の加藤次景廉(かとうじかげかど)は頼朝挙兵に参加。
景通の伯父は頼信の乳母子親孝で、伊勢を拠点し、修理少進という中央官職を有す、京で活躍した軍事貴族。
藤原則明も頼信の腹心則経の息子。摂関家領河内国坂門荘を拠点とし、京で活躍し、のちに白河院の北面にも加わる軍事貴族。

大宅光任(おおやのみつとう)は駿河出身。相撲人として京上し、のちに五位の位階を得た武士で、頼義との主従関係も京で締結された可能性が高い。

清原貞広、藤原範季については世系不明。

相模国の武士佐伯経範(さえきのつねのり、60歳)は、頼義が討ち死にしたと誤解し、敵中に突入して殉死したという。
彼は、頼義に仕えて30年を経たとされ、まさに深い情宜的な主従関係にあった郎等。
一見すると頼義と東国武士との主従関係の深さ、緊密さを物語る事例のようにも思われるが、経範は藤原秀郷流の軍事貴族で、先祖は代々中央で活躍していたし、相模と関係が生じたのも経範の父経資が相模守頼義の目代となったためである。
黄海合戦の30年前は、頼義はまだ坂東に下っていない。従って、経範も京で頼義に仕えたことになる。彼も本来は在京軍事貴族の一員だった。経範が本拠とした相模国波多野荘は、頼義が仕えた小一条院の娘儇子内親王領であり、頼義が経範を荘官に推挙したものと考えられる。こうした所職補任があったからこそ、両者は緊密な主従関係を締結し、維持したとみることができる。
経範の玄孫、波多野義通は義朝家人として保元・平治の乱に参加。

この戦いで戦死した和気致輔(わけのむねすけ)・紀為清はともに「散位」(中央への出仕を前提とする五位を有した武士)とあり、彼らも何らかの形で京と関係する軍事貴族とみられる。
他には、出羽の武士平国妙(くにたえ)らがみえるに過ぎない。

こうしてみると、黄海合戦の参戦者に東国出身の武士はなく、頼義の軍団の中枢は、京から随行してきたり、京と関係の深い軍事貴族たちに占められていたことになる。

『陸奥話記』には「坂東出身の精兵」として実在したとされる佐伯元方などの名もみえており、相模付近の武士が皆無だったわけではない。
しかし、彼らの事績はほとんど語られることはないし、合戦の原因を作った陸奥権守説貞の子光貞がその中に加えられるなど、その実態には疑問がある。
経範のように、元来京の武者であった者が、頼義の目代や彼が推挙する荘官として相模や東国諸国に下向した例があった。
東国武士の組織化というのは、元来東国にいた武士を組織したのではなく、東国に郎従を土着・留住させたことを意味する。

安倍氏は、黄海の合戦での大勝に乗じて衣川関以南の諸郡に進出し、負名たちに「国印を捺(お)した赤符(せきふ、印の赤色)による徴税には応じるな、国印のない経清の白符(はくふ)を受けたら納税せよ」と命じた。
このような状態をどうすることもできないまま歳月は過ぎ、頼義は再度の任終年を迎えた。

安倍軍は衣川の南も制圧地域とし、国府側庫倉を劫略、多賀城近くに進出し兵糧徴収を行う。
藤原経清は、国府の徴税には応じないよう布告し、殆どを安倍氏側が徴収。
多賀城以北は安倍氏の支配領域と化す。
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11月23日
・僧念慶、若狭の当年御封米代として絹5疋・手作布45段・牛1頭を東大寺に進上。
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11月23日
・東大寺政所、若狭御封の天喜3年以来3年間の済・未済勘文を作成。
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12月
・この月、政府は、国解による兵士徴発が難しいなかで、出羽守源兼長(醍醐源氏)を更迭し、源斉頼(ただより、清和源氏)をこれに任じ、貞任の挟撃を図ろうとした。
斉頼は満仲の弟満政の孫で、満仲流の頼義とは同門の「兵の家」に属す人物。『尊卑分脈』には、出羽・出雲守、左兵衛尉・左衛門尉で武官系官職を歴任している(斉頼は鷹狩・鷹術の名人だったらしく、後世の『前太平記』にも、出羽に赴任しても鷹のことに気を奪われ、派兵のことをなさなかった逸話で知られる)。
この点では、かつての平忠常の乱にさいして軍事貴族系の受領を周辺各国に配し、これを鎮圧した場合のように、同流の「兵の家」(軍事貴族)を抜擢することで、陸奥・出羽両国の連携による危機の打開が目ざされた。
ただし、これには斉頼側が対応できず失敗に終わった。
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12月27日
・若狭の東大寺雑掌秦成安、東大寺の毎年の御封米のうち20石を進上。
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年末
・カープア候パンドゥルフス5世、没(位1049~1057)。息子ランドゥルフス6世、即位(位1057~1062)。
アヴェルサ伯リカルドゥス1世(リシャール1世)、正当な後継者ランドゥルフス6世を無視、カープア候領を支配下に置き「カープア候」を僭称。
ノルマン人国家が伝統ある古い国を吸収した最初の例。
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天喜6年/康平元年(1058)
この年
・源顕房の子・久我雅実、誕生。母は権中納言源隆俊の娘。北畠家の親元・久我家の祖。
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・マーシア伯エルフガル、内紛が止まず再度追放。
グリフィズの介入。
ノルウェー王子マグヌス2世(23)、侵入(1035~1069、位1066~1069)。
エルフガル、復位。
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・カスティーリャ王兼レオン王フェルナンド1世(カスティーリャ王1035~1065、レオン王1037~1065)、ヴィゼウを攻略・併合。
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・ロベール・ギスカール(ギスカール;狡い男)、サレルノ候ギスルフス2世と同盟関係。
ノルマン人妻アルベルダ(オーブレ、アルデラーデ)・ドゥ・ブオナルベルゴと離婚(1050年頃ノルマン人領主の1人ブオナルベルゴ領主ギラルドゥス(ジェラール)叔母オーブレと結婚)。
メルフィでサレルノ候ギスルフス2世姉妹シケルガイタと再婚(サレルノ候ギスルフス2世:ランゴバルド人、位1052~1077、南イタリア最強の君主グアイマリウス5世息子)。
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・ロベール・ギスカール、弟ロゲリウス1世(ロジェー1世)と決裂。
ロゲリウス1世、別の兄プリンチパート伯ウィレルムスに仕え、スカレーア(カラーブリア北部)を「封」として与えられる。
ロベール・ギスカール、ロゲリウス1世領を繰り返し襲撃、和解・決裂を繰返す。
1058年カラーブリアで大飢饉、ギスカールへの反乱勃発。
ギスカール、ロゲリウス1世に「カラーブリアの半分」を譲る条件で援助を求め、1062年ロゲリウス1世に約束どおりカラーブリアの半分を与える。
ギスカール、反乱加担の弟プリンチパート伯ウィレルムスを破る。
反乱終結後、ギスカール、ロゲリウス1世にスカレーアを返却させ、代わりにミレート(カラーブリア南部)を与える。 
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・デシデリウス、モンテ・カッシノ修道院長(任1058~1086)に就任(後の教皇ヴィクトル3世(教皇グレゴリウス7世の次、位1086~1087))
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・アル・バサーシーリ(1055年ブワイフ朝滅亡時のバグダード軍司令官)、トグリル不在を利用してダイラム族等の軍隊を率いバグダードを再占領。
アッバス朝カリフのアル・カーイム、アッバス朝の権利を全部放棄しカイロのファーティマ朝アル・ムスタンシル(位1035~1094)に譲渡、同時にカリフ職の聖器を譲らされる。
更に、アル・カーイムのターバンと宮廷の美しい窓1つがカイロに送られる。
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・サルジューク朝トグリル、バクダードに帰還、アッバス朝アル・カーイムを復位。
1060年アル・バサーシーリを処刑。
ダイラム人軍隊を解散。
ブワイフ朝勢力は永久に撲滅。
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・アブ・ハーミド・アル・ガッサーリ、誕生(ラテン語名アルガゼル、1058~1111)。
イスラム最大の神学者、イスラムにおける教会の父。スンナ派正統主義の最後の権威。アシュアリ(935/936没)派の最終的形態を整えアシュアリ派をイスラムの「普遍的信条」として確立。
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2月23日
・法成寺に火災。道長が造立した金堂・講堂・阿弥陀堂などが焼失。
この日夜、またも法成寺に火災。金堂・講堂・阿弥陀堂をはじめ、道長がその権勢を傾けて造立した諸堂塔は一夜のうちに灰燼に帰した。金堂造立の時から40年後のことである。
関白頼通は直ちに復興に着手して往年の威容を取り戻したが、その後間もなく、あいつぐ地震・火災に損傷を受け、数度の復興ののち、衰滅に向かい、こんにちに一物をも残さない。
天喜元年(1053)、頼通が建てた平等院鳳風堂を通して、その威観を想像するのみである。
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1月26日
・京都、新造内裏が焼失。
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3月17日
・前スコットランド王ダンカン1世息子マルコム・カンモー(27?)、アバディーンシャのストラスボギーでルーラハ王(26、位1057~1058)、を討ち、スコットランド王マルコム3世(1031?~ 1093、位1058~1093、19代 )として即位。
マルコム3世、国境のノーザンブリア領主トスティ伯と親善。
(マルカム3世:1040父ダンカン1世殺害時は9歳、伯父ノーサンブリア伯シューアドと共にイングランドに逃亡。1054スコットランド入り)
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8月29日
・「康平」に改元。
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9月
・秋、アヴェルサ伯リカルドゥス1世(リシャール1世)、ガエータ公アデヌルフス1世(位1045~1062)の「領土の一部」を獲得。
<経緯>アヴェルサ伯リカルドゥス1世娘がガエータ公アデヌルフス1世息子と婚約。
アデヌルフス1世息子、結婚前に没。
アヴェルサ伯リカルドゥス1世、その財産の1/4を娘のものとして要求、アデヌルフス1世拒否のため、アクイーノを包囲攻撃。
アデヌルフス1世、リカルドゥス1世の要求通り支払う。
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11月8日
・正五位下藤原定成を越前守に任じる。
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12月7日
・若狭国雑掌秦成安、若狭国の東大寺当年御封米を進上。
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