2014年8月13日水曜日

承暦5年/永保元年(1081) ロベール・ギスカールの東ローマ遠征 延暦寺僧徒が園城寺を焼き討ち、園城寺大衆が延暦寺を襲撃。 源義家が検非違使として園城寺の悪僧を逮捕 

東京 竹橋あたり 2014-08-07
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承暦5年/永保元年(1081)
この年
・フィリップ1世、ル・ピュイゼ城主に敗北。
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・イギリス王ウィリアム、ウェールズに侵攻。
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・ハインリヒ4世(31、1050~1106、位1056~1106)、第1回イタリア出兵(1081~1085)。
ハインリヒ4世、トスカナで皇帝特権授与。
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・~1085、ピサ、イタリア諸都市の中で最も早いコンスル制成立。
①1100年以前。
1081~85ピサ。1093ビアンドゥラーテ。1095アスティ。1097ミラノ。1098アレッツォ。1099ジェノヴァ。②1100~25。
1105ピストイア。1112~16クレモナ。1115ルッカ。1117ベルガモ。1123ボローニャ。1125シエナ
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・エル・シッド追放。
カスティーリャ王アルフォンソ6世、エル・シッド追放。
アルフォンソ6世がアンダルシーア遠征中、イスラム教徒がゴルマースやサン・エステーバンを攻撃。
留守居役エル・シッドがイスラム教徒を追い払い、トレードまで遠征、捕虜7千。
アルフォンソ6世、トレード攻撃は野心をあわわすものとのガルーシア・オルドーニェス伯の讒言を受け入れ、エル・シッド追放。
エル・シッド、追放後サラゴーサ王ムータミン・イブン・フードの傭兵隊長となり、レリダ王、アラゴン王、バルセローナ伯と戦い敗れることなし。
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・ムラービト朝、ウジュダ陥落。
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1月
・藤原通宗を若狭守に任じる。
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2月
・源義家、相模由井八幡宮を修理。
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2月10日
・「永保」に改元。
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3月5日
・興福寺僧徒、多武峰を侵し民家を焼く。多武峰僧徒、入京、これを強訴。
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・ロベール・ギスカール、東ローマ遠征開始。息子ボヘムンドゥス指揮下の遠征軍、アドリア海対岸アウローン(ヴァローナ)、カニナ、ヒエリコー征服。

支配地のアドリア海西岸パーリから、アドリア海出口に近い狭い海を渡り、対岸ドゥラッツォに上陸(現アルバニア領)に上陸。
ドゥラッツォ~コンスタンティノープルは、古代ローマ時代に造られたイニヤツィア街道が、ギリシアを横断し、ほぼ一直線に続く。かつてユリウス・カエサルがポンペイウスを追った道であり、オクタグィアヌスとアントニウスの連合軍が、ブルータスと会戦したフィリッピの野もこの街道沿いにある。

皇帝は、ヴェネツィア元首にドゥラッツォに上陸したノルマン軍の進路遮断を要請。
ヴェネツィアは海軍出動に対するビザンチン側の代償(①ヴェネツィア商業の根拠地をコンスタンティノープルにおく許可と、②ヴェネツィア商人にビザンチン商人と同じ与える)を要求。皇帝はこの条件を受諾。
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4月4日
・東ローマ皇帝ニケフォルス3世(簒奪者、位1078~1081)、没。
アレクシオス1世コムネノス(24、位1081~1118)、クーデターによりビザンティン皇帝となり、コムネノス朝を開く。内訌を続ける帝国の支配者層を纏め上げ帝国の滅亡を防ぐ。
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4月27日
・源義家、石清水八幡宮に奉幣を命ぜられる。
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4月28日
「四月廿八日、辰刻、叡山の大衆、数千の軍兵を引率し、三井寺に行き向う。ここに三井寺の大衆また数千の随兵を率いて、各々其の陣を張り、防征戦わんと欲す。ここに漸く晩景に及び、山上の大衆、楯を引いて逃げ去る。」(「扶桑略記」)。
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5月
・ロベール・ギスカール、アウローンで東ローマ遠征軍に合流。
ロベール・ギスカール艦隊、コルフ島(ケルキュウラ島)占領、ドュッラキオン(トゥラッツォ)陥落。

ロベールは、アプーリア統治を、息子ロゲリウス、ロリッテロ伯ロベルトゥス、ブオナルベルゴ伯ゲラルドゥスに委ねる。シチリアとカラーブリアの統治を弟ロゲリウス1世に委ねる。

ロベールのデュラキオン攻略戦(~1082年2月):
アドリア海を守るヴェネツィア艦隊がノルマン艦隊を焼き尽くし、そこにゲオルギオス・パレオロゴス率いるビザンツのデュラキオン守備隊が突入。双方傷つきながらも対峙。
10月ビザンツ皇帝アレクシオス自ら率いる大軍がデュラキオンに到着。ロベール軍とビザンツ軍はデュラキオン近くで総当り戦。ロベールと妻シケルガイタは兵を叱咤激励。
ボエモンドの救援によりノルマン軍が有利になり、ビザンツ皇帝軍が崩れ、皇帝アレクシオスは落ちのびる。
この野戦に大勝利し、、1082年2月21日ロベール軍はデュラキオンを陥落。
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5月21日
・ハインリヒ4世、ローマ包囲、失敗。
アプーリアで反乱勃発。
ロベール・ギスカールの留守を狙い、皇帝ハインリヒ4世のローマ包囲攻撃に呼応。
ヘルマンヌス(ロベール・ギスカール甥)、カンネ占領。
コンヴェルサーノ伯ゴフレドゥス、オーリアを包囲攻撃。
カープア候ヨルダヌス1世、皇帝ハインリヒ4世側につく。
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6月9日
・延暦寺僧徒、園城寺を焼き討ち。
「六月九日、叡山の僧徒数千人、或いは甲冑を着し、戦士を引率し、三井寺に行き向い、寺塔・僧房等を焼亡す。仏像・経巻悉く灰燼となる。余炎を免るるの堂舎等、七分の一なり。開闢以来、未だかくの如きの□禍あらず。」(「扶桑略記」)
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6月27日
・従四位上行若狭守藤原通宗、前職の周防守時代の未進につき解を出す(「続左丞抄」)。
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8月6日
・ドイツ反対派諸侯、最有力者擁立は意図的に避け、対立国王にザルムのグラーフ、ヘルマンを擁立。
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8月11日
・夜、越前守源高実、源俊房を訪問。
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8月28日
・正四位下右中弁兼越前権守藤原通俊を蔵人頭に任じる。
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9月13日
・園城寺大衆、延暦寺を襲撃。
14日、源義家、検非違使として命を奉じて園城寺の悪僧を逮捕。
15日、延暦寺僧徒、僅かに焼け残っていた園城寺の堂舎を焼き払う。
 
「九月十五日戊戌、未時、山僧数百の兵衆を引率して三井寺に行き向ふ。重ねて残りの堂舎僧房等を焼き畢んぬと云ふ。堂院二十処、経蔵五所、神社九処、僧房一百八十三処なり。但し、舎宅は之を注し載せず、その数幾千なるを知らざるのみ。門人上下各皆山林に逃げ隠れ、或は悲を含みて、黄泉に入り、或は愁を懐きて蒼天を仰ぐ。今年末法に入りてより三十年を歴たり。廿六日、辛未興福寺大衆数千人、七大寺等の諸僧を引率して洛陽に参上す。春日神民の愁に依るなり。」(「扶桑略記」)。末法思想、僧兵。
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10月14日
・源義家と弟・義綱、兵を率いて、白河天皇の石清水八幡宮行幸を供奉護衛。 
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10月20日
・東大寺、若狭封戸からの米50石の代物の仮納返抄を出す。
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10月29日
・宋使への返礼の信物のため越前に綿260斤など、諸国に糸・綿の進上を指示(「水左記」)。
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12月4日
・源義家、白河天皇の春日社行幸に際して、兵100を率い朱雀門の西に候する。
「近日の例」と称される(『水左記』など)。
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