2014年9月11日木曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(102) 「第12章 資本主義への猛進-ロシア問題と粗暴なる市場の幕開け-」(その1) 「ソ連の崩壊によって、今や自由市場が世界を独占したのだ。」 

北の丸公園 田安門(櫓) 2014-09-10
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エリツィンの経済顧問ジェフリー・サックスの変貌
 「サックスが地球規模でショック療法を推進するドクター的立場から、貧困国救済キャンペーンの先頭に立つ国際的リーダーへと変貌したのは、ロシアに初めてショック療法が施された翌年のことだった。それ以降、サックスはかつての正統派経済学界の同僚や協力者たちと意見を異にし、対立するようになる。・・・かつては国際通貨基金(IMF)やアメリカ財務省と連携することでその目的を達成できると信じていたサックスだったが、経済顧問としてロシア入りする頃にはその論調もすでに変化していた。彼はアメリカ政府の無関心ぶりに衝撃を受け、ワシントンの融資機関とも対立姿勢を強めていた。」

「シカゴ学派の改革運動が新たな段階を迎えたのがロシアだった」
 70年代~80年代のショック療法の初期段階では、アメリカ財務省やIMFには、少なくとも表面上は実験を成功させたいという思いがあった。

 70年代、「ラテンアメリカ諸国の独裁政権は国内市場を開放し、労働組合を弾圧する見返りとして、安定した融資を受けた。もっとも、チリは世界最大の銅山を従来どおり国の管理下に置き、アルゼンチンの軍事政権の民営化推進も遅々として進まずと、シカゴ学派の正統理論には合致しない部分もあったが、それでも国際融資は認可された。」

 80年代に「ショック療法を受け入れた初の民主主義国家ボリビアは、援助を受けるとともに債務も一部免除された」が、ゴンサロ・サンチェス・デ・ロサーダ大統領が民営化を推進したのは90年代になってから。

 「東側諸国で初めてショック療法を施されたポーランドでも、サックスはかなりの額の融資を難なく調達できたが、当初の民営化計画は激しい反対にあって難航し、主要分野の民営化はなかなか進まなかった。」

「ところがロシアでは事情が違った。」
 「衝撃は大きすぎ、治療は不十分」というのがロシアで行なわれたショック療法に対する大方の見方だった。西側諸国は苦痛に満ちた「改革」を容赦なくロシアに要求しながらも、その見返りにはあまりにも貧弱な額の援助しか与えなかった。・・・、ワシントンの融資機関はエリツィン大統領にそうした救いの手を差し伸べることもなく、ロシアをトマス・ホップズ流の「万人の万人に対する闘争」の渦巻く悪夢の社会へと追いやってしまった」。

 「サックス自身の記憶によれば、自分はショック療法にはさして力は入れず、もっぱら資金調達に専念していたのだという。ポーランド民主化にあたって彼が計画したのは「援助資金の安定化、債務免除、短期的財政援肋、西欧経済との統合だったが(中略)エリツィン政権から相談を受けたときも、私はこれと同じ甚本計画をロシアに提案した」*

*「実際のところポーランドでもロシアでも、サックスは段階的な変化や時間をかけた組織作りよりも大胆な刷新のほうを好んだ その一例が破壊的とも言うべきあの民営化政策だった。民営化が本格的に始まったのはサックスがロシアを去ったあとだったが、一九九四年暮れには、サックスがロシアにいた一九九二年と九三年当時に決められた基本政策が導入された」(ジョン・キャシディ、『ニューヨーカー』誌、2005)。

 「サックスは当初、戦後の西ドイツや日本に救いの手を差し伸べたときのように、アメリカ政府はそれと同じような政策でロシアを資本主義経済国家へ導こうという考えを持っていると信じていた。」

 「ポーランド政府の経済顧問となった当時は、「たった一日で一〇億ドルの援助金をホワイトハウスから取りつけた」と彼はふり返る。ところが、「同じことをロシアで実行しようと提案しても、誰も関心を示さなかった。賛同する者は誰一人としていなかったんです。IMFの連中は、気でも狂ったかというような目つきで私を見た」と彼は言う。」

 「エリツィンと彼の率いるシカゴ・ボーイズに拍手を送る者はワシントンにも少なからずいたが、肝心要の援助金をどうにか工面しようと言う者は一人もいなかった。」

 1994年、「ロシアが混乱に陥っていたさなか、サックスはこう語っている。「私の犯した最大の過ちは、エリツィン大統領に対して「ご心配はいりません、援助はすぐに来ます」と請け合ったことでした。・・・。サックスは援助金の確約を取りつける前にショック療法を強行してしまったのであり、その賭けが結果として何百万人もの人々に大きな代償を強いることになったのである。」

 「自分の失敗はワシントンの政治動向(クリントンと父ブッシュの大統領争い)を読み取れなかったことだ、とサックスは弁明した。」

「ロシアはこうした国内問題(大統領選)の犠牲にされてしまったとサックスは言う。
さらに、あのときにはほかの要因も働いた、それはワシントンの陰の実力者たちがいまだ冷戦気分から抜けていなかったことだ、と彼は続けた。彼らはロシアの経済崩壊を地政学的勝利とみなし、アメリカの優位性がこれで決定づけられたとしていた。」

 「自分の意見は通らなかったものの、この時期の対ロシア政策が自由市場イデオロギーに駆り立てられていたとは思わないと彼は言う。そこにあったのは、おおむね「怠慢」でしかなかったという」。

ワシントンの怠惰のせいだと言うだけでは、説明としてはまったく不十分
 「しかし、ロシアを見捨てた理由をワシントンの怠惰のせいだと言うだけでは、説明としてはまったく不十分だ。事情を理解するには、おそらく自由市場主義のエコノミストの視点つまり市場競争というレンズを通して見ることが必要だろう。」

冷戦の時代 資本主義の危機感 ニューディールの最終兵器マーシャルプラン
 「ソ連がまだ健在だった冷戦たけなわの時代、」「ケインズ主義は常に、資本主義が共産主義との競争に勝つ必要性と結びついていた。ローズヴェルト大統領がニューディール政策を導入したのは、大恐慌に対処するためだけではない。自由市場の暴走に振り回されてどん底に落されたアメリカ市民は、これまでとは異なる経済モデルを求めていた。ケインズ主義に基づくニューディール政策は、市民から沸き起こるそうした激しい運動をなだめる意味もあったのだ。一部の国民は極端に異なる経済モデルを求めていた。
 一九三二年の大統領選挙の際には、一〇〇万人の市民が社会主義もしくは共産主義の候補者に票を投じた。」

 「アメリカの産業界がニューディール政策をしぶしぶ受け入れた理由も、こうした社会動向から読み取る必要がある。その背景にあったのは、公共事業の雇用促進によって市場の暴走を抑制し、誰一人飢えることのない社会を目指す必要がある、そうでないと資本主義そのものの未来が危うい-という危機感だった。冷戦時代には、どの自由主義諸国でもそうした危うさを認識していた。事実、二〇世紀半ばの資本主義(サックスが言うところの「通常の」資本主義)は、北米で労働者の権利擁護、年金制度、公的医療制度、貧困層への公的援助などを誕生させたが、これらはいずれも強大化する左翼勢力を前にして、大幅な譲歩をするという実質的必要性から生まれたものなのだ。」

 「マーシャル・プランはこうした経済の最前線に投入された最終兵器だった。」

 「アメリカ政府は、ドイツ西側占領地区に資本主義システムを構築するためにマーシャル・プランを導入する。と言っても、フォードやシアーズといった米大手企業が乗り込むために新市場を大急ぎで整えようというのではない。狙いはヨーロッパ市場経済に活を入れることで、社会主義への傾倒を阻止することだった。」

 「ドイツが東西に分裂する一九四九年には、公共事業による雇用促進、公共分野への巨大投資、民間企業への補助金、強力な労働組合の是認、といった非資本主義政策を西ドイツ政府が取ることが容認された。」

 「疲弊していたドイツ企業が国際競争にさらされることなく回復を遂げられるよう、対ドイツ投資を一時停止する措置を取った」

当時のアメリカ政府はドイツを金儲けの対象として捉えていなかった
 「「当時は外国企業にドイツ市場を開放するなど海賊行為だ、という空気だった」と、マーシャル・プランの研究で名高いキヤロリン・アイゼンバーグは私に話した。「今とのいちばん大きな違いは、当時のアメリカ政府がドイツを金儲けの対象として捉えていなかった点です。」」

 「イデオロギーの対立がマーシャル・プランを生んだというアイゼンバーグの説明は、サックスの行動につきまとう盲点を浮かび上がらせる。・・・しかしアイゼンバーグが指摘するように、マーシャル・プランは博愛精神や筋道だった議論から生まれたのではなく、大衆の反乱を懸念したうえでの政策だったのである。」

ソ連の崩壊によって、自由市場が世界を独占した
 「マーシャル・プランとはそもそもロシアが脅威的存在であるがゆえに生まれたものであり、ロシアでマーシャル・プランを実現することなどありえない話だったのだ。
エリツィンによってソ連が解体されると、かつてマーシャル・プランの誕生を促したソ連の軍事的脅威も消え去った。
その脅威が消滅したことで資本主義はもっとも棒猛な形で、ロシアのみならず世界中で暴れまわる自由を突如として手に入れた。
ソ連の崩壊によって、今や自由市場が世界を独占したのだ。
それによって、経済の完全な均衡を妨害してきた「歪み」 - すなわち政府による介入を行なう必要はいっさいなくなったのである。」

西側諸国では資本の暴走を和らげる社会制度もまた崩壊の危機にさらされた
 「このことが、ショック療法に従えばすぐにでも「西欧並みの普通の国」になると約束されたポーランドとロシアで、とりわけ大きな悲劇を生むことになった。
それら普通の西欧諸国では社会的セーフティーネットが整備され、労働者の保護や医療の社会化が進み、労組も力を持っていた。
そうした社会システムは、まさに資本主義と共産主義の妥協の産物、折衷案から生まれたものだった。
だが、今や妥協の必要がなくなったことで、西側諸国では資本の暴走を和らげるこうした社会制度もまた崩壊の危機にさらされた。
カナダ、オーストラリア、アメリカでも、事情は同じだった。
ロシアにこうした社会制度が導入されるはずもなく、ましてや西側が資金援助することもなかった。」
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