江戸城(皇居)東御苑 2014-09-09
*永保4年/應徳元年(1084)
この年
・越前の平泉寺、比叡山延暦寺の末寺となる。
寺社は多くの荘園を管理することによって、土地・人民を巡り朝廷や他の領主との紛争を起こすようになり、僧兵・神人と呼ばれる武力集団を組織して時代を乗り切ろうとし、また、地方の各寺社は中央の寺社との縦の繋がりを強くし、全国的組織のもとに団結する動きもでてくる。
白山地域における白山信仰は、越前馬場(白山中宮=平泉寺)・加賀馬場(白山本宮)・美濃馬場(白山中宮=長滝寺)を拠点として盛んとなり、平安中期頃からこの3馬場間での本家争いが激しくなる。
信仰上の権威と寺勢を保つため、この年、平泉寺は比叡山延暦寺末寺となる。
加賀馬場の白山本宮(白山寺)は久安3年(1147)延暦寺別院資格を得る。
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・ムラービト朝アミールのユースフ・イブン・ターシュフィーン(位1061~1106)、セウタ(マラガのムスリム王国に属する)を征服、守備軍皆殺し。マグレブ征服完成。
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・アラゴン王サンチョ・ラミーレス、イベリア半島東部のアラベル、グラウス占領。
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・シュパイエル司教リュディガ、ユダヤ人にシュパイエル居住に関する特許状公布。
都市の上級領主が特別の権利義務を規定した特許状でユダヤ人の居住条件を定める慣習が生まれていた。
ユダヤ人は、毎年の地代支払いの見返りに貨幣両替、キリスト教徒召使い所有、肉のキリスト教徒への販売、法律上の諸権利、商業上の特許も与えられる。
(特許状の背景)
①領主側:ユダヤ人が居住すれば商業都市としての威信が増加。
②ユダヤ人側:生命の危険により都市に逃げ込んだ。
(ユダヤ人隔離の歴史)
1084年シュパイエル司教リュディガ、暴力から保護(壁で囲われた区画提供)。
1215年、第4回ラテラノ会議(ユダヤ人隔離促進)。
1276年ブレスラウの地方教会会議(目的を保護から隔離に変更)。
1434年バーゼル公会議(隔離立法の頂点)。
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2月7日
・「應徳」に改元。
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3月21日
・皇帝ハインリヒ4世、ローマへの最後の攻撃、テヴェレ川左岸も占領。
テヴェレ左岸の門サン・ジョヴァンニの門が開かれる。
ハインリッヒ4世に従う対立教皇クレメンス3世はラテラノ宮殿に入る。
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3月23日
・大公会議。
教皇グレゴリウス7世、皇帝ハインリヒ4世より招かれるが無視。
24日、グレゴリウス7世、ハインリヒ4世派枢機卿らによって解任、対立教皇クレメンス3世が教皇として叙階。
31日、ハインリッヒ4世、サン・ピエトロ寺院で対立教皇クレメンス3世から念願の神聖ローマ皇帝を戴冠。
ハインリヒ4世、再びサン・タンジェロ城を包囲、パラティウムの丘とカピトリウムの丘を占領。
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4月11日
・園城寺金堂が造営。
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5月21日
・ロベール・ギスカールのノルマン兵の大軍が迫るの知ったハインリッヒ4世、ローマ退却。
24日、ロベール・ギスカール軍、ローマ城壁前に到着。
27日、ローマ市内に入る。マルスの野地区で激戦。ロベール・ギスカール軍、ローマ掠奪。
救出されたグレゴリウス7世、ロベールと共にモンテ・カシノ→ベネヴェント→サレルノに移り、翌1085年5月12日没。「我は、正義を愛し、不正を憎めり。故に流浪に死す」。
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6月22日
・右大弁正四位下藤原正家を若狭守に任じる。
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6月24日
・ケルンのブルノー(52、1032~1101)、弟子グルノーブル司教ユーグが贈った土地に、シャルトルーズ修道院創立(カルトゥジオ会、アルプス山麓グルノーブル近く)。
カルトゥジオ会:隠修士修道院。使徒的生活・清貧・福音主義のうちに苦行を実施することで教会の改革を目指す
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8月22日
・京都に大風。
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9月22日
・藤原賢子(白河皇后、28歳)、没。
鎌倉前期に成立した説話集『古事談』には、白河天皇が危篤となった賢子から離れようとせず、臨終後もその遺体を抱いて離さなかったという話が伝わっている。
平安末期の僧皇円(こうえん)の編による歴書『扶桑略記』にも、天皇が泣き暮らし、数日食事をとらなかったことや、「主上悶絶、天下騒動」などと書かれている。
天皇は中宮・賢子の菩提を弔うために醍醐寺の中に円光院を建立。
円光院は創建当時、寺領として近江国柏原荘が施入されて、不輸(ふゆ、租税免除)の特権をえていた。
しかし、それでは足りないというので、新たに越前国牛原(うしがはら)荘が立てられることになった。荘の本主(荘園の所有者)は忠範(ちゆうはん)という東大寺の僧であったが、賢子の父である
右大臣源顕房が「券契(けんけい)を尋ねる」という行為を行った結果、忠範は荘園の文書を遍智院僧都(へんちいんそうず)義範(ぎはん)に進上し、義範をへて顕房への寄進、そして立荘がなされた。
しかも、牛原荘の場合、本主忠範の所領はわずか20町にすぎなかった。しかし、寄進地に国司が指定した荒野200町を合わせて「庄田開発庁宣」が発せられ、国司の協力をえた開発と領域設定がなされ、けっきょく200町におよぶ広大な領域型荘園が成立した。
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秋
・ロベール・ギスカール、東ローマ遠征再開、オトラントより出航。同行の息子ロゲリウス・ボルサとグイド、アウローン陥落。ロベール・ギスカール、ボトレントン(グトリント)とコルフ島を征服。
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11月
・源義国、足利に下向し牛頭天王社に太刀を寄進、足利・梁田総鎮守と定める。
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冬
・ロベール・ギスカールの東ローマ遠征軍、大疫病に襲われ、息子ボヘムンドゥス(ボエモンド)は病に倒れイタリアに送り返される。
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年末
・サレルノ公会議。ハインリヒ4世の破門、更新。判決周知のために、教皇特使を各国に派遣。
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