2015年8月14日金曜日

堀田善衛『ゴヤ』(74)「『パンと闘牛』・知識人たち」(3) : 「主題はようやく、苦(にが)く、非人間化あるいは動物や化物による擬人化、幻想化の度合いも高まって行く。しかし、そういうことの度合いが高まって行くことは、非現実化するということではない。それによってむしろ現実性と迫力が加わって行くということなのである」

ゴヤ「老婆としゃれ男」1797-99
ゴヤ「このほこり」1797-99

 それ(異端審問所への配慮)はまた、・・・発行に際して最終的に集からはずされてしまった五枚のものの図柄とそれに対する詞書からも推定されるのである。その一つは、異端審問所で裁かれている女の図で、「このほこり」という妙な題がついていて、詞書は次の通りである。「それは悪いことだ、あんなにも心のよさと働き好きな立派な女をこんなふうに扱うなんて。たかがパンの皮のせいじゃないか、それは悪い!」と。

 二枚目は、足伽つきで牢獄に放り込まれた女性像であり、三枚目は、「老婆としゃれ男」であるが、この老婆は誰の目にも王妃マリア・ルイーサと写るであろう。歯の抜けた口許を見れば、誰もがマリア・ルイーサが総入歯であったことを思い出す。四枚目は、「嘘と不貞の夢」であり、これはアルバ公爵夫人の裏切りに対するゴヤの怨嗟の表現である。そうして最後のものは、飼い犬の死を嘆く、同じくアルバ公爵夫人である。

 ゴヤ自身の個人的な事情、王妃、異端審問所、とこう見てくれば、その編集になみなみならぬ配慮が払われていることに気付かざるをえないのである。

 一七九九年二月六日付の、『マドリード日報』という新聞に、広告、というよりは公告がのった。その文章はホベリァーノスの手になるものとも、ベルムーデスのそれとも言われている。彼らがあらかじめゴヤの相談に乗っていたことは明らかである。

 過誤と悪徳に対する批判は、主として修辞学と詩の機能に属するものであるが、絵画の主題にもなりうるものであることを確信し、画家はあらゆる社会に共通する狂態と愚行、また習慣によって容認されている偏見や欺瞞、無智、利害などのうちから、映像として忌憚なく、かつ人をして激発せしむるものを選んだのである。

 まことに堂々たる宣言である。
・・・
ゴヤのこのパンフレット、版画集『気まぐれ』は、パンフレットにしてはいささか値が張りすぎる(銅貨三二〇レアール=約八〇ドル)ものではあるが、技術的にはいわゆるアクアティントとエッチングの方法を併用した、きわめて近代的なと言うべき光の効果を全的に活用している。そうして集中の何枚かはデューラーやレンブラントのそれとも並ぶものである。

ゴヤ『気まぐれ』(1番)「自画像」1797-99
ゴヤ『気まぐれ』(2番)「彼女たちは最初にやって来た男に、ハイ、と言い、手を与えてしまう」1797-99
ゴヤ『気まぐれ』(12番)「絞首刑にあった死人の歯が媚薬によく効く」1797-99
 冒頭には、新たに制作したシルクハット姿の、笑っているのか嘆いているのか、まことに微妙な表情をもつ横顔の自画像をおいて、八〇枚ワン・セットとして発売された。
発売所は、「デセンガーニォ通り二番地、香水・酒類販売店にて」となっている。
この店は、当時のゴヤの家の真向いで、おそらくゴヤ家お出入りの酒屋であったであろう・・・。

第一番 

第二番
彼女たちは最初にやって来た男に、ハイ、と言い、手を与えてしまう 

第三番 

第四番 

第五番

 人々はまず第一番のゴヤの自画像を眺めて、皮肉そうな親爺だな、と思い、次に二番で、醜い両親につきそわれた仮面の娘が、何を考えているのかわからぬ中年男に手をとられていて、「彼女たちは最初にやって来た男に、ハイ、と言い、手を与えてしまう」と題されたものを見て、結構な教訓だ、と思うであろう。第三番は、子供を狼に化けた魔法使いなどで脅かしてはならぬ、という、迷信と教育に関する訓戒である。なるほど……。第四番、どうにもならぬトツチャン小僧、甘やかされて育った子供は、大人になっても始末におえませぬぞ! なるほど……。五番、どっちもどっちだ! 果して男の方が女よりも性悪かー いやどっちもどっちだ! そうだまったくだ……。

 第十二番 

 第十三番

第十六番

 ・・・一二番、少し調子が変って来る。絞首刑にあった死人の歯が媚薬によく効く。本当にバカなことをするもんだ!一三番、熱すぎるスープをそんなにあわててすするものではない。おや、坊主が出て来たな。まったくあいつらは貪慾な奴らだからな!一六番、神よ、許し給え、(乞食は)母親だった! マドリードで一番値段の高い娼婦に寄って来た乞食は、ふり向いてみたら彼女自身の母親だった! ふーむ、一番値段の高い娼婦とはどこのどいつだろう? お前、知っているか、アミーゴ……。

 第二十四番

第二十五番 

第二十六番 

第二十八番 

第二十九番 

第三十番

ゴヤ『気まぐれ』(25番)「救いはない」1797-99
ゴヤ『気まぐれ』(26番)「こんな女どもが座るには椅子を頭の上にのっけてやれ」1797-99
ゴヤ『気まぐれ』(34番)「眠りにうちひしがれて」1797-99
 二四番二五番、異端審問所の裁判と死刑の判決が出て来た。・・・標題は「救いはない」・・・。・・・「町をひきまわして彼女に恥辱を与えようというのなら、それは時間の浪費だ、恥を知らぬ人々のなかをひきまわしてどうして恥辱が与えられるだろうか」、・・・。
・・・二六番は面白いぜ、こんな女どもが座るには椅子を頭の上にのっけてやれ、だってさ。二八番、顔をかくしたどっかの奥さんが、婆さんに逢引きの伝言を頼んでるぜ、・・・ 二九番、おや、どこかの学者らしい人が、本を読みながら眠りながら、頭をとかせて靴をはかせてもらっているわ。まあ学者なんてこんなもんだろうさ。三〇番、強慾な奴だ、八十幾つにもなって、まだ金袋をかくしたがる。・・・

第三十四番
「眠りにうちひしがれて」 - 
「起すな。眠りはおそらくこの不幸中の唯一の幸福なのだ。」

三四番 - ここに来て漫画を見ているつもりでいた人々も、襟を正すか、眼をそむけざるをえないであろう。「眠りにうちひしがれて」 - 「起すな。眠りはおそらくこの不幸中の唯一の幸福なのだ。」
黒々とした夜の岩屋を格子で囲ったような牢獄 - 地下牢獄では大抵の場合、床と称されるものはむき出しの地面であったり、岩であったりした ー そこに四人の女囚が眠っている。前景の三人は、頭から襤褸をかぶっていて顔が見えないが、正面を向いてうつむいているのは、若い女らしい・・・。

 誰だろうか、これは。
この一枚は集中もっとも厳粛かつ作者の深い同情と感動をもって描き出されているものである。
しばらくじっとこれを眺めて、はたと膝を叩き、「そうだ!」、と叫んで次のような話をする人がいるかもしれない……。「大分以前に、九四年だったかに、王妃のマリア・ルイーサがマドリードの町へ浮れて出て来たとき、ある洗濯女が、『この淫売女め! 手前ェ、衣裳やらとりまきの男どもに湯水のように金を費いやがって。こちとらはパンを買う金もないというのに!』と悪態をついて終身刑になったことがあったろう。あれ以来、マリア・ルイーサが町に出て来なくなった、あの事件を覚えているかい……」と。
 主題はようやく、苦(にが)く、非人間化あるいは動物や化物による擬人化、幻想化の度合いも高まって行く。しかし、そういうことの度合いが高まって行くことは、非現実化するということではない。それによってむしろ現実性と迫力が加わって行くということなのである。




0 件のコメント: