2015年9月2日水曜日

【増補改定版】 大正12年(1923)9月2日(その1) 「不逞鮮人」来襲の流言拡大 未明の品川警察署前(東京都品川区)「朝鮮人を殺せ」 午前5時 荒川・旧四ツ木橋付近(東京都葛飾区・墨田区)「薪の山のように」

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大正12年(1923)9月2日(日曜日)
朝鮮人暴動に関する(「不逞鮮人来襲」の)流言拡大。
朝鮮人虐殺(~7日)2,613人、中国人160人。10日迄兵員5万動員。

1日正午前の初震についで、人体に感じる余震がその日だけで128回以上に達し、翌2日は96回、3日は59回、4日は43回と連続的に大地は揺らぎ続き、2日夜、「今夜二時頃、また大地震が来るかも知れません。その時は宮内省で大砲を二発打つから、皆さん用意して下さい」(法務府特別審査局資料第一輯「関東大農災の治安回顧」(特別審査局長吉河光貞著)との流言が広がる。
しかし、砲撃音なく烈震もないが、更にそれを追うように翌3日牛後11時に大地震が発生するなどという流言が続く。
その他の流言では、政友会首脳死亡(圧死)説、山本権兵衛暗殺説、囚人釈放・暴動説(実際に、2日夜には巣鴨刑務所で騒擾、看守の抜剣警備・威嚇発砲により鎮圧)。

1日夕方~夜、東京・川崎や横浜の一部で、「社会主義者や朝醇人の放火が多い」「朝鮮人が来襲して放火した」との流言が起る。
全市が焼失して救済の見込みもなく、一部では掠奪事件も起る横浜(本牧町付近)では、1日夜7時頃、「不遇鮮人が来襲して放火する」との流言が起り、附近一帯に広がり、1時間後には、近くの北方町・根岸町・中村町、南吉田町に流布し、横浜港外に碇泊する船舶等にまで達する。
また、流言は「朝鮮人放火す」から、夜の間に「朝鮮人強盗す」「朝鮮人強姦す」というものとなり、更には殺人し、井戸その他の飲水に劇薬を投じているという流言にまで発展。
流言は、その日正午頃迄には横浜市内に拡がり、鶴見・川崎方面にまで達す。
震災で被害の甚だしい横浜市の被難民が東京西部にこれを伝える。
江東方面からもこの種の流言が広がり、2日午後迄にほ東京全市を包み、警察もこれを事実と信じて応戦体側をとる。

警視庁幹部は、「流言の根源は、一日夜横浜刑務所を解放された囚人連が諸所で凌辱、強奪、放火等のあらゆる悪事を働き回ったのを鮮人の暴動と間違えて、どこからともなくいろいろの虚説が生まれ、電光的に各方面に伝わって不祥事を引き起した」と話したという(10月22日付「報知」)。吉野作造は流言飛語の出所についてこの説をとる。

後に警視庁刑事部捜査課は、流言が横浜方面から東京府に伝わった最初の地域は荏原郡であり、同郡の六郷村をはじめ蒲田、大森、入新井、羽田、駒沢、世田ケ谷の6町と調布、矢口、池上、玉川の4分村についで平塚、馬込の2村と、目黒、大崎町にまたたく間に広がった事を確認。
捜査課の調べによると、2日牛後4時頃、六郷村方面から自転車に乗って大森町に入ってきた34~5歳の法被を着た男が、「大変な騒ぎだ。今、不逗朝鮮人千名ばかりが六郷川を渡って襲撃してき
た。警戒、警戒」と、大声で叫びながら大井町方面に走り去ったという。

2日未明の品川警察署前(東京都品川区)「朝鮮人を殺せ」
 「品川警察署は数千の群衆に取り囲まれていました。彼らは私たちを見るや、オオカミの群れのように襲いかかってきました。そのときの恐怖は言葉や文章では表すことができません」全錫弼(チョン・ソクピル)

 9月2日未明、全錫弼たちがようやくたどり着いたとき、品川警察署(現在の南品川1丁目)、二重三重に群衆に取り囲まれていた。
全は、12人の同胞とともに飯場で暮らし、大井町のガス管敷設工事の現場で働く労働者だった。地震が発生した9月1日の夕方、大井町では往来に日本刀や鳶口、ノコギリなどを持った人々が早くも現れ、「朝鮮人を殺せ」と叫び始めた。

・・・
夜遅く、警官と兵士、近所の日本人たち15、6人がやってきた。
「警察に行こう。そうしなければお前たちは殺される」
宿舎の戸を釘付けして、全を含む朝鮮人労働者たちは品川署に向かった。前後を警官と兵士、横を近所の人たちが固めて歩く。
大通りに出ると、地域の自警団が喚声をあげて襲いかかってきた。
「この連中は悪いことをしてはいない、善良な人たちだから手を出さないでくれ」
と周囲を固める近所の人たちは叫び続けるが、その隙間から次々と竹やりが突き込まれ、頭を叩かれる。
「襲われた回数は思い出せないほど多数にのぼりました」

大井町から南品川の品川署にたどり着くのに数時間かかった。そこもまた、殺気立った人々の群れに囲まれていたのだが、そのうちに署内から警官隊が出動して全たちを救出し、署内に引き入れた。警察署を取り囲む群衆の騒ぎは朝まで続いたという。

 大崎では、星製薬で作業員として働く金容宅(キム・ヨンテク)ほか4人が鳶口などで乱打されて重傷を負い、平塚でも1人の剛鮮人が竹ヤリや天ぴん棒で襲われ重傷、翌3日にも同じ場所で朝鮮人1人が重傷。品川町では地元に住む明治大学の日本人学生が朝鮮人と間違われて竹ヤリ、鳶口、日本刀で襲撃され、病院に搬送されたが結局亡くなった。

 品川警察署は、ひとつのエピソードを記録している。
「(9月2日)薄暮爆弾所持の鮮人ありとて重傷を負はせ拉し来りたるを調査するに、大和煮缶詰と二瓶の麦洒を所持したるに過ぎず」
・・・同署とその大崎分署は、合わせて130人前後の朝鮮人を保護したという。

2日午前5時 荒川・旧四ツ木橋付近(東京都葛飾区・墨田区)「薪の山のように」
 (9月1日)午前10時ごろすごい雨が降って、あと2分で12時になるというとき、グラグラときた。「これ何だ、これ何だ」と騒いだ。くに(故国)には地震がないからわからないんだよ。それで家は危ないからと荒川土手に行くと、もう人はいっぱいいた。火が燃えてくるから四ツ木橋を渡って1日の晩は同胞14名でかたまって封った。女の人も2人いた。
そこへ消防団が4人来て、縄で俺たちをじゅずつをぎに結わえて言うのよ。「俺たちは行くけど縄を切ったら殺す」って。じっとしていたら夜8時ごろ、向かいの荒川駅(現・八広駅)のほうの土手が騒がしい。まさかそれが朝鮮人を殺しているのだとは思いもしなかった。
翌朝の5時ごろ、また消防が4人来て、寺島警察に行くために四ツ木橋を渡った。そこへ3人連れてこられて、その3人が普通の人に袋だたきにされて殺されているのを、私たちは横目にして橋を渡ったのよ。そのとき、俺の足にもトビが打ちこまれたのよ。
橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった。    曺仁承(チョ・インスン)

 曺仁承は当時22、3歳。この年の正月に釜山から来日し、大阪をどを経て東京に来てから一ヵ月も経っていなかった。
9月1日の夕方以降、大火に見舞われた都心方面から多くの人が続々と荒川放水路の土手に押し寄せた。小松川警察署はその数を「約15万人」と伝えている。土手は人でいっぱいだった。曺と知人たちもまた、「家のないところなら火事の心配もないだろう」と、釜や米を抱えて荒川まで来たのである。・・・
曺らが消防団に取り囲まれたのは夜10時ごろ。消防団のほか、青年団や中学生までが加わって彼らの身体検査を始め、「小刀かとつでも出てきたら殺すぞ」と脅かされた。何も出てこなかったので、消防団は彼らを縄で縛り、朝になってから寺島警察署に連行したのである(P79地図参照)。
同胞たちが殺されているのを横目で見ながら曺は警察署にたどり着くが、そこでも自警団の襲撃や警官による朝鮮人の殺害を目撃し、自らも再び殺されかけた。

・・・
曺の証言が収められた『風よ鳳仙花の歌をはこべ』は、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」(以下、「追伸する会」)がまとめた本で、下町を中心に、朝鮮人虐殺の証言を数多く掲載している。
そのなかには、避難民でごった返した旧四ツ木橋周辺を中心に、1日の夜、早くも多くの朝鮮人が殺害されていたとする住民の証言もある。鉄砲や刀で2、30人は殺されたという。旧四ツ木橋ではその後の数日間、朝鮮人虐殺がくり返されることとなる。

 2日午前5時、曺仁承は、旧四ツ木橋周辺で山のように積まれた死体を目撃したが、この付近ではその後も数日間、朝鮮人虐殺が繰り返された。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、80年代にこの付近で地元のお年寄りから聞き取った証言が数多く紹介されている。「追悼する会」が、毎週日曜日に手分けして地域のお年寄りの家をまわり、100人以上に聞き取りを行った成果であった。
9月1日から数日間の旧四ツ木橋周辺の凄惨な状況を伝えている。

「四ツ木の橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ツ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ。(中略)雨が降っているときだった。四ツ木の連中がこっちの方に捨てにきた。連れてきて切りつけ、土手下に細長く掘った穴に蹴とばして入れて埋めた」(永井仁三郎)

「京成荒川駅(現・八広駅)の南側に温泉地という大きを池がありました。泳いだりできる池でした。追い出された朝鮮人7、8人がそこへ逃げこんだので、自警団の人は猟銃をもち出して撃ったんですよ。むこうに行けばむこうから、こっちに来ればこっちから撃ちして、とうとう撃ち殺してしまいましたよ」(井伊(仮名))

「たしか三日の昼だったぬ。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。をんとも残忍を殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」(青木(仮名))

「(殺された朝鮮人の数は)上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人くらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは『朝鮮人が井戸に毒を投げた』『婦女暴行をしている』という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが・・・、わからない。気の毒なことをした。善良を朝鮮人も殺されて。その人は『何もしていない』と泣いて嘆願していた」    (池田(仮名))

 警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んではいけをいと言ってきた」という証言も出てくる。
 北区の岩淵水門から南に流れている現在の荒川は、治水のために掘削された放水路、人工の川である。1911年に着工し、1930年に完成したものだ。1923年の震災当時には水路は完成し、すでに通水していたが、周囲はまだ工事中で、土砂を運ぶトロッコが河川敷を走っていた。建設作業には多くの朝鮮人労働者が従事していた。彼らは、日本人の2分の1から3分の2の賃金で働いていたのだが、まさにその場所で虐殺されたのである。

 9月2日から3日にかけて、軍が進駐してくると、今度は機関銃を使った軍による虐殺が始まる(後述)。
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