大正12年(1923)9月3日月曜日
午後4時 永代橋付近(東京都江東区・中央区) 暖昧さに埋められているのは
・その日は小雨が降っていた。
午後4時、永代橋付近で朝鮮人が軍と群衆によって殺害され、遺体が隅田川を流れていった。その数は「約30名」、あるいは「約32名」。
洲崎警察署より護送援助を請求せられたる特務曹長島崎儀助の命を受け巡査5名共に洲崎にて暴行せし不逞鮮人約30名を同署より日比谷警視庁に〇〇〇(判読不能)永代橋に至りたるに橋梁焼毀し不通のため渡船準備中1名の鮮人逃亡を始めしを動機とし内17名、突然隅田川に飛込みしを以て巡査の依頼に応し実包17発を河中に向て射撃す 河中に入らずして逃亡せんとせし者は多数の避難民及警官の為めに打殺せられたり
『関東戒厳司令部詳報』「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」
永代橋は、9月1日夜、大量の避難民を乗せたまま焼け落ちていた。
3日、ここで朝鮮人殺害を実行したのは野戦重砲第1連隊第2中隊の島崎特務曹長指揮下の兵士3人。「事件調査表」本文では連行していた朝鮮人の数を「約30名」としているが、被兵器使用者の欄には「約32名(17名氏名不詳)」となっている。
震災時の朝鮮人虐殺の研究の第一人者、滋賀県立大学姜徳相名誉教授は、これに激しい怒りをぶつけている。
「『約32名』『30名』という人間連行はなにを意味するのか。『約』とは『およそ』『ほぼ』という、不確かなことばであるが、この曖昧のなかに2人の人の尊厳が埋められていることに気がつかねばならない。うかびあがるのは鴻毛(こうもう)の軽さともいうべき朝鮮人の命である」
逃亡をきっかけとした事件のように書かれているが、川に飛び込んだ17人を17発の銃弾で射殺するとはいかにも不自然である。実際には隅田川まで連行して射殺、死体処理の省略のために川に流したのだと姜は推測する。2日前の永代橋の惨劇によって、この付近には死体が無数に浮いていた。後に回収された溺死体は数百に上る。
『関東戒厳司令部詳報』は陸軍の作戦行動の記録をまとめたもので、「事件調査表」はその一部。そこには、戒厳軍が民間人を殺害した多くの事例が、殺害理由とともに列記されている。
「怪しき鮮人か爆弾の如きものを民家に投け…棍棒を以て殴打昏倒せしむ」
「該鮮人は突然右物人より爆弾らしきものを取出し将に投擲せんとし危険極なかりしを以て自衛上止むを得す之を射殺せり」など。
だが、爆弾「らしきもの」が本当に爆弾なのかどうかを確認した形跡もないどころか、朝鮮人の死体も決まって「已ムナク其儘放置」されている。問答無用の殺害と死体遺棄を正当化するこじつけなのだろう。
「事件調査表」にまとめられた殺害事例は20件。カウントされている被害者数は266人(うち朝鮮人39人、中国人(軍は朝鮮人だと強弁)200人、日本人27人)に上る。
これに、司法省の部内調査書にある軍の殺害記録のうち「事件調査表」と重ならない21人(朝鮮人13人、日本人8人)を加えると287人となる。
もちろん、それは実際にあった殺害事件のごく一部にすない。
当時、陸軍大尉として野戦重砲兵第3旅団で参謀的な役割を担っていた遠藤三郎(1893~1984、終戦時、陸軍中将)は、70年代にノンフィクション作家、角田房子(1914~2010)の取材にこう答えている。
「・・・悪いとはわかり切っているが、しかし当時の兵隊は朝鮮人を一人でも多く殺せば国のためになり、勲章でももらえるつもりだった。それを殺人罪で裁いてはいけない。責任は、兵隊にそんな気持を抱かせ、勝手にやらせておいた者にある」(『甘粕大尉』)
・3日夜、東北本線石橋駅構内で、「下り列車中に潜んで居た氏名不詳の鮮人2名を引き下し、メチャメチャに殴り殺」す事件があった。(上毛新聞1923年10月25日(『関東大震災における朝鮮人虐殺と実態』)
・朴烈(25)、東京世田谷署に保護検束。翌日、金子文子(20)も。
10月治安警察法容疑で、13年2月爆発物取締罰則違反で、起訴。
大正14年7月大逆罪で起訴。
15年3月25日死刑宣告。4月5日、無期に減刑。
7月23日金子文子自殺。29日怪写真事件問題化。
朝鮮人殺害と併行して多数の朝鮮人が警察・軍隊に「保護」される。その数は10月末迄に全国30府県で2万3715名。実際は暴動防止の検束で、危険と判断されれば殺害される可能性のあるもの。
しかも9月中旬、日本人の朝鮮人に対する悪感情をなくすという理由で、収容朝鮮人を焼け跡の道路整備に従事させる。
朴烈:
明治35年2月3日没落両班の家柄に誕生。京城高校師範科3年中退。日本に渡る。
大杉栄・岩佐作太郎のもとに出入りし無政府主義に共鳴。
大正10年暮、岩佐指導で在日朝鮮人20余が「黒濤会」結成。12月解散(朴烈の無政府主義派と金若水の共産主義派の対立)。
後、無政府主義者だけで「風雷会(「黒友会」と改称)結成。
大正11年春金子文子らと「不逞社」結成、機関紙「太い鮮人」「現社会」発刊。
朴烈怪写真事件:
「不逞社」同人金重漢の恋人新山初代が取調べ中、黒友会での朴烈と金重漢のいさかい(朴が爆弾調達を依頼した後、それを断る)について供述。
朴烈、金重漢、金子文子は爆発物取締違反で追予審請求となる。予審過程で、東京地裁予審判事立松懐清が大逆罪に持ちこむため、被告を懐柔する目的で朴と金子を会わせ、写真をとる。この写真が外部(右翼筋)に流れる。
・内務省、朝鮮人暴動が事実無根の風説と気付き始め、新聞各社に警告書を出す。
「朝鮮人ノ妄動ニ関スル風説ハ虚伝ニ亙ル事極メテ多ク、非常ノ災害ニ依リ人心昂奮ノ際、如斯虚説ノ伝播ハ徒ニ社会不安ヲ増大スルモノナルヲ以テ、朝鮮人ニ関スル記事ハ特ニ慎重ニ御考慮ノ上、一切掲載セザル様御配慮相願度、尚今後如上ノ記事アルニ於テハ発売頒布ヲ禁止セラルル趣ニ候粂御注意相成度」。
・戒厳令を東京府、神奈川県全域に適用。
戒厳司令部は報道に対する戒厳令処置として、「警視総監及関係地方長官並警察官ハ、時勢ニ妨害アリト認ムル新聞、雑誌、広告ヲ停止スルコト」との発禁命令も出す。
・練習艦隊(司令官斉藤七五郎中将)磐手(米内光政大佐)・浅間・八雲、遠洋航海中止し震災救援に向かう。佐世保発。6日、横須賀着。20日迄に11,500の罹災者輸送。
・国鉄、避難地迄の無賃乗車許可。
・米、メキシコ政府を承認。
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