2015年9月5日土曜日

【増補改定版】 大正12年(1923)9月2日(その3終) 夕方~夜 間違えられた日本人 「千田是也」を生んだ出来事 / 烏山の惨行 烏山神社の13本の椎の木

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大正12年(1923)9月2日(その3)
 警視庁は、自動車・ポスター・メガホンなどにより朝鮮人来襲の報を全市に撒く。
2日午後、内務省警保局長後藤文夫は、騎馬伝令を船橋送信所に派遣し、地方長官に宛てて打電。
 「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる項締りを加えられたし」。
朝鮮人暴動の流言は、事実と断定され、警察と軍隊の通信網によって伝えられ、新聞も報道し、たちまち全国に広がり、流言には尾ひれが付いてゆく。

 「朝日新聞社史」が挙げる警視庁に市内各警察署から報告された具体例。
①1日午後3時頃「社会主義者および朝鮮人の放火多し」、
②2日午後2時頃「朝鮮人約二百人神奈川県寺尾山方面において、殺傷、掠奪、放火等をほしいままにし、東京方面に襲来しつつあり」「朝鮮人約三千人多摩川をわたりて洗足村および中延付近に来襲し、今や住民と闘争中なり」など、流言飛語は時間の経過につれて規模が広がり、具体的になる。

 吉野作造は、在日朝鮮人学生が結成した「在白朝鮮同胞慰問会」の調査委員から得た東京府、横浜市、埼玉、群馬、千葉、長野、茨城、栃木各県の被害総計として、10月末迄に殺害された朝鮮人の数を2,613名と結論づける。
彼は、改造社が企画する「大正大震火災誌」に、「朝鮮人虐殺事件」「労働運動者及社会主義者圧迫事件」を執筆し、前者の文中に殺害された朝鮮人の政を2,613名と記し、虐殺現場の地名も克明に書きとめるが、内務省はこの発表を禁じる。
発行された「大正大震火災誌」の吉野作造論文「労働運動者及社会主義者圧迫事件」の末尾に、編集者の「お断り」を記す。
「法学博士吉野作造氏執筆「朝鮮人虐殺事件」・・・は、豊富なる資料と精細なる検討に依って出来た鏤骨苦心の好文字であったが、共筋の内閲を経たる結果遺憾ながら全部割愛せざるの巳むなきに到った。玆に記して筆者及び読者の御諒恕を仰ぐ」。
尚、「在日朝鮮同胞慰問会」のその後の調査では、殺害された朝鮮人の実数は6千以上に達すると発表されている。

 布施辰治は「日本弁護士協会録事大正13年9月」で、官憲当局の発表は、朝鮮人の被害者数が一桁少なく、しかも殺害の原因となった流言飛語の出所を突き止めていない、これは流言飛語を放った者の正体が暴露されるのを恐れるためではないのか、と指摘。また罪を自警団だけに帰し、官憲・軍隊が虐殺に関係しないという当局の言い方はあまりに白々しい、と官憲が関係した犯罪であることをも示唆。

 埼玉県内務部長通牒「不逞鮮人暴動に関する件」、各町村役場に通達。各町村で自警団が組織され警察署共に朝鮮人殺害。
 「東京に於ける震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和し、以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を拝はんとする虞有之候。就ては此際警察力微力であるから町村当局者は、在郷軍人分会、消防子、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ、一朝有事の場合には速かに適当の方策を講ずるよう至急相当手配相成度き旨其筋の来牒により此段移牒に及び候也」。

 夕刻近く(午後4時または6時)、東京市と府下5郡に戒厳令施行。緊急勅令による戒厳令の一部施行。
 「朝鮮人来襲」の流言が広がると、水野内相は戒厳令施行の方針を決める。これを公布するには枢密院の議を経る必要があが、枢密顧問官を集めることができない為、伊東巳代治顧問官の諒解を得て、政府の責任で公布することになる。2日夕方近く、戒厳令の一部が東京市と府下の荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の5郡に施行。

 戒厳司令官は、戒厳の目的に必要な限度で、地方行政事務と司法事務の指揮権を掌握、集会・新聞・雑誌・広告の停止、兵器・火薬等の検査・押収、郵便・電信の検閲、出入物品の捜査、陸海通路の停止、家屋への立入り検査などの権限を持つようになる。朝鮮人暴動の流言が戒厳令施行の契機となったように、この戒厳は臨戦戒厳の一面も帯びている。戒厳司令官森山東京衛戌司令官は、指揮下軍隊に対し、「万一この災害に乗じ非行を敢てし治安秩序を紊るが如き者あるときは、これを制止し、もしこれに応ぜざる者あるときは、警告を与えたる後、兵器を用うることを得」との訓令を発す。戒厳は、暴徒鎮庄が直接の目的である。東京衛戊司令部は、地震直後から活動、1日夜、近衛・第1両師団の全部隊を東京に呼び寄せ、戒厳令施行後は、陸軍は、習志野から来援の20数騎の騎兵に東京全市を駆け巡らせ、軍隊の到着を知らせる。騎兵の馬蹄の響きは、恐怖と不安に満ちた人々に活気を蘇らせ、これを喜び迎える。

 第2次山本権兵衛内閣成立
 夕刻、親任式。蔵相に元日本銀行総裁の井上準之助就任。首相山本權兵衞、外相山本權兵衞(兼務)、内相後藤新平、蔵相井上準之助、陸相田中義一、海相財部彪、法総田健治郎(兼務)、文相犬養毅(兼務)、 岡野敬次郎、農商務相田健治郎、逓相犬養毅、鉄相山之内一次。

内務大臣後藤新平:
台湾の民政長官(台湾人虐殺)、米騒動時の外務大臣(水野錬太郎の後継。水野は米騒動・「3・15事件」のあとの内務大臣、朝鮮総督府政務総監)。山辺健太郎説では、食糧暴動を防止するため、政府に向う民衆の反抗を朝鮮人に向ける。

東京衛戍司令官森岡守成中将は東京以外の地方師団の出兵を求め、「万一、此ノ災害ニ乗ジ、非行ヲ敢テシ、治安秩序ヲ紊ルガ如キモノアルトキハ、之ヲ制止シ、若シ之ニ応ゼザルモノアルトキハ、警告ヲ与ユタル後、兵器ヲ用ウルコトヲ得」と、訓令。

後藤内相、親任式後から直ちに帝都復興に取り組む。
根本策。
①遷都せず、
②復興費30億円、
③欧米最新の都市計画を採用する、
④地主に対し断乎たる態度をとる。
 後藤は、日清戦争後の台湾経営や日露戦争後の満鉄経営に手腕をふるい、2年前にも東京市長として8億円の都市改造計画を立案、大風呂敷の評判をとっていた。
後藤の復興計画案は、大蔵省との折衝で、復興費総額12億円、うち5億円を各省に配り、7億200万円が東京・槙浜の復興と都市計画にあたる帝都復興院の予算に組まれる。

間違えられた日本人 「千田是也」を生んだ出来事
 2日夜、演劇青年伊藤国夫(19歳)は、軍が多摩川沿いに展開し、神奈川県方面から北上してきた「不逞鮮人」集団を迎え撃って激突しているという噂を耳にした。
戦場は遠からずこの千駄ヶ谷まで拡大してくるに違いないと、彼は二階の長持の底から先祖伝来の短刀を持ち出し、いつでも使えるように便所の小窓の下に隠しておいて、隣家の人とともに家の前で杖を握って「警備」についた。
だが、いつまでたっても何も始まらない。業を煮やし、千駄ヶ谷駅近くの線路の土手に登ってみると、闇の奥から「鮮人だ、鮮人だ」という叫び声が聞こえてきた。さらに、こちらに向かっていくつもの提灯が近づいてくる。彼は、挟み撃ちにしてやろうと、提灯の方向にまっしぐらに走り出した。

そっちへ走って行くと、いきなり腰のあたりをガーンとやられた。あわてて向きなおると、雲つくばかりの大男がステッキをふりかざして「イタア、イタア」と叫んでいる。
登山杖をかまえて後ずさりしまがら「ちがうよ!・・・ちがいますったら!」といくら弁解しても相手は聞こうともせず、ステッキをめったやたらに振りまわしをがら「センジンダア、センジンダア!」とわめきつづける。

そのうち提灯たちが集まって来て、ぐるりと私たちを取りまいた。見ると、わめいている大男は、千駄ヶ谷駅前に住む白系ロシア人(ロシア革命時に日本に亡命してきたロシア人)の羅紗売りだった。そっちは朝鮮人でないことは一目でわかるのだが、私の方はそうは行かない。その証拠に、棍棒だの木剣だの竹槍だの薪割だのをもった、これも日本人だか朝鮮人だか見分けのつきにくい連中が、「畜生、白状しろ」「ふてえ野郎だ、国籍をいえ」「うそをぬかすと、叩き殺すぞ」と私をこづきまわすのである。「いえ、日本人です。そのすぐ先に住んでいるイトウ・クニオです。この通り早稲田の学生です」と学生証を見せても一向ききいれない。そして薪割りを私の頭の上に振りかざしまがら「アイウエオ」をいってみろだの、「教育勅語」を暗誦しろだのという。まあ、この二つはどうヤら及第したが歴代の天皇の名をいえというにはよわった。

この直後、自警団のなかにいた近所の人が彼に気づき、伊藤は怪我もせずにすんだ。彼は後に、この日の出来事にちなんで「千田是也」という芸名を名乗るようになる。千駄ヶ谷のコリアンという意味である。千田是也はその後、俳優座を立ち上げるなどど、演出家、俳優として成功し、90歳で亡くなった。"

東京日日新聞(1923年10月22日付)の読者の投書。
「私は、三田警察署長に質問する。9月2日夜、××襲来の警報を、貴下の部下から受けた私どもが、ご注意によつて自警団を組織した時、『××と見たらは、本署へつれてこい、抵抗したらは○しても差し支えない』と、親しく貴下からうけたまはつた」

2日夜「烏山の惨行」
「東京日日新聞」1923年10月21日付
9月2日午後8時頃、北多摩都千歳村宇島山地先甲州街道を新宿方面に向かって疾走する一台の貨物自動車があって、折から同村へ世田ヶ谷方面から暴徒来襲すと伝えたので、同村青年団、在郷軍人団、消防隊は手に手に竹やり、棍棒、トビロ、刀などをかつぎ出して村の要所要所を厳重に警戒した。
この自動車もたちまち警戒団の取締りを受けたが、車内に米俵、土工(土木工事)用具をどとともに内地人(日本人)1名に伴われた鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原の土工親方、二階堂左次郎方に止宿して労働に従事していた鮮人で、この日、京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼があり、それにおもむく途中であった。

朝鮮人と見るや、警戒団の約20名ばかりは自動車を取り巻き二、三、押し問答をしたが、そのうち誰ともをく雪崩れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の鮮人に重軽傷を負わせ、ひるむと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえりみるものもなかった。
時を経てこれを知った駐在巡査は府中署に急報し、本署から係官が急行して被害者に手当てを加えるとともに、一方で加害者の取調べに着手したが、被害者中の1名は翌3日朝、ついに絶命した。(中略)
加害者の警戒団に対しては10月4日から大々的に取調べを開始した。18日までに喚問した村民は50余名におよび、なお目下引き続き署長自ら厳重取調べ中である。

 朝鮮人労働者たちは、京王電鉄笹塚車庫の修理のために向かっている途中だった。命を落としたのは洪其白、35歳。ほかに3人が病院に送られた。
震災後、旧甲州街道では都心から脱出して西へ向かう避難民の列がえんえんと続いていた。力尽きて路上に倒れる人もいたという。そうしたなか、夜ふけの道を反対に都心へと走るトラックを見たとき、自警団の人々はさぞ怪しいと決めつけたに違いない。

10月に入り、各地で自警団による朝鮮人殺害事件が立件されると、鳥山村にも検事が入り、50人以上が取調べを受ける。12人(13人という資料もある)が殺人罪で起訴される。なかには大学で英語学を教える教授もいた。

世田谷区発行『世田谷、町村のおいたち』(1982刊行)の中で、
近所(粕谷)に住んでいた徳富蘆花(1868~1927)の随筆『みみずのたはこと』が事件に言及していることを紹介し、
「今も烏山神社(南鳥山2丁目)に13本の椎の木が粛然とたっていますが、これは殺された朝鮮の人13人の霊をとむらって地元の人びとが植えたものです」
と記している。

 荒川河川敷で慰霊式典を続けている「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」が纏めた資料集にある烏山事件を報道した東京日日新聞の府下版の記事には、烏山事件の全被害者名が列挙されており、死者は洪其白1人となっている。

殺人罪で起訴された被告に同情する椎の木という事実
1987年発行『大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞』によると、
「このとき(12人が起訴されたとき)千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。十歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない、すべては未曾有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さがが大きく作用したことは厳粛な事実だ」

椎の木は朝鮮人犠牲者の供養のためではなく、被告の苦労をねぎらうために植えられた可能性が濃厚である。
この文章には、殺された朝鮮人への同情の言葉も盛り込まれてはいるが、それ以上に殺人罪で起訴された被害たちの「ご苦労」への同情が強調されている。

世田ケ谷警察署
鮮人を本署に拉致するもの2日の午後8時において既に120名に及べり。

 「夜に入りて発熱三十九度。時に○○○○○○○○(不逞な鮮人の暴動(の噂))あり。僕は頭重うして立つ能はず。円月堂(渡辺庫輔)、僕の代りに徹宵警戒の任に当る。脇差を横たへ、木刀を提げたる状、彼自身宛然たる○○○○(不逞鮮人)なり」(「大震前後」9月2日条(「女性」10月))。

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