柳原義達 『犬の唄』
美術館の説明
柳原義達 1910-2004
犬の唄 1961昭和36年
女性の像につけるにしては奇妙なタイトルです。
これは、フランスの歌手エンマ・ヴァラドン(1837-1913)が歌っていた歌謡曲、いわゆるシャンソンに基づいています。
それは、普仏戦争(1870-71)に敗れたフランス人の心情、つまり抵抗する気持ちを心の奥で持ちながらも、表面上は犬のようにプロイセンに対して従順さを示すことをうたった歌でした。
実はこの歌手を、ドガ(1834-1917)も描いています。
柳原の作品とは、背をそらし、手を前に出しているポーズが共通しています。
しかし違いもあります。
ドガの作品では、両手がともに前になっているのに対して、柳原の場合、片方の手は後ろにまわされているのです。
三重県立美術館
柳原義達-生のあかしとしての彫刻
(略)
戦争前後
柳原が東京美術学校を卒業した年には二・二六事件が起こるなど、1930年代以降日本は戦争に向かって突き進んでいったが、その中で柳原の意識は「放心的空間の中をさまよっていた」という。戦争が激しさを増すとともに、その影響は柳原の周辺にも及んできた。学徒動員でニューギニアに出兵した実弟が戦死した体験、召集令状を受け取り入隊する部隊へ出発しようとしたその日に終戦となったという特異な体験の中で感じた「自嘲と空虚、割り切れぬ屈辱」感、さらに戦後間もない時に銀座の路上で突然アメリカ兵に殴られた時の「あきらめの心と、[何だ]が重なった」体験。こうした戦争前後の体験を振り返って、「戦争の無意味さの自覚に生きて、その戦争に対する私のアイロニーとレジスタンスの精神が、この自己への芸術生活への支柱になるだろうことを願っている」と柳原は記している(註5)。
また、1946(昭和21)年、柳原は佐藤忠良とともに作品を預けていた家が火災にあって、それまでに制作した作品のほとんど全てを焼失してしまう。これを「もうどうすることも出来ない記憶喪失者のように、私の過去の制作はなくなった」、「とりかえしのつかない災難」と自覚した柳原は、「私なりのレジスタンスとして[犬の唄]という主題で作品をつくることになった」という(註6)。
「犬の唄」(シャンソン・ド・シャン)とは、直接的には印象主義の画家エドガー・ドガの水彩作品《犬の唄》(1876-77年頃)に由来している。それは、普仏戦争後のパリのカフェ・コンセールに出演していた歌姫エンマ・ヴァラドンがうたった、戦争に敗れたフランス人のレジスタンス精神を込めたシャンソンであったという。敗戦後のやり場のない屈辱、不満、自嘲、虚しさを柳原は、《犬の唄》に託したのである(註7)。
このように、美術学校時代から終戦までの柳原周辺の出来事たどってみると、1930年代後半から日本が戦争に敗れた1945年頃までの約10年間に、戦争にまつわる様々な体験を通じて、彫刻家として生きていく上での信条、倫理観が成熟していったということができるだろう。
(略)
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