2016年3月19日土曜日

堀田善衛『ゴヤ』(91)「巨人の影に」(4) 「五月二日、マドリードでの暴動、虐殺。一五〇人のフランス兵が殺され、三〇〇人以上のスペイン人が、虐殺、あるいは二日の夜から三日の朝にかけて処刑された。・・・ ・・・ナポレオンは呟いた。 - ミュラの奴、何を考えているか知らぬが、これでスペイン国内で五万丁の小銃を、マンチェスター(英国)で一〇〇門の大砲を鍛造させることになる。」

皇居東御苑 2016-03-15
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・・・四月に入って状況は決定的に悪くなって来た。フランス軍がピントオ村を占領した。ゴドイが武力で釈放されるのではないかと恐れたフェルナンドは、マドリードの西一八キロのところにあるビリャビシオーサなる村の教会に移すことにした。六〇〇人近い護送兵がついて、教会はこれも同数の兵で厳戒態勢がしかれた。
この頃にはゴドイはもう体力を恢復し、傷痕も眼の下に一つ見られるだけになっていた。・・・そこへ、ミュラ将軍の副官が見舞いに来て、彼の元気な姿を喜んだ・・・。

しかし、スペインの民衆にとっては、はじめフランス車はゴドイを罰するために入って来てくれた、と信じられていたのに、それがそうではないことがはっきりしはじめ、マドリードでもフランス車との間にこせり合いやら流血の喧嘩騒ぎがしきりに起るようになった。ゴヤの『五月の二日』「五月の三日』への無気味な序曲がすでに奏でられはじめているのである。

ミュラはフェルナンドをこれ以上マドリードに置いておくことは危険である、と判断をし、仏領のバイヨンヌまで行って皇帝に会うように、と圧力をかけた。・・・"

四月九日、カルロス四世とマリア・ルイーサは苦い思い出のあるアランホエースの美しい離宮を出て北上し、監獄のように頑丈なエル・エスコリアール離宮に移った。その方がフランス軍によって保護しやすく、かつフェルナンド周辺からの圧迫からも守りやすかったからである。

四月一〇日、新王がマドリードを発った。馬車の止まるところはすべてフランス車の駐屯地である。もはや、新王も旧主もフランスの囚人である。状況がかくの如くであるにも拘わらず、この青年は決定的な間違いを犯した。留守をあずかっている叔父のアントニオ殿下に、途中から、

よしなに統治をしてもらいたい、あの呪われたフランス人どもがあなたに悪いことを仕掛けぬよう気をつけられよ。

などといういらぬことを書き送ったのである。手紙は、当然、フランス車におさえられた。この密書の翻訳を耳にしたナポレオンは”呪われた”という語のスペイン語(malditos)をたずね、イタリア語での maledetto とほとんど同じだね、と言った。あとにのこるものは徹底的な軽蔑だけである。

四月一三日、ナポレオンは近時のスペインの最高位の統治者全員にバイヨンヌへの召集を命じた。そのなかに、ゴドイも含まれていた。
マドリードの政府は、言うまでもなく極度に不満である。しかし、従わざるをえない。

四月二一日の午前三時にゴドイはミュラ将軍の副官にわたされ、馬車はマドリードを経由してパイヨンヌへと北上する。・・・。
ゴドイの釈放はたちまち首都じゅうに知られ、民衆の怒りは圧力をまして陰にこもって行く。・・・。
一方、・・・マドリードのアントニオ殿下は、「毒虫(マリア・ルイーサ)の奴め、とうとう腸詰め大公(ゴドイ)の釈放に成功した」などとフェルナンドに書き送り、これまたナポレオンにおさえられる。
ゴドイは麦の穂の風になびくカスティーリアの赤黄色の高地を旅し、古都バリァドリード、ゴチックの大聖堂の塔のそびえるブルゴスなどを経てビトーリアからピレネーの山脈にかかる。・・・。
彼が生涯、二度と見ることのない祖国である。
カルロス四世とマリア・ルイーサもゴドイから二日遅れで、同じ道を辿る。
彼らもまた二度と見ることのない、かつての、彼らの王国である。

カルロス四世にとっての王位とは、・・・、いわば世襲の地主のようなものであった。・・・、カルロス四世はスペインの地主であり、マヌエル・ゴドイはこの土地の管理人なのであった。但しこの土地なるものは、インドと呼ばれる北米南部、メキシコ及び中南米とフィリピン、モロッコをも含む莫大なものであった。
この地主が怒ったのは、自分がまだ生きているのに、恩知らずの息子が無理矢理はもぎ取ろうとしだからである。だからそういう不愉快千万な息子にタダでやるくらいなら、隣りの立派な風采の地主に条件つきでやってしまった方がいい。その条件とは、隣りの領地中のどこか気候のよいところに域館と狩猟地付き、年金つきで安楽に余生を暮させてくれること、という、それだけである。・・・。

・・・このあと、ゴドイとともにこの地上の三位一体は、フランスのコンビエーニュ、マルセーユ、ローマ、ナポリと豪勢な浮浪の徒となるのであるが、その後の祖国での戦争、動乱、恩知らずの息子の復帰などのことに思いを致したことなど皆無のようである。
バイヨンヌでの皇帝の招宴で、まず発したことばが、「マヌエルはどこにいますか?」であり、皇帝が微笑をしてマヌエルを呼びよせると、すっかり愁眉を開いてブルボン家に特有の一大食慾ぶりを発揮する。
・・・
一方、マヌエル・ゴドイについて言えば、この男は、二五歳で宰相となって以来一六年間、ほとんど間断なくスペインの独裁者であった。そうしてこの一六年間を振りかえってみれば、彼もまた彼なりのやり方で、民衆には憎まれながらも、スペインを愛して来たものであったとは言えることであろう。彼はスペインの古来からの習慣や伝統、仕来りを理解し、その上で徐々に近代化し、ヨーロッパ全体の変貌にも付き合って行こうとした。ペスタロッチの教育法をとり入れさせもしたのである。
しかしフランス革命から生れたナポレオンという、それまでの歴史がかつて知らなかった新しい質の、”現代”という一大旋風と相対しては、やはり対処すべき法をもたなかった。それまでの小細工や陰謀術策などは通用しなかった。それに、彼はまたスペイン民衆の奥の奥にある強烈な暴力性を認識することが出来なかった。
これだけの能力ある独裁者が追放されての後に、祖国への、権力者としての再復帰を一度も企てたことがなかったとは想像しにくいことではあるが、爾後四三年もまだ生きるのに、事実としてそのような野心に襲われたことは一度もなかったのである。・・・。

新王も旧主もナポレオンに呼びつけられていなくなり、ミュラ将軍麾下のフランス兵に占領をされて、マドリードは完全な無政府状態となった。

・・・、ナポレオンは新王、旧主、ゴドイと個別会談をつづけながら熟慮をしていた。・・・。
五月五日午後のことである。
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・・・マドリードからミュラの急使が早馬で駈けつけて来た。・・・。
五月二日、マドリードでの暴動、虐殺。一五〇人のフランス兵が殺され、三〇〇人以上のスペイン人が、虐殺、あるいは二日の夜から三日の朝にかけて処刑された。・・・
・・・ナポレオンは呟いた。
- ミュラの奴、何を考えているか知らぬが、これでスペイン国内で五万丁の小銃を、マンチェスター(英国)で一〇〇門の大砲を鍛造させることになる。
ここでもナポレオンは無比に適確な予見をしている!

カルロス四世に命じて皇太子フェルナンドを呼び出させた。王妃とともに四者会談である。・・・。
カルロス四世が叫ぶ。
-とうとうお前は余の臣下とわが友ナポレオンの兵の血を流させた。お前は何も知らないと言うだろうが、この大混乱を組織したのがお前だということを、このわしが知らぬとでも思っているのか。お前は、スペインに流血の未来を用意しているのだ!
怒りにまかせた父王は、杖で息子の肩を叩いて歩かせた。王妃マリア・ルイーサは、これはもう容易に想像できるであろう。
- この私生児め! お前なんか父なし子だ!(しかし、彼女自身が生んだことに間違いはない!)驢馬の頭に虎の心臓め!私たちを滅してさぞいい気持だろう! その首をぶった切ってやるといいんだ! ギヨチンがいい、ギヨチンだ!
王妃は息子に飛びかかっていって撲りつけようとする。
見るに見かねたナポレオンが介入する。
- 今夜半までに、君の父君を正式の王として認めないならば、爾後君を叛逆者と見傲す。行け!
一方でゴドイとナポレオンの副官サヴァリイは、王位譲渡とフランスでの隠退生活のための名誉ある諸条件の交渉を進めていた。皇太子をナポレオンの”人質”だの、”殉教者”仕立てになどされてはならぬからである。"

皇太子は自発的に退位し、王位を父にかえす。そうしてゴドイ・サヴァリイ議定書にもとづいて、スペイン王位は自動的に皇帝ナポレオンに手渡される。ミュラ将軍は皇帝の代理執行者に任命される。
また戒厳令下のマドリードでは、・・・、五月一五日、国家評議会議長のカバリェーロ侯爵(・・・)は、全会一致で次のような、皇帝ナポレオンあての著名な声明書を出す。

もはやピレネーは存在しない。それは良きスペイン人がその実現をつねに望んで来たことであった。王位が求めているものは、陛下の威けき兄君である。

五月一九日、ナポレオンの宣言が布告される。

スペイン人諸君!
長きにわたる懊悩の末、諸君の国家は無に帰した。余は諸君の病弊に接し、これを救済せんとするものである。諸君の偉大はまた余のものでもある。
余は、各地方、各都市の代表による全体会議を招集せしめた。余自ら諸君の要望と必要事を確認せんがためである。その際、余の一切の権利と、諸君の光栄ある王冠をもう一人の余自身の頭上に置くものである。同時に憲法を制定し、人民の自由と権利と、広汎かつ有効な王権との調和をはかるものとする。
スペイン人諸君! 諸君の父祖の業を思い起し、かつ足許の現実を見られよ。誤りは諸君にあるにあらずして、諸君を管理せし悪しき行政にあるのである。現状に希望と信頼を寄せられよ、如何となれば、余は諸君の子孫が余を追憶して、以下の如く言うことを望むものであるからである。すなわち、われらが祖国の更生者よ、と。"

・・・、ナポレオンのそれは、かの明視明察の人のそれとしては、あまりに踏みつけな、心ないものである。
・・・、貴族と教会と農民によって成立している現国家体制に一言も言及していないことが何を意味するか、と、もしこの貴族、教会、農民が考えはじめたとしたらどういう答えが出され、いかなる不安がかもし出されるか。また、この国が如何に「ヨーロッパで革命のための準備がもっとも出来ていない国である」にしても、この機会に国家を建て直そうとて心に期するところのある人々に対しては、あまりに侮蔑的なことばの数々である。
それまでに、”スペイン人諸君”というものは存在しなかった。あるものは、貴族であり、農民であり、聖職者であり、アラゴン人であり、ナバーラ人であり、アンダルシーア人であり、エストレマドゥラ人であった。
が、この宣言自体が - 加えて一発の銃声が”スペイン人”なるものを誕生させるであろう。・・・
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