(前回までの経緯)
第二次サラゴーサ包囲戦が始まった。
1808年12月29日、フランス包囲軍は軍使を域内のパラフォックスに送り、降伏開城を勧告した。
降伏勧告は、言うまでもなく一蹴された。
かくて3ヶ月にわたる、怖るべき攻防戦が厳寒のサラゴーサに襲いかかる。
アラゴンの勇敢なる兵ならびに市民諸君、諸君は先きに北方(フランス)の有名な戦士たちを一寸刻みに切り刻んだ。余は諸君の勇気に満足である。あの犬どもは、奴らの血で血塗られた余の剣を拭う暇をさえも、余に与えなかった。されど、われらの難攻不落の城壁は、奴らのすべてが自壊をするための棺桶となるであろう。奴らの血に浸された諸君の剣の鉄は、われらの深き敬愛の的たるフェルナンド七世の王位をより強固なものとし、不滅のものとするであろう。
これが、フランス軍の開城勧告に対するパラフォックス将軍の返答であり、市民への布告である。兵も市民も、あげて白兵戦をやろうという決意の表明である。・・・
・・・(しかし)”犬ども”はじわじわと〝難攻不落の城壁〞の下に穴を掘って浸み入って来て、市の中心部にまで到り、そこで地下室にもぐり込んで爆薬を仕掛けるであろう。・・・
フランス軍のツルハシ部隊は、井戸や溝渠、墓穴にもぐり込んで地下道を掘鑿した。すでに市内で日夜、零距離射撃の白兵戦が展開され、銃剣と自刃の肉弾戦が展開されているとき、パラフォックス将軍は兵を率いて市外に出、サラゴーサの北方二四キロも離れたベルディゲーラなる村で会戦を求め、散々に蹴散らかされている。
市内では、数多い修道院の争奪戦が戦いの決定要素となる。修道院それ自体が小要塞のようなものだからである。ある修道士は四〇〇人の手下を引きつれて剣をもち、その手にも僧衣にも血をしたたらせて咆哮する、一月二七日に、「一日で一七人の奴らを、この手で喉笛を掻き切ってやったぞ!」と。
・・・人々は・・・、籠城戦にはつきものの飢餓と悪疫でばたばたと仆れて行った。市の街路には多くの屍が放置されていた。
二月一八日、フランス車は今日ではスペイン広場と呼ばれている市の中心に到達した。
これで終りである。
パラフォックス将軍は、この日から病気になり、地方裁判所になっている旧ルナ家(全世界を破門したベネディクトウス一三世の故家である)の地下倉に隠れて寝ていた。
降伏の条件は次のようなものである。
サラゴーサ市に対して全的宥恕が与えられる。
守備隊は戦時栄誉を持して出城し、門外二〇〇歩のところに武器を置く。士官は帯剣可にして、兵は背嚢を持つこと可。フランスに赴き、戦時捕虜となるものとす。
市民は武装を解除せよ、資産は保証される。宗教はこれを維持、敬せられるものとす。
百姓は自由に帰家せよ。官職にあるものはホセ一世に忠誠を誓うものとする。等々。
布告はそのままに実施された。パイレーンの場合のような裏切りや残虐行為はなかった。二月二一日、六五〇〇のフランス車の面前で一万三〇〇〇のスペイン軍が降伏をした。かくも少数の敵軍を前にして、かくも多数の祖国軍隊が降伏することに、「怒りと悲しみに彼らの獣のような眼がぎらついていた」、とフランスのある将軍が書いている。そうして総司令官ランヌはナポレオンに対して、「陛下、身の毛のさか立つ戦争でした」と報告する。
二月二四日に入城式があり、エル・ピラール大聖堂でのミサの後に、包囲戦中の行政機関の全員がホセ一世に対して忠誠を誓った。・・・異端審問所の地下牢に鉄鎖でつながれていた領主のピニャテルリ・フエンテス公は、フランス軍によって救い出されたが、日の目を見るなり喜びのあまりばったり倒れ、二度と立つことがなかった。
この二度の戦いで双方にどのくらいの損害が出たものか、フランス側は約六〇〇〇と数字が出ているが、スペイン側ははっきりしない、二万から五万といわれている。
サラゴーサは莫大な額の賠償金を申しつけられ、フランスの将軍たちは多くの宝石類を”受け取った”。
ところで”勇敢な”パラフォックス将軍はどうしたか。
二月二四日に、地方裁判所の地下倉からフランス車総司令部に対してフランスへの移送を五、六日のばしてもらいたい、その頃になれば(病気)はよくなるでしょうから、と要請し、手紙を「閣下の奴隷である拙者」と結んでいる。この願いは聞き届けられ、三月はじめに祖国を出てパリに連行され、郊外のヴァンサンヌの城館に監禁される。・・・
彼は一八一三年の一二月までそこにいさせられて、一四年になってからフェルナンド七世とともに再び租国に戻ることになる。しかしフェルナンドもこの男を決して信用していなかった。・・・
・・・ゴヤの描いている戦争の惨禍というものもまたその(*戦争の)細部にわたっている・・・
ゴヤ『戦争の惨禍』32
ゴヤ『戦争の惨禍』34
ゴヤ『戦争の惨禍』35
ゴヤ『戦争の惨禍』13「「見ていられない」
ゴヤ『戦争の惨禍』14「「辛い段」
ゴヤ『戦争の惨禍』15「かくて救いはない」
ゴヤ『戦争の惨禍』30「戦争による被害」
ゴヤ『戦争の惨禍』28「民衆」
ゴヤ『戦争の惨禍』29「報いを受けるに値した」
ゴヤが包囲戦の危機に瀕したサラゴーサをあとにしてマドリードへ帰りついたとき、マドリードもまた危機に瀕していた。ナポレオン自ら軍を指揮してすでに首都の北方一六三キロのアランダの町に到着していたからである。
マドリードの町々にはバリケードが張られていた。エル・レティロの広大な庭園には大砲が置かれ、志願兵として申し出て来た市民に八〇〇〇丁の銃と銃弾がわたされた。・・・勇気凛々たる人々も無論いたであろう。しかし多くの市民は「やがてくるに違いないことに対する悲しい予感」におびえていたであろう。町々を支配しているものは、すでに無政府状態である。
こういうときには、ほんのちょっとした動機で何が起るか、どういうことが仕出かされるかわからない。
不幸は市会議員の一人であるベラレス侯爵と彼の零に襲いかかった。かつてこの侯爵の妾であった屠殺業者の娘が、捨てられたことを恨みに思って、侯爵は”裏切り者だ”と言い触らした。侯爵はかつてミュラ将軍を訪問したことがあったからである。それは珍しいことではなかった。けれども被包囲者の心理は平時のそれでははかれないことは、サラゴーサでも多くの”裏切り者”が処刑されたことで、証明ずみであろう。「民衆」は侯爵家へ押しかけ、侯爵と抵抗をした家令を引き出し、さんざんにいたぶった末になぶり殺しに殺してしまった。
それが第二八番と第二九番である。両者ともに足首を長い縄でしばられ、街路を引きずられている。二八番では男が槍らしい長柄のもので突き、女が棒で撲りつけている。そうして左端にいる半月型の大きな帽子をかぶった傍観者は警察官である。無政府状態がここにまざまざと描き出されている。この二八番は「民衆」と詞書されている。意味深い詞書と言うべきであろう。
そうして二九番では、屍(?)を引きずっている二人の「民衆」の蔭で黒いシルエットになっている男が剣で、おそらくはとどめを刺そうとしている。このシルエットはおそらく兵士であろう。しかも意味深いのは、この二九番が「報いを受けるに値した」と題されていることである。それは、ゴヤもまた被包囲者心理の中にあって、この「民衆」の行為を是認する心境にあったことをあかし立てていはしないだろうか。
(ここで私はあることを思い出す。それは、かつての戦争が終って、私自身滞在していた上海から引揚げるときに、その引揚げ船で、戦争中に中国軍に捕虜とされ、重慶にいた旧日本軍の兵士たちと同船をしたことがある。船が上海を離れると、船内の空気が急速におかしくなり、この重慶にいた旧捕虜が、とうとう船底に引きすえられてリンチを加えられた。撲る、蹴る。暴民である。私は、やめろ、やめろと怒鳴った。しかし、私に出来たことは、この船、米軍のLSTの船長に通告することだけでしかなかった。そのことをこの二枚の銅版画を見るごとに、私は痛恨をもって思い出す。)
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